第15話 散華《前編》


 夕暮れのオレンジが、ちぎれ雲に黒い影を与えている。


 バスを降りると足元には水たまりが張っていて、わずかに起こる波紋を見て小雨が降っているのだと気が付く。

 とはいえ傘を差すほどの雨足ではなく、ほとんど止みかけの雨だった。俺が眠っている間は強く降っていたのだろう。


 周囲を見渡せば人通りの多い歩道に、背の高いビルや建物――たった一日離れていただけなのに、見慣れた光景がやけに懐かしい。


「……すいません芽衣さん。思ったより長めに寝てしまって、重かったですよね」

「いいえ。わたくしも途中から寝てしまっていたので、気になりませんでしたわ」


 仙台に着くまでの約二時間半。そのほとんどを芽衣さんの小柄な体に寄りかかっていたのかと思うと、申し訳ない気持ちの方が勝ってしまった。


 芽衣さんの家の門限まではまだ時間がある。


 お互い荷物が多いので歩き回すようなことはしないが、埋め合わせに近くのコンビニで飲み物を買ってくるぐらいなら問題ないだろう。


 リュックを背負い直し、欲しい飲み物を聞こうとしたところで、俺は一筋にも足るだろうかという違和感の線に勘付いた。


「銀平さま……? どうかしたのですか?」


 ――誰かに見られている。


 興味関心のない視線、色目を含んだ好奇の視線。顔色をうかがうようなバイトスタッフの視線など、接客業という職業柄か、はたまた嘲笑ちょうしょうと隣り合わせの学生生活を送っていたせいか、人からの視線には多少敏感になっている。


 しかし今感じている視線はそのいずれにも当てはまらない、得体の知れないものだった。ごく自然と人波に溶け込んでいて、誰の視線なのか特定できない。


「いえ……なんでも」


 俺は芽衣さんを不安にさせまいと、巡らせていた視線を彼女に戻す。


「忘れ物ないですか? 駅まで送ります」

「ありがとうございますっ! 帰ったら、昨日撮った写真を送ってあげますわね!」

「そうですか」


 そっけない返事をしてしまったのは、ざわざわと掻き立てられる胸騒ぎのせいだろうか。


 雨上がりの湿気がうっとうしい。一方で芽衣さんが何かに気付いている様子はなく、やはり今向けられている視線は俺に対するものと認識して間違いないのだろう。そんな彼女も早足気味に歩く俺を見て、徐々に剣呑けんのんな空気を感じているようだった。


 早く芽衣さんを改札の向こうまで送り届けなくてはならない。


 もちろん根本的な解決にはならないが、少なくともそれで彼女の安全は保障される。

 相手の素性も目的も何一つわからない今、とれる手段はひとつだった。俺だけになってしまえば、あとはいくらでも立ち回りようがあるはず。


 この不安がただの杞憂きゆうで終わればいい。

 描いていた願望は、すんでのところで叶わなかった。


「――やあ、ちょっといいかな? 鰐淵わにぶち銀平くん」


 目の前にある改札機がマラソンのゴールテープに見える。しかし、おいそれと通過することは許されなかった。


 どうして俺の名前をフルネームで――遅れてきた疑問を踏みにじり、俺は芽衣さんを自分の後ろに隠しながら振り返った。


「銀平さまの知り合い……」

「じゃ、ありません。芽衣さんは喋らないで」


 サングラスとマスクで顔を覆い隠した黒づくめの人間。あるいは不明瞭な言語を発する異常者のように、俺は分かりやすい記号を欲していたのかもしれない。


 相手方の人相が想像の範疇はんちゅうを越えなければ、いくらか驚きは和らいでくれる。


 しかし脳内に浮かんていたありきたりなイメージは、何一つとして用意されていなかった。


「……悪いですけど、人違いでは?」


 ポケットに片手だけ突っ込んだ男の眉がぴくりと動く。それからふっと破顔はがんして、


「いやいや、ウソウソ。だってキミ、この間も後ろにいる女の子と一緒にいたでしょ? たしか――ほら、こっから歩いて二、三分くらいのトコにあるショッピングモール」

「は……?」

「カフェから見えてたよ、窓際の席だったからエスカレーターから降りてくるところも丸見え。デートしてたのか知らないけど……キミ、こっち見たら逃げてったよね?」


 ショッピングモール、カフェ、エスカレーター。単語同士が結びつき、つかみどころのない記憶の鎖に強烈な電気がほとばしる。

 同時に浮上したのは遺言のようにこびり付いていた、ユミコのメッセージ。


 ――リョーマが気付かなきゃ知らなかったけど。


 名前にまでたどり着くと本人の輪郭がはっきりと形を帯びてくる。


 細い目元に毛先を遊ばせるようスタイリングされたハイトーンの金髪。黒のワイシャツ、黄色いネクタイ。ボルドーカラーのジャケットとスラックスは相互にあやしさを強調し、右手にはめられた金銀のリングが獰猛どうもうに輝く。


