第19話 過ちの傷


 焼き鳥を口に運ぶ手が止まる。


 先ほどから騒いでいる学生グループのように、酒に飲まれていればあるいは軽い調子で言葉を返せたのかもしれない。べたついた指をティッシュで拭きながら、俺はどう相槌あいづちを打ったものかと思案する。


 素っ気ない返事をして別の話題へ移るには、切り出された事実が重すぎた。


「……やっぱり、結婚してたんですね」

「おう。なんだ、そう意外でもねえってか?」

「左手薬指に指輪の跡があったので、もしかしたらと……スタッフの間でもたまに話題になってましたよ」


 確信とまではいかないが、予感はあった。


 跡が残るほどはめている指輪なんて結婚指輪ぐらいなものだろう。それが左手薬指にあるのだから、妻帯者と見て間違いないはず――まことしやかにささやかれていた噂話を話すと、おやっさんは一笑に付して話の続きを喋り出す。


 酒が原因で亡くしたという、奥さんの話だった。


「もう二十年くらい前の話だ。そん時の俺は夜な夜なバイクにまたがって、カミさんとタンデム――分かりやすく言うと二人乗りだな――キメるのが楽しみでよ。高速道路をかっ飛ばして、背中から聞こえる笑い声と夜風を浴びんのが最高だった」

「……楽しそうですね」


 無自覚に頬を緩めていたおやっさんが自分の表情に気付き、いっそう笑みを大きくする。


「まあな。幸せだったよ、あの頃は」


 奥さんと知り合ったのは、当時住んでいた街の喫茶店で。


 いわゆる一目惚れだったらしく、一方的に心を惹かれてしまったおやっさんは店に通いつめ、会う回数が増えるうちにその女性もだんだんと心を開いていった。


 およそ半年にも及ぶ交際期間を経てプロポーズが成功し、二人は結婚。はたから見れば順風満帆の人生に見えるが、実際そうであったとおやっさんは誇らしげに語ってくれた。


 しかしそこから先を話そうとした時、グラスに浮かんでいた氷がぱきりと割れる。


「原因はやっぱり……酒だったんだと思う」


 バイク、二人乗り、酒。

 三つの単語が符号ふごうして、脳裏に結末を描き始める。


「俺の親もそうだったから、酒につえぇのはたぶん遺伝だった。同級生とアホみてぇに飲んだ日の帰りでもまだいける、まだ飲めんだろ、って息巻いてなぁ。バイクのミラー見てもほとんど顔色変わってねえやって、大丈夫だと勘違いしちまった。……んなワケねえのに、馬鹿なこった」


 最後の一言はナイフのように、きっと過去の自分を刺していた。


「気分上がっちまった俺は、その日もカミさんを誘って走りに行った。スピード出過ぎてないか、大丈夫かって声を適当に聞き流して……ブレーキとアクセルを踏み違えたあげく、コンクリートの塀にぶつかった。後ろに乗ってたカミさんは勢いよく放り出されて、高速道路の橋の下にまっさかさま――酔いは一気に覚めていった。もう遅えってのにな、腰も抜かして」


 先ほどまで後ろに乗っていた人間が、夜の闇の中に吸い込まれてゆく。


 事故の現場を想像するだけでも肝が冷えるというのに、当事者であるおやっさんがどれほどの恐怖を味わったのかは想像にかたくない。何よりも沈痛な面持ちが、犯した過ちの傷を如実にょじつに物語っていた。


 浮かれ切った声がぞろぞろと背後を通り過ぎる。ちらりと横目で確認すると、その集団はかの学生グループであった。


 ボリュームの狂った声は聴くにえず、酔いの回った者同士がちょっかいを掛け合っている。入れ違いに入店したサラリーマンの二人組は、若いねぇ、俺もあんなんだったよと浮かれ切った彼らを見て笑っていた。


「なんで生きてるのが俺なのかねぇ……」


 答えを求めて呟いたふうではない。しかし、どうして生きているのが自分なのか。おやっさんの吐き出した葛藤かっとうは身に覚えがあり過ぎた。


「……どうして本当にいい人から、先にいなくなってしまうんでしょうね」

「神様仏様が仕事をサボったツケなのかもしれねぇな。んなモンで納得できるワケねぇけどよ」

「同感です。……じゃなきゃ、俺が生きてる意味だって説明がつかない」

「へッ……なんか抱えてるみたいじゃねえかよ、ギンも」


 大切な人を失ったおやっさんと、両親を失くした自分自身。失ったものは違えど、抱えている葛藤は同じだった。


 それを見つけた時、俺とおやっさんの間にある薄い壁が壊れたような気がして――俺は勢いのままジュースを飲み干した。


「……聞きますか? なんだかおやっさんの話に便乗したみたいで、不幸自慢大会になりますけど」

「なぁに、せっかく普段そっけないヤツが腹割ろうとしてくれてんだ。言いたいこたぁこの際全部、ぶちまけちまえよ!」


 通りがかった店員をつかまえて、おやっさんが俺にも追加注文を促してくる。今日は皿が空くまで話し込もう。言葉の外に含まれていた意図は明確で、観念した俺は適当な焼き鳥とオレンジジュースのおかわりを注文する。


 ビールには見えない幼稚ようちな色のグラスが、再び乾杯の音を鳴らした。




 暖簾のれんをくぐって吹く風はほんのりと生ぬるい。


 日の落ち切った街並みはすっかり夜の空気を纏い、街灯に足元を照らされながら帰路につく。急ぎ足で通り過ぎる人、娯楽や食事を求めて立ち止まる人。すれ違う足の速さはまちまちで、とりとめのない会話が俺とおやっさんを繋いでいる。


 ふと聞こえてきた思い出し笑いに、俺は思わず横を向いた。


「いや悪い。昨日カフェに転がり込んできた嬢ちゃんが、お前のことを“銀平さま”って呼んでたのを思い出してな……親しいのか? あの子と」

「……そうですね。他人ではない、です」

「ハ、なんだそりゃ」歯切れの悪さに呆れたような笑みを浮かべ、「……なんにせよ、俺ぁちょっと安心してんだ。特定の誰かとつるまないお前が、人と繋がり持ててんだなって」

「おやっさんは例外なんですか?」

「当たり前だろ。義理チョコみてえなもんだ、ギンとの関係は」


 甘酸っぱいたとえはさておき、その割にはご飯をおごってくれたり話を聞いてくれたりと、ないがしろにはされていない気がする。


 横断歩道の赤信号。おやっさんはため息を風に溶かして、


「あんま説教くさかったり、教訓めいたこと言うのもウザがられるんだろうが……大事にしてやれよ。ギン」

「……はい」


 今日はありがとうございました。そう言って頭を下げると信号が変わり、白線だけを踏んで歩く背中が遠のいていく。


 大きく頼もしい後ろ姿はまるで親のように見えて――芽衣さんを大事にすること。その意味を考えながら俺も改めて帰路につく。


 足の速さと比例するように、胸の鼓動が早くなっていた。

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