第10話 夢蜆の章
「……私を愚弄するつもりかえ?」
めらめらと立ち上っていた炎がかき消え、神域は何時ものひんやりとした景色を取り戻す。
影は景色の変化にも目を向けず、
「いえ、そのようなつもりは全くございません。ただやはり、輪廻を外れた陽炎の身では、以前とは違う心持ちになっているものではないかと思いまして」
「……なんだと?」
「理不尽で、先の見えぬ不安や不自由な
威嚇するように歯噛みをするあわいに、涼しい顔で歩み寄った影は、鼻白むあわいの隣に腰を屈めると、凪の姿が浮かぶ白い水面に手を翳した。
水底から立ち上る大きな泡で、映し出されている景色が歪む。慌てて影を突き飛ばそうとしたあわいの手が、ひょろりとした身体に触れる寸前に止まった。
白濁した水面が波立ち、瞬きの間に曇りが晴れる。すっかり見通せるようになった水底に、時折白い斑を柔らかく光らせる黒い大小の塊と、何のものとも知れない白骨が散らばっている。
その真ん中に、一抱えもありそうな真っ黒で光沢のある二枚貝が一つ。
こぽん。
貝が、虹色の泡を吐き出した。立ち上った泡が水面で弾け、幾筋もの輪を作る。
影が水に翳した手を退けると、水は再び白濁し、水底の景色を閉じ込めた。
「数か月で随分と大きくおなりでいらっしゃる。可愛らしい
「……かげろう様とお呼び」
影は立ち上がり、あわいに向き直ると丁寧に頭を下げた。
「失礼いたしました、新たなかげろう様がお健やかで、何よりでございます。これでまた暫くの間、この地に豊かな恵みがもたらされましょう」
「お前、何者だ。何を知っている?」
「恐らくは、全てを」
影が、しれっと返す。
大蛤と同様、夢蜆は蜃気楼を吐き出す。楼閣のみならず、自由に動き、触れることの出来る、
己を護る為、それ以上に命を繋ぐ為に、夢蜆は幻を吐き続ける。
「既に、かげろう様には凪様は不要でございます。であれば果たして、凪様はどなたの婿殿でございましょう?」
二十年に一度、夢蜆は他の生き物の姿を取り、一夜の睦みを交わす――雄の存在しない彼女が母となる為には、協力者を必要とした。
協力者はどんな生き物でもよかったが、以前と同じ個が相手では、卵を作ることは出来ない。夢蜆は水底の骸から得た記憶を頼りに、蠱惑的な姿に
幻は、そうして得た卵が孵るまで親子を守るために存在している。
やがて、寿命を迎えた親貝は水に溶け、孵ったばかりの子の養分となる。それは子のみならず、水場の周辺にも恵みをもたらし、土地には様々な動植物が集まる。集まるものが増えれば、はずみで水に沈み骸となるものも増える。そこから再び都合のいい幻を選び、夢蜆は命を繋ぎ続ける。
何代か前の夢蜆が人を選んだのは、偶然に過ぎない。
彼女が作り出した幻は、夢蜆が静かに暮らせるように、どこにでも現れる人間達に棲みかを奪われないようにと、「かげろう様」を慎重に創り上げた。
祭主家の分家へと奉公に出た筈の女達を幻に加え、かげろう様の棲みかは、より強固なものへ。
やがて、水に溶けた親貝の産んだ幻は子貝へと引き継がれ、穏やかに、緩やかに、里を支配した。
あわいが影――りんを睨めつける。
「もう一度問う。何者だ。単なる薬売りなどではなかろう」
「本当に薬売りでございます。貴女様よりも、かげろう様とのお付き合いは長ごうございますが」
「ならばお前も、私と同じ『人で無し』か」
「確かに人ではございませんが、彼岸の住人でもございません。強いて言うならば、かげろう様と同じような存在、でございましょうか」
そういった訳でかげろう様のこともそれなりに存じているのです、と微笑むりんに、あわいが眇めた目を向けた。
「何が言いたい? 確かに私は……ただの幻だ。だが、かげろう様にお仕えする身を貶められる謂れは無い。あの赤子とて、いずれ淵に沈みさえすれば、その後は若き面影のまま暮らせるのだ。そう不幸でもなかろう」
りんが口の端を持ち上げ、
「幸不幸は、ご本人様がお決めになるべきと存じますが」
「私も婿殿も赤子も、かげろう様のものだ」
