第16話 散華《後編》


 今後の人生でどんな告白を受けたとしても、これを上回る最悪はないだろう。


 せり上がった咳を顔面に吐きかけ、リョーマの手が離れた拍子に水たまりで手のひらを濡らし、唇をぬぐう。汚水で毒は流せない。そんな当たり前の思考さえ飛び越えて、俺はとにかく嫌悪感を消し去りたいという気持ちでいっぱいだった。


 水面に映ったリョーマの影に振り返ると、彼はにやりと口角を吊り上げる。それから蹴りを腹に一発、追い打ちをかけるようにさらにもう一発、見舞ってきた。


「ごめん、ごめん……咳をさ、顔に掛けられた事を怒ってる訳じゃないんだ」懐からハンカチを取り出し、丁寧に飛沫を拭いながら、「ただ――これ言ったらさすがに引かれちゃうかな。けどまあいいや、俺の事も知ってもらいたいし」


 痛みに耐えて呼吸を整えるのがやっとの俺を、嗜虐しぎゃく的な笑みが見下ろしてくる。


「銀平くんみたいにツラのいい人間が、痛みとかぁ、苦しみに歪んでるカオ見てると……俺、駄目なんだよね。昔っから興奮しちゃうタチで、抑えらんなくなる」


 ――まったく、ままならないものだ。


 マスクを外してしまおうと決めた日に会っていい男ではない。自分の顔がとんだ一目惚れを呼び込んでしまっていたのは言うまでもなく、視線の先にあるを見てしまったら、言葉を失うより他になかった。


 人がいたぶられる様を見て性的興奮を覚えるサディスト、異常性癖者――欲に揺らいた眼光が俺を捉えているという事実に、俺はどうにか歯を食いしばる。


 痛がる素振りを見せてはいけない。

 怯えた表情を見せればそれはたちまちえさとなって、この男を悦ばせるかてになる。


 たとえ虚勢でも、弱みを見せてなるものか。


「あ、そうだ。銀平くん整形してるよね? 俺わかるよ~、付き合ってた子にもいたからさ。そういう子」

「だったら……っう」のどに絡まった唾液だえきをその場に吐き落とし、「だったら……なんなんですか」

「俺の好み確定。って思っただけ――!」


 とん、とん、とナイフの刃を研ぐように整えられていたつま先が、立て続けに腹部に突き刺さった。


 あの日キミと会えて良かった。七夕の日に会えるなんてホント運命的、ユミコは俺にいい土産みやげを残してくれた。ところで告白の返事はまだかな。大丈夫、これでも記念日とか誕生日は大事にする方なんだ。後悔はさせないから、さあ早く――


 暴力の雨に打たれるまま、それでも顔を狙われなかったのは、この男なりのこだわりがあるからだろう。自らの興奮材料を傷物にしてしまっては、えるどころの話ではない。


 ふと、あのユミコでさえクラスメイトに暴力を命じ、俺をいたぶるような真似はしなかった事を思い出す。


 俺が殴られるのは決まって男子たちのストレスがたまっている時――そして今の俺に出来るのもその時と同じ、童話に出てくるのろまな亀のように、ただじっと耐える事だけだった。暴力は苦手だ。力が振るわれる予兆を感じ取ると、途端に体の自由がきかなくなる。


 ビルに区切られた空が、遠い。


 やがて満足したのか飽きたのか、ふうっと息を吐き出しながらリョーマはネクタイを締め直す。間抜けな音が響き渡ったのはその直後だった。


……っ、ああ……?」

「……その方から離れなさい」

 

