第11話 ひいの章
かさ。
りんの背後から、草を踏みしめる音と共に、一人の女がひっそりと姿を現した。
ゆっくりと振り向くりんに、女が深々と頭を下げる。
「ありがとうございました。貴方を探し当てられたお陰で、一層の決心がついたんです」
「これはご丁寧に。ですが、顔をお上げ下さいませ。わたくしは自分の利益を求めただけでございます。眠り薬のお買い上げ、誠にありがとうございます。まさか、あのような山中で薬をお求めになる方がいらっしゃるとは、夢にも思っておりませんでした」
「あまりにも
「ご心配には及びません。特別な材料で拵えておりますから、例え赤子であっても身を損なったりなどいたしません。その分、お代についてはご勘弁下さいませ」
飄々と答えるりんに、女は笑って頷く。
「あの子が『なな』と呼ばれる前にここを逃れられたのは、つがいさんと貴方のお陰です。どれ程礼を尽くしても足りません。申し遅れました、私はひい……いえ、あわい、と申します」
幻に加わった女は、元の名を捨てられる。新たに与えられるのは、幻になった順に、ひい、ふう、みい……もしも「あわい」が消えるようなことがあれば、次のあわいになる為の名だ。
「これはご丁寧に……『クスノキのりん』と申します。りん、とお呼び下さいませ、あわい様」
「……まだ、その名で呼ばれるのはおかしな感じだわ。やっぱり、ひい、と呼んでください」
あわいとなったばかりの女が淵を覗きこみ、乳白色の水面に優しく指を触れる。
さあっ。
指を中心に水の輪が広がる。
「ご自分も消されてしまうかもしれない危険を選んだのは、かげろう様をお守りする為ですか? それとも、ひい様にも、凪様への秘めた想いがあるのでしょうか……そのようには見えませんが」
りんの不躾とも取れる問いに、
「女心を決めつけるのは、如何なものでしょう。つがいさんは……凪は、良い男です。慕っていても、おかしくないでしょう?」
「…………」
女が微かに苦笑した。
「……昔々、ある女が足を滑らせ、淵に沈みました。骸は浮かぶことなく、女の死は誰にも知られることはありませんでした。女には細工師の夫と赤子がおり、それが心残りでしたが、優しい夫は、消えた妻の分も娘を大事に育ててくれました。やがてその子も大人になり、所帯を持ち子を生み、それからも物語は続きました」
幻となった女は、かつての自分の痕跡が続いていく様を、物語を紐解くように眺め続けた。いつしか、どれ程眺めても心が凪いだままであることに気付いた時、己が幻であることに心底納得した。
それでよかった。
何の罪咎もない赤子が祭主家に預けられてくるまでは。自分の絆の末が、つがいさんに選ばれるまでは。
無くした筈の心が、懐かしさに揺らぐまでは。
「私にも心が残っているなんて、この身になってから考えたこともなかった。そして、あわい様にも……」
己に残る思いに戸惑いを覚えた。
夜毎離れに通う美しい女の正体に、恐ろしくなった。かげろう様への裏切りのようで腹も立った。
だがそれ以上に、身を変えてまで凪に通うあわいが……とても哀れだった。
「……どうしてでしょうね、今だって、胸の奥は冷えたままなのに」
女は穏やかな瞳を淵に向けた。
「あの子達が自由を手に入れられるなら、消えても構わないと思ったんです。世話係は、私を含めまだ六体も控えてますもの。でも、かげろう様はまだ私を消す心算はないみたい。それに、貴方だってあの子達を導いてくれたでしょう? においで気付きました」
「なにせ、儲けがかかっておりますから」
りんの大真面目な答えに、女は破顔した。
「何かに縛られることが、不自由とは限らないのかもしれません。私、かげろう様が好きです。ひっそりと生きて、次に想いを託して、消える。その在り方が愛しいんです。守ってあげたいって思います。幻なのに変ですか? もしかしたらこの気持ちすらも、かげろう様に授けられたものなのかもしれませんが……」
女が満足気に、優しく問う。
「かげろう様を、お連れになりますか?」
「何故、そのようにお考えになるのでしょう」
「分かりますよ。常ならば、あわい様もすぐに気付いた筈です。貴方とかげろう様は、どこか似ておいでということに……お連れに、なりますか?」
再びの問いに、りんが首を振った。
「いずれは。まだ時ではございません」
「いいんですか?」
「ええ。今のかげろう様はこの地に馴染み過ぎてしまってます。彼女が人を見限るその時に、改めてお迎えに上がりましょう。ですから、なるべく早目に彼女を連れられるよう、尽力くださいませ」
にこりと、晴れやかに微笑んだ女が、深々と頭を下げた。
「心得ました」
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