第18話 記憶に一滴、苦い雫


 あの後、俺は店に保管してあった客の忘れ傘を拝借して芽衣さんを見送った。


 駅までの道のりですすり泣く声はどうにもできないが、傘を差していれば表情をうかがわれることはない。雨が降っていたのは幸運だった。


 芽衣さんは、無事に帰れたのだろうか。


 帰り道に考える事はそれだけだった。

 服を汚し、あまつさえ泣いて目元を赤くした彼女が帰ってくる。そんな娘の姿を見て驚かない親はいないだろう。想像にかたくない場面であったが、どうか責めないでやってほしいと案じるばかりだ。


 リョーマに蹴られていた箇所には、さすがに多少のあざが出来ていた。


 帰宅してからも中々痛みが引かず、かといって気にしているのもわずらわしい。シャワーを浴びて早々に体を休めれば、明日にはいくらかマシになるだろう。


 こうして一泊二日におよぶボランティア活動は、望外のハプニングを迎えて幕引きとなった。


「ギン、お前……今日はさすがに休んどけよ。誰も責めねぇんだから」


 心底あきれた様子の言葉をかけられたのは翌日、昼休憩の時だった。


 おやっさんが心配するのも無理からぬ話で、暴力沙汰に巻き込まれていた人間が平然と――と言うにはまだ鈍痛が抜けていなかったのだが――職場に現れれば誰だって戸惑いを隠せない。


 一方起きる時間が遅かったせいで、俺は休みの打診をする間もなく家を飛び出してしまった。いくら事情があるとはいえ、無断欠勤はしたくない。そんな責任感が呼び水となったのか、午前の業務中は他のスタッフにしょっちゅう気を遣われた。


 ゼリー飲料を飲み干し、俺はすいませんと言葉を置く。それからつとめて申し訳なさそうに、


「シフトに穴あけるのも迷惑でしょうし、そもそも休みの連絡をし忘れていた俺の怠慢たいまんなので……今日だけ、なんとか」


 おやっさんは長めのため息をつき、俺に無理をしない事と、具合が悪くなったらすぐに誰かに言うことをなかば強制的に義務付ける。


 ねぎらいの言葉を添えて区切りがついたところで、おやっさんは話題を切り替えた。


「昨日暴れてたスーツ野郎は、俺がきっちりをつけてやった。安心しろ、もうお前にゃ関わんねえとよ」

堅気カタギのセリフに聞こえませんね。おやっさんが言うと」


 ともすると非合法的な報復でも行ったのだろうかと疑ってしまったが、おやっさんに限ってそれはないだろうと思い直す。強面こわもての外見に反して義理に厚く、さりとて無罪放免にするほど甘くもない。


 俺が芽衣さんを送り届ける間にうまく示談を進めてくれたのだろうと、小さく笑うおやっさんを見て結論付けた。


「あ……そろそろ休憩、終わるので」


 スマホの時刻に気付いて立ち上がる。するとおやっさんは俺を呼び止め、にやにやと口角を吊り上げた。


「なんかよ、面構つらがまえ変わったよなぁ? ちょっと会わねぇうちに」

「……かもしれませんね」


 口ぶりとは裏腹に心当たりは明らかだった。


 ボランティアを通して心持ちが軽くなったこと。昨日、芽衣さんと喧嘩のようなやり取りをして感情を吐き出せたこと。それらすべてが整理され、気付かないうちに俺の表情は幾分いくぶんやわらかいものに変化していたらしい。


 普段と変わらない接客の最中さなか、今までよりも人に心を近づけられていると感じたのはたぶん、気のせいではない。諸々もろもろのきっかけを与えてくれたのは間違いなく――スパイシーなチャイラテの香りが、あの屈託のない笑顔を想起させる。


 退勤時刻を迎えた俺はおやっさんのもとへ挨拶に向かう。するとお疲れさまを口にする前におやっさんは事務作業の手を止めて、


「このあとメシ行かねぇか? 全部俺がおごってやる。どうだ?」


 断る理由もなかったので俺は二つ返事で了承した。ご飯の誘いがあるのは、そう珍しい事ではない。


 月に一度か、多くても二、三回程度。そのたび適当な店に立ち寄っては、近況を報告し合ったり他愛のない話に花を咲かせる。カフェで働くうちに出来た、俺とおやっさんのルーティーンのようなものだ。


