第17話 夕立


 まさか、という気持ちが強かった。


 誰にでも人当たりのいい、天真爛漫を絵に描いたような性格の芽衣さんが、まさか俺に手を上げるだなんて。そこに裏切りや、まして憤慨するような気持ちはなかったが、俺は純粋に驚きを隠せなかった。


「っ……いい加減にしてくださいませ」


 浅く息を吸って吐き出された言葉は、かすかに震えていた。


 黒い水飛沫が付着して汚れた、白くて高そうなブラウス。同じ色の液体が芽衣さんの頬を伝っていて、黒ずんだ涙のような跡を作っている。


 それを手でぬぐい去ると薄っすらとした墨のように引き延ばされ、彼女は膝をついて俺に目線を合わせた。どうしてか小さい頃、危ない事をして母親に叱られていた時のことを思い出す。


「わたくしがっ……」裏返りそうになった声をひとつはなですすってから、「わたくしがあの場で帰れと言われて、素直に帰ってしまうような薄情な人間だと思っていたのですか?」

「……いいえ。でも、ああでもしなくちゃ――」


 小さな両手に肩をつかまれる。そのままコンクリートの壁に背中を押し付けられ、


「見くびらないでくださいませ……!」


 涙をたたえ、潤んだ瞳が俺を見ていた。


「銀平さまに目を付けていた男性が危険な方だと気付けないほど、わたくしは無知でも、世間知らずでもありません。せっかく出来たお友達を見捨ててしまうような、冷たい人間でもありませんっ!」

「……迷惑をかけたくなかったんです。個人的な事情なのに」

「今さらっ……!」


 こみ上げる感情を飲み込み、それでも抑えきれないといった様子で芽衣さんは唇を動かし始める。


「……自分が何を考えているのか、わたくしにどうしてほしいのか。わたくしなら分かる筈だと、銀平さまはおっしゃっていましたわよね。残念ですが理解はできても、期待には応えられません……無理ですわ、そんなの」

「は……?」

「銀平さまにもしもの事があったら、わたくしが悲しいからです!」


 心臓を撃ち抜いた言葉に、目を伏せる事さえ許されなかった。


 ――あとは俺一人でなんとかします。芽衣さんはこのまま家に帰ってください。


 直接伝え、言葉の外にさえ含めたその意味に見ないフリをしてまで、芽衣さんは俺を助けに来てくれたのか。喜ばしい事のはずなのに、素直に感謝を伝えることは出来そうになかった。


 己と彼女の身勝手さに思考が混線を引き起こし、言葉をまとめる事が出来ない。芽衣さんの瞳に映る自分の顔に耐えられなくなって、とうとう感情のせきが決壊した。


「そう思うんなら……なおさら来ちゃ駄目でしょう……!」


 湧き上がる怒りのせいか、ずきずきと痛みを訴えていた腹部が押し黙る。右手で掴んだ芽衣さんの腕は想像していたよりもずっと細くて、馬鹿みたいに滑らかで。


「いつから見てたのか知りませんが、あいつは人に暴力をふるって、興奮して! いかがわしい事までたくらむ、危険な人間だったんです! 俺があいつを止めなかったら……今度は芽衣さんが標的になってたかもしれない。分かってるんですか!?」

「ですがわたくしが止めに行かなければ、銀平さまだってどうなっていたか分かりませんわ! 本当はっ、すぐにでも止めに行きたくて……」

「じゃあなんで――!」


 すぐ助けに来なかったんですか。


 歯止めのきかない身勝手さが、子供じみたわがままをぶつけようとする。けれど口にせずに済んだのは――芽衣さんが不意に、俺の胸に飛び込んできたからだった。


「……怖かったんです……」


 手のひらから伝わる腕の震えが、徐々に体に伝播でんぱする。


「あそこまでひどい目に遭っているだなんて、思っていなかったんです。初めは助けたい一心で動いていたのに、いざ目の前にすると足がすくんでしまって……」

「……芽衣さん」

「痛かったですわよね。わたくしよりもずっと怖い思いをしていたのに――臆病で、ごめんなさいっ……!」


 危ない人とは関わらないこと。

 危険な場所には近寄らないこと。


 そんなこと、生きていれば自ずと知るすべではあるし、穏やかな日常が崩れる瞬間など来ない方がいいに決まっている。誰だってなるべく、日々を平和に過ごしていたいはずだから。


 けれど芽衣さんは俺一人を助けるただそれだけの為に、危険をおかして手を伸ばしてくれたのだ。


 俺が倒れているのを見た時は怖かったはずだ。

 得体の知れない人間に立ち向かう事だって怖かったはずだ。

 なのに芽衣さんは一歩も引かず、毅然とした態度で戦っていたじゃないか。


 自分を臆病だなんて笑わせないでくれ。

 芽衣さんほど勇気のある人間を、俺は見たことがない。


「……ありがとう、ございます」


 謝りたい気持ちはもちろんあったが、一番伝えたい気持ちは感謝だった。喧嘩のようなやり取りを経て、ようやく素直になることができる。もう大丈夫ですからと意思表示をするようなつもりで、俺は芽衣さんの体をそっと抱きしめる。


 降り始めた雨と混ざり合う泣き声が、やけに悲しい夕方だった。

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