第23話 裏目
教室に出来たひとつの空席が、わたくしにはひどく寂しく思えたのです。
最初はただの病欠であると、どこか楽観的に構えていたのもあるのでしょう。風邪や熱であれば長くても二日か三日程度。けれど日数が
よこしまな好奇心で、その事を担任の先生に質問するクラスメイトも少なくありません。
小学生だったわたくしは放課後、職員室へ向かって、なるべく誠実さが伝わるよう先生に問いかけました。言葉を選んで、
果たしてそれが功を奏したのか、先生は顎の先を指でつまみながら、
「……いたずらで聞きに来たって訳じゃないんだもんな。芽衣は」
きっと、
姿勢と振る舞いに気をつけなさい。言葉遣いは丁寧にあるべし。両親とおばあさまの
――どうやらいじめを受けているみたいなんだ。
先生は背中を丸めて、両手の指同士を絡ませます。
帰り道、通学路が一緒のクラスメイトに
話を聞くだけで胸が痛んだ経験は、たぶんその時が初めてでした。
いつからその男の子は、一人で、どれほど辛い思いをしてきたのだろう。どうして彼をいじめる人たちは、そんなにひどい事ができるのだろう。
悲しさと行き場のない怒りとが
考えた末にたどり着いたのは、子供ながらの
「……め、芽衣ちゃん。だいじょうぶ? ほんとうに、一人で行くつもりなの?」
「大丈夫ですわっ! 誰かが話を聞いてあげれば、きっと気が楽になる。そうすれば、また学校に来てくれると思いますもの!」
そう言ってクラスメイトの不安を
困っている人がいたら手を差し伸べてあげる事。それも両親やおばあさまから教えられた大切な事ですから、自分の行動を疑ったりなんてしませんでした。
放課後、塾があるというのに無理を言って案内を引き受けてくれたクラスメイトにお礼を告げて、深く息を吐く。あたりは閑静な住宅街で、休んでいる子の家はすぐ目の前にありました。
緊張のにじむ指先でインターホンを押すと、さほど待たずにドアが開き――チェーン越しに立っていたのは、学校を休んでいた男の子。
「……えっ、なんで……」
戸惑いに負けてはいけません。わたくしはお友達にそうするようにして笑顔を作り、
「こんにちは! なんて、あらたまって挨拶するのも恥ずかしいですけれど。お元気でしたか?」
「……そう見える?」
「えっ? ええと……」
「何なの、急に来て」
用件があるなら手短に、なければ早く帰ってくれ。
脈絡を無視してかけられた言葉は結論を急いでいました。ですが、どちらの希望にも応じる訳にはいきません。
「おやすみが長引いているのが心配で、様子をうかがいに来てしまいましたの。わたくしで良ければ話し相手になりますわ! 一人だと退屈ではありませんか?」
「別に。ゲームあるし……学校、行きたくないから」
「そ、そうでしょうか? いえ、そうですわよね――」
苦笑いを浮かべていると男の子ははっとした表情に切り替わり、
「……先生に何か言われたでしょ」
「え? いえ、わたくしは……」
「いいよ隠さなくて。そもそも通学路、逆でしょ? 普通に考えて来るわけないし……言っとくけど、もう転校しようかなって親とか先生たちと話進めてるんだ。だから、特別何かしてあげようとか思わなくていいよ。部活もやめるし、もうあいつらとも関わりたくないから」
不意の距離感に心が驚く。
「っ……そんな、悲しい事を言わないでくださいませ! 誰にいじめられていたのですか? わたくしが話をしに」
「だからもういいんだってッ!」
悲鳴によく似た叫び声。わたくしが目をつむった瞬間に強い風が吹き込んで、玄関の戸棚に置いてあった野球ボールが男の子の足元に転がり落ちる。
けれど彼は、それを
「……無理だよもう。ただでさえいじめられるような弱い奴なのにさ。クラスメイトの女子に助けられて帰ってきましただなんて……かえって、またっ、バカにされるに決まってるっ。だから――」
ごめん。
その言葉を残して、冷たい施錠音がどうしようもない壁を作る。
精一杯に声を上げれば、まだ彼の耳には届いたのかもしれません。でも、かけるべき言葉が見つからない。分からない。扉を叩いていた手は次第に力を失い、手のひらを押し当てたって何も変わりません。
「……わたくしは……何も良くなんかありませんっ……!」
――やっと言葉を拾えたのに、もう届くことはないなんて。
握った拳のつま先が手のひらに食い込む。もしもこの手をちゃんと伸ばすことが出来ていたのなら。
中途半端な自分を、これほど悔やむこともなかったのでしょうか。
◆
誰かを救えなかった経験が、芽衣さんを人助けの道に駆り立てた。
きっかけとしては十分に理解できる
芽衣さんは姿勢を正し、それから顔を上げて俺を見る。気付けば店内には、俺たち以外に一組程度の客しかいなかった。
「大した理由であるとは口が裂けても言えませんわ。でもあの時の事を思いだすと、いても立ってもいられなくて……今度は正しく、誰かに手を差し伸べられる人間になりたい。そう思って、ボランティア活動に精を出して参りました」
困ったような悲しい笑みを浮かばせながら、
「身勝手ですわよね。でももう、助けるフリをしたくなかったのです」
俺は、いじめられていた側の人間だ。
だから共感したというのも失礼な話だが、そのいじめられていたクラスメイトの話でひとつ、思う所があった。
もし俺がその男の子と同じ立場だったとして――異性から差し伸べられた手を、素直に取ってやることは出来ただろうか。
弱い奴だと馬鹿にされるかもしれない。
あいつは女子に
まして当時は小学生なのだ。乗り超えるべき壁の厚さは、たぶん俺が感じるよりも厚いのではないだろうか。
誰かに「助けてほしい」と手を伸ばすのは難しく、そしてとても勇気のいる行為だと俺は思う。
「……芽衣さん」
芽衣さんの奥底に根付いた鎖をゆるめてやりたい。己の身勝手さのツケを払い続けているというのなら、清算はとっくに終わっている。
決してうぬぼれなどではなく、それを伝えられるのは俺しかいない。
「芽衣さんは……もう助けるフリなんかしてません。このあいだ俺が危険な目にあってる時、怖かっただろうに、体を張って助けてくれたじゃないですか。あそこで勇気を出せたのは……自分の中に、後悔があったからじゃないんですか? 中途半端な自分に対する、後悔が」
弱々しい光をたたえていた瞳がかすかに見開かれる。
「少なくとも俺は……救われましたよ。間違いなく、芽衣さんに」
我ながら感謝を伝えるのが遅すぎた。本来であれば、この言葉は数日前に言っておくべきだったのだろう。
けれど芽衣さんは
「……後ろ向きな自己満足でしたのに。そう言ってくださるのですね」
「それでも、俺にとっては本当の事ですから」
ドアベルの音が鳴り響くと、店内にいるのが俺たちだけになったと気が付く。会計を終えて外に出て、再び街を歩きはじめる。
隣を歩く芽衣さんとの距離が縮まったのは、気のせいではなさそうだった。
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