 ゆるやかな放物線を描いて飛来した空き缶がゴミ箱の前に転がってゆく。手にしていた荷物はどこへ、俺たちの後をつけてきたのか。おぼろげな疑問が浮き沈みを繰り返す。


 夕闇を背負って立つその姿は、俺が一番、この場に来てほしくない人のシルエットとよく似ていた。


「ひっ――人をもう呼んでありますわ! ですがあなたが大人しく、この場から去るというのであれば……っ、素直に見逃して差し上げます!」

「……見逃す……」

「嘘は言いません。分かったなら早く――きゃっ……!?」


 ――やめろ。


 煮え切らないため息をひとつ、リョーマは足元の水たまりを蹴り上げて、威嚇いかくするように飛沫を飛ばす。


「……今イイトコなの分かんないかなぁ。萎えるから、そういうのやめてくれる?」

「っ……! やめませんっ! あなたがやめなさいっ!」


 ――ふざけるな。頼むからやめてくれ、芽衣さん。


 分かっている。腹の底で叫んだところで状況は変わらない。それでも狂気の矛先が彼女に向くことだけは絶対に、俺が絶対に許さない。


 赤い影が一歩ずつ、苛立いらだちを踏みつけながら遠ざかる。いつまで痛みに悲鳴を上げているつもりなんだ。


 俺は吐き気をこらえながら、いつくばって、手を伸ばして、


「……返事、まだだろ」

「んん……?」


 靴の隙間に中指を差し込んでやる。

 今度は、俺が突きつける番だ。


「くたばれ、ゴミカスクソ野郎……!」


 降り注いだ視線にもう恐怖は感じない。なにも怖くない。殴られようが蹴られようが、芽衣さんが危ない目に遭うよりずっといい。


 もう片方の手で足を掴み、これ以上、このクソ野郎が近付かないよう力を込める。


 引かれた足がついに俺の顔面を捉えようとしたその瞬間、待ち望んでいた時が訪れた。


「店の裏でぇ――暴れてんじゃねぇっ!」

「は……? ごっ――!?」


 すぐそばのドアが開き、出会い頭に頭突きを一発。怯んだリョーマがすかさず足をなぎ払うが、鉄拳の一撃が容赦なく叩き落とす。


 苦し紛れに打ち出した拳さえ意味を成さず、あっけなく受け止められてはひねり返されてしまった。


、ってぇっ!?」

「だろ?」拳から手を離し、リョーマの首に腕を押し当てて壁に押さえつける。「でももっと痛ぇ思いしてんのは……てめえが散々蹴りつけてきた“ウチの従業員”なんだよ! 分かってんのかコラァッ!」

「知らねえよ、クソ! 誰だこのオッサ――」

「それと、さっき蹴り飛ばした岩手のおみやげッ! 駄目んなってたらきっちり弁償してもらうからな!」

「……遅かったですね。おやっさん」


 壁にもたれかかりながらこぼすと、おやっさんは不敵な笑みを浮かべながら、


「悪ぃな、なんか今日混んでてよ……! でも証拠はバッチリだぜ」

「はあ、証拠……?」

「……上にある袖看板の後ろ」


 俺は困惑するリョーマに分かりやすいよう指をさす。するとわずかな夕陽を反射してきらめいたカメラレンズに、動揺の色が濃くなった。


「気付かないですよね。普通、深夜ゴミ漁りに来るホームレス用に置いといた監視カメラの事なんて……いましたが、この路地は俺が働いてるカフェの脇にあるんですよ」

「もちろん映像は録画済みよ。……なんなら、出るトコ出てみるか?」


 カメラは絶えず回り続けている。俺たちが路地に足を踏み入れた時から、今この瞬間まで。くわえて芽衣さんにおやっさんという証言者がいれば、間違いなく言い逃れは出来ないだろう。


 気勢を削いだ隙におやっさんはリョーマの股間を蹴り潰して気を失わせ、やってきた男性スタッフにスタッフルームへ運ぶよう指示する。おそらく警察に突き出すか、今後の事について話し合う為にそうしたのだろうが、だいぶ力づくである。


 緊張の糸が切れた俺におやっさんは歩み寄り、あきれたような安心したような面持ちを浮かべた。


「言いたいことはまああるが……監視カメラの映像に気付く前。お前が危ない目に遭ってるってカフェに駆け込んできたのが、あのお嬢ちゃんだった」

「……芽衣さんが」

「ドア越しにも聞こえてきたぜ。お前の為に威勢よく啖呵たんかまで切って……礼は直接、本人にな」


 ドアの閉まる音を最後に、静寂が俺と彼女を繋ぎ合わせる。たぶん、おやっさんなりのはからいなのだろうが、本音を言えば今二人きりになるのは気まずかった。


 危なげな空気から遠ざけるために置いてきた芽衣さんが、どうしてこの場にいるのだろう。疑問は果たして、口にする事ができなかった。


「っ――……?」


 じん、と広がる頬の痛みが、乾いた音の後にみていく。


 気丈さをたたえた瞳には、腑抜ふぬけた男の顔が映っていた。

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