「凪様は凪様の、赤子は赤子の、わたくしの商いのあがりはわたくしのものでございます。ご自分をかげろう様のものと仰る貴女様と同じに論ずるのは、無理がございましょう」
あわいが声を振り絞る。
「御託はよい、私の邪魔立てをするな……たった二十年ぽっち、惚れた男と過ごして何が悪い!」
独り歩きを始めた幻の一人が、里の若者に恋心を抱いた。どうしても若者を手に入れたくなった幻は、本来選ばれる筈だったつがいさんを夢蜆の力で首尾よく消し、その代わりに、愛しい若者を指名した。
「凪様は美男子でいらっしゃる、貴女様が心奪われるのも無理はございません。ええ勿論、凪様も同じお気持ちでございましょうとも。二十年後、晴れて自由の身となった巫女と神の婿が幸せに里で暮らす……実に美しい恋物語でございます。貴女様の想いに、かげろう様が協力して下されば、でございますが」
あわいが下唇を噛み締めた。
凪の心があわいに向いたことは一度も無かった。向いていたとしても、それはかげろう様へのものだ。
夢蜆にとって、凪もあわいも、生きる手段の一つに過ぎない。凪の役目は既に終わり、正道を外れた幻の想いに、夢蜆が手を貸す必要は無い。
あわいの両手が、りんに向かう。
「どうせ一度死んだ身だ、消されても構わぬ。だが、私以外の誰かが婿殿に触れるのは許せぬ。私が消える前に婿殿を消す。邪魔立てするならお前も消す。消えたくなくば、そこをおどき」
あわいの指先が、布の巻かれたりんの胸元に僅かに触れた瞬間。
りんの瞳孔がきゅうっと縦に伸び、その奥に憤怒の炎が灯る。
「先程のわたくしの言葉、お詫びいたします。確かに、貴女様は単なる幻などではございません。凪様やかげろう様と何等変わることない、欲深く、己を貫き通す、命そのものでございます」
あわいの細い手首を、更に細い手が信じられない力で握りしめた。あわいの口から呻きが漏れる。
「貴女様が触れたいのは、わたくしではない筈。相手をお間違えになってはいけません……それとも、それが貴女様の手管でございますか?」
幻である筈の手首がぎしりと軋み、あわいの背が苦痛に仰け反る。
「布越しでも、断りもなく触れられるのは好い気分ではございません。ですが、ご安心下さいませ、こう見えてわたくし、殺生を好みません。貴女様がどんな存在でも、わたくしがこれ以上手を下すことは無いとお約束致します」
「何故、惑わぬ……かげろう様の力が、効かぬ……」
苦し気に短く息を吐き、りんを睨みつけるあわいの顔がぼやけた。
切れ長の大きな瞳が細く厚ぼったい瞼へ、小さく通った鼻筋は少し丸みのある鼻へ。瞬きの間に、細面の美しい面は、すれ違ったら次の瞬間には思い出せない平凡なものへと。ほっそりとした肢体と白く透ける肌は、がっしりとした農婦のそれへ……
ゆらゆらと、夢蜆の幻が
縄張りを守る為に作り出されただけの存在が、主を危険に晒すことなどあってはならない。あわいは己が見限られたことを悟った。
「……見るな」
「それが貴女様の本来のお姿でございますか」
「見るなと言うた!」
眦を吊り上げ声を荒げるあわいの耳を、隙間風のような声が逆撫でる。
「先程までの姿もお美しゅうございましたが、今のお姿も良うございますね」
「私を嘲弄するか。お前に何が判る。神でも人でも、結局は若く美しい女が愛される! 婿殿とて所詮男よ、美しい女が良いに決まってる!」
だから、かげろう様の身を写した。
ぎらぎらと目を血走らせたあわいの身体が、徐々に透け始める。存在意義を無くした幻が消えていく。
「嘲弄などとんでもない、本心でございます。ですが成程、貴女様にとっての凪様もまた、幻のようなものということでございますか。まさに
「……黙れ……」
後ろめたさと自尊心から、真の姿も晒せず、闇の中でしか交われなかったけれど。
「あの男は、婿殿は、私のものだ……!」
総身を振り絞ったあわいの叫びと同時に、りんの手が握りしめられ、
ふわり。
僅かに空気を揺らがせ、あわいの姿は掻き消えた。
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