第20話 なりふり構わず舵を切れ


 かつて、これほどまでに悩んだことがあっただろうか。


 部屋の壁にもたれかかりながら、数日前で時間の止まったチャットルームを開く。するとそこには待ち合わせはどこにしますか、時間は、と水着を買いに行くためにやり取りをしている俺と芽衣さんがいた。


 口実はたぶん、いくらでもあった。


 昨日は無事に帰れたのか、両親から心配されなかったか。もっと単純に心配しているという内容のメッセージを送ってもいいはずで、しかしそれが出来なかったのは、目には見えないみぞが生まれたと思い込んでいるからだ。


 あんな事に巻き込んでしまった翌日に、何をいけしゃあしゃあと――二の足を踏もうとする理性を差し置いて、文章を書いては消してを繰り返す。


 その仕草を手癖のように行っていたのがいけなかった。


『こん』


 思わずあっ、と声が漏れた。


 「こんばんは」という挨拶が中途半端なフランクさをまとい、さすがにこれはないだろうと取り消そうとする。だがすぐについてしまった“既読”の二文字に、俺は退路を断たれたような心地になった。


『コン?』

『きつねさんでしょうか?』


 天然なのか素なのかいまいちわかりづらいリアクションの後、可愛らしいきつねのスタンプが送られてきた。漫画のような吹き出しに添えられた「コンばんは」という挨拶に、そこはかとなく脱力感を誘われる。


『こんばんは、芽衣さん。銀平です』


 掃き出し窓を開けてベランダの欄干らんかんに背中を預けながら、


『昨日は本当にすみませんでした。あの後はちゃんと家に帰れましたか?』


 肩を撫でる夜風が言葉を運んでくる。


 タイムラインを繰り上げたメッセージは少々長めの一文だったが、無事に帰宅できたことと親にひどく心配された事、なるべく危ない事には関わらないようにと、釘を刺されたらしいことが書いてあった。


 再来した罪悪感はため息ひとつで消せるものではない。けれど子を心配するのが親という生き物であり、当然の義務でもあるのだ。


『結構、叱られたりとかしたんですか?』

『いいえ』

『注意こそされましたが、比較的穏やかでしたわ。親としての当たり前の事をされているのは理解しているつもりですし』

『わたくしが汚れて帰ってきた時の方が取り乱していた気がしますわ』

『そうですか』

『大事ないようで、ひと安心です』


 ふと自分の頬を触ってみると、かすかに出来上がっていたえくぼに触れた。


 無意識にゆるんでいた表情、上がっていた口角。それらは手で触れた瞬間に消えてしまったが、しずくが落ちて水面に波紋が起こるように、俺の心を揺さぶり始める。


 ――自分はいったい、いつから笑っていたのだろう。


 芽衣さんからの既読がついたタイミングか。それとも今しがた無事を確認できたタイミングでなのか。


 ぐるぐると自問自答が始まろうとしたその時、突然スマホの画面が切り替わった。表示されたのは“さなだめい”という名前と受話器のボタン――


 芽衣さんからの通話だった。


「……もしもし」


 おそるおそるボタンを押して通話をオンにする。するとスマホ越しでも分かるくらい、あどけない声に耳をくすぐられた。


『――あっ。も、もしもし? 聞こえているでしょうか?』

「大丈夫です。……でも、びっくりしました。急に電話がと思って」

『もしかして迷惑、でしたか?』

「いえ全然。むしろ、芽衣さんの方こそ大丈夫なんですか? 寝る時間が決まってたり……」


 声を聞くなり芽衣さんはぷっと息を吹き出して、


『銀平さま、今はまだ九時ですわ……! さすがにこの時間から寝なさいだなんて決まりはありませんわよ』


 農家の人間や幼稚園児でもなければとこくような時間帯ではないだろう。

 そうですね、失礼しましたと相槌あいづちを打てば、今度は破顔はがんする瞬間がはっきりと分かった。


 何気なく渡された会話のパスを受け取って、俺たちは互いの話に花を咲かせる。


 と言っても俺の身の回りで起きた出来事なんて、おやっさんと夕飯を共にした事ぐらいなものでさして面白い話でもない。昨日の今日なのだから当たり前だ。


 一方の芽衣さんはと言うと、今日は夏休みの課題を片付けていたらしい。


 なんでも先日のボランティアの為に計画的に進めていたそうで、今日ですべての課題を終わらせた。だからあとは好きなだけ遊ぶ予定ですわと、心底晴れやかな口調で語ってくれた。


「……夏休みって、あといつまでなんですか?」


 ――なんで俺に電話をかけてきてくれたんですか。


 胸の内にあった疑問ととってかわるように言葉が口をついて出る。おそらくもう予定が頭に入っていたのだろう、芽衣さんは間を置かずに答えてくれた。


『今週の木曜日までですわ。今日が月曜日なので残り三日……ふふ、振り返ってみると本当にあっという間でしたわね。それが夏休みというもの、なのかもしれませんが』

「三日……」

『銀平さまはお仕事ですか?』

「ええ、まあ……ただ今、どうしようか決めあぐねているところです」

『いま……?』


 芽衣さんの夏休みが終わるまでの三日間。どうしてか俺にはそれが、彼女と会えるタイムリミットのように思えてならなかった。


 彼女から誘いを受けたボランティアは終わり、俺も芽衣さんも、あとはいつも通りの日常に帰っていくだけ。それでいいはずだと、自然な流れであると、以前の自分であれば素直に納得していたに違いない。


 けれど、今の俺は違っていた。


 叶うのであれば流れに逆らいたい。自らの意志でかじを切ってみせたいと、有り余る衝動に胸を突き動かされている。


 この衝動に青臭くも瑞々みずみずしい名前がついている事を、俺は三ヶ月前に知っていた。


「……その日のどれか、俺にくれませんか」


 命綱を握るつもりでベランダの手すりをつかむ。


 大事にしてやれよ、ギン。脳裏をよぎるおやっさんの言葉にうなずき返し、俺ははっきりと、電話越しにいる彼女が聞き逃さないよう声を出す。


「芽衣さんと、デートがしたいです」

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