第7話 睦みの章
用意された夕餉を勢いよく平らげ、凪は湯殿に向かった。半刻も過ごして部屋に戻ると、既に膳は下げられ、夜具が用意されている。
肌触りの良い夜具に大の字に寝転がり、凪はぼんやりと天井を見上げた。
(湯殿があるだけでもありがたいのに、黙ってても飯も用意されるなんて、随分と贅沢をさせて貰ってる。これも全部、かげろう様のお陰だ。社の掃除だろうが何だろうが、心を込めてお世話しないと罰が当たるな)
これまで全て自分でやらなければならなかったことを、祭主家が肩代わりしてくれているのだ。昨夜の出来事が夢だろうが現だろうが、かげろう様という存在は、自分にとってありがたいものであるのは違いない。
熱心に神仏に縋ったことなどないかったが、これからは真心込めてお勤めを果たそう……明かりを消し、眠りに落ちかけていた凪の目が薄っすらと開いた。
さわ。
さわさわさわ。
衣の合わせから、身体をすべらかな何かが這う感触。
くすくすくす。
真っ暗闇の中、腹に跨り身体を弄ってくる女の影がある。覚め切らない、ぼんやりとした頭に浮かぶのは、
(何だ? あ、か、かげろう様、か……?)
にたっ。
影が真っ赤な唇を歪め、衣をはだけた。
それからも、毎晩のように女は現れた。
女からは初日の激しさは消え、ゆったりと逢瀬を楽しんでいるように感じられたが、凪がどれ程話し掛けても応えが返ることは無かった。
時折、にたっと笑う口元が闇に浮かぶものの、それが初日と同じかげろう様なのか別のかげろう様なのかは判らない。自分が、何故別のかげろう様などと思ったのかも分からない。ただ、屹度かげろう様に違いない、そう思うしかなかった。
女はいつの間にか暗闇に現れ、暗闇の内に去っていく。それが、行為に満足したからなのか明るさを嫌ってなのかすら分らない。ただ、女は満月の前後は姿を見せなかったから、恐らくは後者なのだろうと、何とはなしにもそう思えた。
暗闇の中、顔もよく見えない相手と交わるのは後ろめたくはあったが、不思議と恐ろしくは無かった。或いは情が湧いたのかとも思うが、それも何かしっくりこない。強いて言うなら、無碍にするのも気が引ける、というのが一番近いのだろう。害意は感じられないし、そもそも、つがいさんを引き受けたのは自分の意志だ。
夜毎の逢瀬は、凪の日常になりつつあった。
やがて、離れでの生活が半年を過ぎた頃。
(まさか、本当に神様の婿になるとは思ってなかったが……)
いつの間にか眠りに落ちていた凪が、鳥の囀りに飛び起きる。慌てて夜具を畳み、ひと息つくと、丁度朝飯を持ったひいが現れた。
ひいは膳を置きながら溜息を吐き、
「ああ、また。私の仕事を取られては困ります」
さっぱりとした質のひいは、最初の印象よりはるかに付き合いやすく、凪は親類の娘に対するような親しみを覚え始めていた。それだけに、明らかに一人寝ではない寝乱れた夜具を片付けさせるのは、どうにも気恥ずかしい。出来るだけ早く起きて自分で片付ける凪を、ひいが困り顔で諫める、という遣り取りが彼等の日課だった。
目の前に置かれた膳に箸をつけ始めた凪に、ひいが腕を組み、盛大に息を漏らす。
「この家の者は皆、かげろう様にお仕えする為に居ります。勿論、つがいさんのお世話も含まれてます。仕事が無い者は、ここに居ることは許されません」
「本心ありがたいと思ってるから、せめて、夜具くらいは自分で片そうと思ってさ」
「ならば、仕事をお返しください。それこそ、つがいさんお一人分の夜具の片付けくらい、どうということもありません」
ぴしゃりとしたひいの言葉に、凪がぎくりとした。
(『一人分の夜具』……そうだ、あの夜以来、用意されているのはいつも一人分じゃないか。あれがかげろう祭りで、今も続いてるなら、夜具も飯も二人分用意される筈じゃないのか……)
もやもやとした違和感と共に、いつかのあわいの言葉が浮かぶ。
『他の女子と契るのはもっと許さぬ。お前様はかげろう様の婿殿なのだ』
もし、夜毎に現われる女がかげろう様でないのなら……凪が己の考えに沈みかけた時。
「どうなさいました? 何か、気に掛かる事でもおありですか?」
ひいに顔を覗きこまれた凪の眼が泳ぐ。その時、赤子の小さな泣き声が聞こえた。
凪は咄嗟に、
「……母屋に赤ん坊が居るのかい?」
「え?」
「泣き声が聞こえる。そういえば、初めてここに来た日にも聞こえたっけ」
ひいさんに、いや、この家の者に、あの女のことを知られてはいけない……誤魔化すような凪の態度を訝りつつも、ひいは「ああ……ええ」と眉を曇らせた。
「親なし子を預かっているのです。親類と仰る方が、随分と離れた里から、態々預けに来たのですよ」
赤子は可愛い女の子で、預けに来た親類とやらは暮らし向きが苦しく、その子を育てる余裕はない。困り果て、どこで聞いたのかこの神社を知った彼等は、赤子を預けに来たのだ……ひいがぽつぽつと語った。
「ですから、『預かっている』とはいっても、その子の引き取り手はいないのです。あわい様は、丁度良いからこのままここで面倒をみるとお決めになったみたい」
「そうかあ。その子は運がいいな。生い立ちは気の毒だけど、こんな立派な家で大事に育てて貰えるんだから」
「そう、でしょうか……ここで暮らすということは、かげろう様の為だけの存在になるということです。それが、あの子にとって良いことなのかどうか……」
珍しく、ひいが言いよどむ。普段のひいは、あまり自分を表に出すことはないが、歯切れの悪い話し方をすることはない。
余程、赤ん坊を案じているのだろう……凪は敢えて明るく、
「誰しも、生まれ持ったさだめってものがある。でもさ、辛くても、そうやって気にかけてくれる人がいるってのは、嬉しくてありがたいもんだ。今度、その子を紹介してくれ。役に立てるかは分からんが、俺だって赤子の遊び相手位はなれるだろ」
「……そうですね。ありがとうございます」
ひいは、食べ終えた凪の膳を手早く片付け、一礼すると部屋を下がった。去り際にちらりと向けられたひいの視線にも気付かず、凪は心ここに在らずなまま、身に付いた習性で仕事道具を手に取る。
その手は止まったままだ。
凪にとって、いや、屹度この家の者にとっても、かげろう様は確かに居る。そして今夜もかげろう様――あの女が現れたら、やはり自分は断らないだろう。
だが、それは。
かげろう様の存在と赤子の声が心を乱す。
(もしかして、神様と人の間にも、子は出来るんだろうか? かげろう様は――本当に、神様なのか?)
それを問える相手は何処にも居ない。
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