 先に店先で待っていると、おやっさんがほぼ身ひとつの状態でやってくる。


 身軽さを重視しているのか、外出する時に持ち歩くのは常にスマホと財布だけにしていると、いつだったか誇らしげに語ってくれた日の事を思いだす。だが今にして思えば、あれは単なるズボラエピソードだったのではないだろうか。


 一抹の疑いをよそに、夕焼けのオレンジがはかなげに街を染めている。


 タイル張りの歩道をあてどなく歩いていると、赤い暖簾のれんに焼き鳥のにおい、そこに香ばしいたれとが絡み合った、食欲をそそる香りが鼻をかすめる。明確になったおやっさんの足取りが、今日はここにするぞと語り掛けていた。


「ほらよ、メニュー」


 アルコールドリンクのメニューをカウンターのテーブルスタンドに戻し、残りのメニュー表を渡してくれる。


「ん、この店前にも来たっけか……? まあいいや。ギンは何頼むんだ?」

「……砂肝、ハツ。あとは……なんこつとか」

「歯ごたえあるヤツばっかだなオイ……」

「おやっさんは?」

「俺か? まあそうだな――ささみと手羽先、それからかわ、ってトコか?」

「……ダイエット中の女の子みたいですね」

ちげぇよ、好きなモン頼んだらこうなるんだよ必然的に……!」


 怒りと恥じらいを含んだ声が賑やかな笑いの渦にのまれてゆく。


 声の方向にいたのは若い団体客で、身なりや雰囲気から察するに大学生か専門学生だろうか。手を叩きながらやたら大きな声で会話しているのがうかがえる。


 ジョッキに付着した泡と黄色い液体を見れば、あのタガの外れようにも合点がてんがいった。


初々ういういしいねぇ。まだ酒の飲み方を知りませんって感じだな、ありゃあ」

「飲めない俺には未知の感覚です……何が美味しいのか、わかりません」


 成人したばかりの頃に買ったビールの味は今でも忘れられない。

 液体が舌に触れた瞬間しびれるような感覚があって、苦みがやってくる。その苦みの強烈さがどうにも耐えられなくて、俺はひと口飲んだだけで完飲をあきらめた。


 だから飲み物を一緒に頼むときはこういう場でもオレンジジュースで――はたして俺に気を遣ってなのか、おやっさんが頼むのもオレンジジュースだった。


 出来上がった食卓にはそれぞれが頼んだ焼き鳥の皿と、いかにも子供っぽい飲み物がふたつ。居酒屋らしくない組み合わせだが、俺とおやっさんにとってはもはや見慣れた光景だった。


 俺たちは景気よく乾杯を交わし、焼き鳥とオレンジの対照的な味わいに舌鼓したつづみを打ち始める。


「おやっさんってお酒、苦手なんですか?」

「ん~……まあ飲めるかと言われりゃあ飲めるが、あえて飲もうとも思わねぇ。なんでだ?」

「俺といる時全然飲まないので。……個人的な感想を言うと、飲めない人には見えないっていうのもありますけど」

「ああ、まあよく言われる」

「禁酒してるとか?」

「いいや。でもまぁ、それがいちばん近いのかもな――」


 半分ほど飲み干したグラスが置かれると、またやかましい笑い声が耳を揺さぶった。


 おやっさんは歯切れの悪い返事を誤魔化すかのように、串についている鶏肉を噛んで勢いよく引き抜き、咀嚼そしゃくする。表情にどことなく影を帯びて見えるのは、天井に吊り下げられた照明のせいだろうか。


 やがて嚥下えんげしたのち、おやっさんの指が左手の薬指に触れる。かすかに残る、指輪のあと。その跡をなぐさめるようになぞりながら、


「酒のせいでカミさん亡くしちまってな。それきり飲まねぇようにしてるんだわ」

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