【完】エピローグ


 歩道脇の茂みに突っ込んである空き缶をトングで掴み、ポリ袋の中に放り込む。


 ペットボトルに弁当の容器、タバコの吸い殻、落とし物なのか捨てられたのかわからないハンカチなど、朝方の近所は意外なほど雑多なゴミが見つかる。さらに進んだところには、電柱の前にからになったカップ酒が数本、腹立たしいほど几帳面に並べられていた。


 ――わずかでも美意識が残っているなら、道端にゴミを捨てないでくれ。


 やるせない思いが当事者に届くはずもなく、俺はただ無心で手を動かす。それが片付いたらまた歩いて、ゴミを見つけたら拾い、繰り返しながら路地を進んでゆく。


 しばらくすると大通り沿いに面した、小さな駐車場にたどり着いた。


 一角には軽トラックが停められており、それに寄りかかった男性に声をかける。


「おはようございます。こちらの集荷、お願いします」


 その人はシワの目立つ顔をくしゃりと破顔させながら、


「おお、ありがとうね銀平君。大変だろう? これから仕事の時間だろうに」

「いえ、今日は休みなので。平田さんこそお疲れ様です」

「そうかい? あれ、仕事何してるんだっけ……?」

「駅前のカフェで働いてます。接客業なので、平日に休みが入ることもよくあるんです」


 ああ、そうだったそうだったと、合点がいったように手を叩く。


「なんにせよ助かるよ。やっぱりね、若い人が力を貸してくれると嬉しいし、僕みたいな年寄りも多いから。うちは」


 首に巻いていたタオルで汗をぬぐい、にこやかな表情に恐縮ですと笑い返す。


 平田さんは俺が手伝いをしているボランティア団体のスタッフで、口ぶりの通り去年、還暦を迎えたらしい。一般的には高齢者と呼んで差し支えないが、荷台に軽々とゴミ袋を積み上げる姿や気さくな人柄を見ていると、いい意味で年齢を感じさせない。


「これでよし、と」


 他のスタッフとのやり取りを終えたのだろう。スマホを懐に収めた平田さんが軽トラックに乗り込み、ドアを閉める。


「じゃあゴミ出してくるから、またよろしくね。銀平くん」

「はい。ありがとうございました」


 遠ざかっていくエンジンの音、朝日を反射するサイドミラー。視線を脇に向ければ黄色い帽子にランドセルが目立つ、小学生たちが歩いてきている。


 すれ違いざまに響き渡った元気のいい挨拶に、俺は笑顔を作りながら手を振り返した。


「おはよう。気を付けていってらっしゃい」


 早起きはまだ体に馴染まないようで、帰る途中、噛み殺していたあくびが漏れてしまう。通学路の清掃にいそしもうと思ったのは気まぐれではなく、まして誰かに強制されたからというわけでもない。


 俺が自主的に、かつボランティア活動の一環として取り組んでいる事だった。


 きっかけは明確だった。今から三週間前、俺と芽衣さんの関係性が一歩進んだものに変化したあの日。彼女の打ち明けてくれた夢の話が、今の俺を決定付けた。


「――わたくしね。いつか世界中の困っている人たちを助けたいんですの」


 大それた夢だなと、最初は思った。


 決して馬鹿にするつもりはなかったし、言っている事の意味もわかる。ただ、あまりにも抽象的で具体的なイメージも浮かんでこなかったため、俺は「どんな事をして助けるんですか」と問いかけた。


 芽衣さんは困ったように眉を寄せて、


「それが……実を言うと、ほとんど決めていませんの。井戸を掘って水を与えたり、食糧支援や教育の普及……今言ったのもぜんぶ、聞きかじっただけの事ばかりで。でも一つだけ、明確にこれをしたいという目標があります」

「それはいったい?」

「わたくしの家の服を、着せてあげたい」


 線香花火の切ない火花が、決意を宿した瞳を照らす。


「そのためにわたくし、考える事はやめませんわ。自分なりに考えながら、自分なりの人助けを続ける。この軸を見失わなければ、絶対に夢は叶うからと――わたくしは信じていますわ」

「……芽衣さんは」ためらいを振り切って、飲み込もうとした言葉を口にする。「漫画やアニメに登場する、ヒーローとかヒロインみたいなことを言うんですね」

「漫画……?」

「今まで隠してましたけど、好きだし、よく見るんです。ゲームとかそういうのも」


 具体的な算段もなければ、夢を叶えるための道筋もあいまいで。けれど熱量はあって、彼女の言葉を借りるなら“軸がある”と言うのだろう。


 小さい頃から虚構きょこうの中にしか存在しない彼らを信じ、夢中になっていたのは――少なからず、憧れを抱いていたせいかもしれない。


 芽衣さんの力になりたい。

 彼女の大切な人として、そして自分の心に根付いた“軸”を忘れないために。


 夜空に浮かんだ二つの星にも、俺は誓う。


「俺も一緒に考えます。困っている人を見かけたら手を差し伸べる……二人ならもっと、多くの人に手を伸ばせると思うから」


 月をまたいで九月中旬、しぶとい残暑が秋の入り口を遠ざける。


 夕方になると家を出て、俺は待ち合わせ場所に決めていたカフェへと向かう。無論会う相手は芽衣さんであったが、毎日のようにお茶をしているわけではない。都合が合う日に会える時だけ。


 今日は偶然、その日だった。


「あっ……! こんにちは銀平さま、ごきげんよう!」

「こんにちは。四日ぶり、ですね」


 まだ残る暑さのせいか制服は袖の短い夏服で、セミロングの黒髪はハーフアップに。この装いの芽衣さんはいつ見てもお嬢様然とした雰囲気を纏っている。


 思わず気おくれしてしまいそうになるが、砕けた笑みを見ているとそれさえどうでもよくなってしまうのだから不思議だ。


 適当な飲み物を注文して席に着く。互いの想いを伝え合ったあの日から、芽衣さんとの距離が縮まったのは気のせいではない。他愛ないチャットでのやり取り、互いの近況、趣味や好物の話など、振り返ればむしろ今までがぎこちなかったとさえ思えてしまう。


 一方で、いまだままならない事も存在する。


「――それにしても、まだ不思議な感じが致しますわ。学校帰りに、こうして銀平さまとお話できるなんて……」

「そう、ですね」

「……銀平さま」


 芽衣さんは口に含んだチャイティーラテのカップを置き、


「わたくしとお話しするときは敬語はいりませんわ。その……こ、恋人同士なのですからっ! どうか遠慮なさらずに!」

「なんで頬を赤らめるんですか……一応努力はしてるんですが、意識しないとなかなか難しくて。すみません、芽衣さん」

「もうっ、もいりませんわ! わたくしの事は気軽に“芽衣”と呼んでくださいませっ!」


 ――かれこれ五年は纏っていた言葉の鎧を、本格的に外す必要に迫られようとは。


 水遊びのボランティアに参加した際は外した事もあったのだが、あれは一時的なもので今よりも抵抗は少なかった。


 しかし、あの時とは相手も状況も違うのだ。


 目の前にいるのは恋人になった芽衣さんで、なぜだか期待の入り混じった視線で俺を見つめている。まるでヒーローが変身する瞬間を待ち望む子供のような――


 無邪気なまなざしに耐えかねて、もう一枚の鎧に手をかける。


「……恥ずかしいけど。芽衣がいいなら、このままで」


 過去の自分が今の俺を見たら、いったいどんな反応を返すだろう。無視か、それとも信じられないか。そんな予想をさておいて、俺はもう少し、素直になろうと決意する。


 目の前で顔を真っ赤にしているのは、俺の大切な人なのだから。

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