 片耳にばかり付けられたいかついピアスまで含めれば、印象はいっそ攻撃的と言って差し支えない。それらを張り付けたような薄い笑みで、この男はまとめて覆い隠していた。


 七夕まつりで見た時は無口な男だと思っていたが、口調は軽薄そのものだ。俺の名前はユミコから聞いたのだとして、芽衣さんの事は知らないらしい。


 なんにせよ、俺がすべき事は明白であった。


「芽衣さんは、このまま帰ってください」


 警戒心の宿った瞳がわずかに揺らぐ。


「お、お待ちくださいませ……! それでは銀平さまは……」

「用があるのはたぶん俺だけです。……安心してください。話をつけたら、適当に切り上げるつもりです」

「ですがっ――!」

「芽衣さん」


 さとすように言葉を置くと、一瞬の沈黙が訪れる。


「芽衣さんなら……分かる筈です。俺が何を考えているのか、芽衣さんにどうしてほしいのか」


 世の中には関わってはいけない人間がいる。


 直感に勝る警鐘はなく、動物としての本能が何よりも強く訴えかけていた。それを抜きに考えても、俺個人の問題で彼女に迷惑をかけるわけにはいかない。


 わずかでも危ない目に遭う可能性を感じたのなら――芽衣さんを遠ざけてでも、み取るべきだ。


「……名前を知ってるってことは、用があるのは俺だけですよね」


 心の奥で何かがくすぶっている。俺は唇を動かそうとした芽衣さんに背を向けて、


「何の話ですか? 付き合いますよ、リョーマさん」

「……ユミコが何かしゃべったのか」吐き捨てるように呟いて口元がゆるむ。「まあいっか! 話が早くて助かる。そっちの子も気を付けて帰るんだよ!」


 馴れ馴れしいひと言を一瞥いちべつしてけん制するも、返ってきたのは寒気がするほど清々しい笑顔だった。


「行こうか、銀平くん」


 肩に手を回されて軽はずみに叩かれる。背中を押されるまま歩き出すと、なかば独り言のようにリョーマは喋り始めた。


「今日は好きな人と会う日だったもんでさぁ、服とか気合入れてきちゃった。はは。夏にジャケット、ホンっト暑い」

「……ユミコとは、もう別れた?」

「なんだ、それも聞いたんだ?」心底興味なさそうに吐き捨てて、「けどそうだね。隠す事でもないし、浮気はされてもしないようにって決めてるんだ。じゃないと、いま好きな人に失礼だし?」

「耳の痛い話です」


 俺に対する当てつけのような話をしていた事に無自覚だったのか、ああそういえば、ごめんごめんと笑いだす。


 派手なジャケットを着こんだ男と、リュックを背負い、お土産の入ったのし袋をぶら下げた男が歩いている。駅構内にある洋服店のショーウインドウに映った俺たちの姿は、ひどく滑稽こっけいに見えた。


「俺、夜働いて朝寝るタイプの人間なんだ。……だから昨日、銀平くんがバスに乗るとこ見られたのはラッキーだったなぁ」


 外に出るとビルの隙間からのぞく夕陽が彼の横顔を照らしだす。位置の関係で逆光になり、俺は不意に目がくらんでしまった。 


「どこ行きのバスか分かればあとはダイヤを確認して、帰ってくる時間に待ってるだけ。田舎行きの高速バスって、本当に数が少ないよね」

「……これから仕事でしょうに、待ち伏せご苦労様です」


 俺は悟られないよう手の震えを無理やり押し殺す。


「それで用件は? ただ喋って歩きたいだけなら、好きな相手にでも連絡してそうすればいい。女に困るようなルックスはしてないでしょう」

「っふ、まあお互いにね」


 質問をはぐらかされた挙句、リョーマはここでいいかと人気ひとけのない路地へと曲がった。


 なんとかすれ違える程度の道幅にはむきだしの室外機が置かれ、べたついた風が吹いている。建物が作る日影に入ってしまえばその暗さが目隠しとなり、飲食店などが並ぶ通りからはこちらを視認する事が難しくなる。


 俺は近くにあった鍵付きのゴミ箱と、路地の入口にある袖看板の方をおもむろに見やり、


「……こんな所で何を――っ!」


 脇腹が、いで背中が鈍い痛みに襲われる。


 壁に叩きつけられた己の体はアスファルトの上に横たわり、じわりと広がっていく痛みが気持ち悪くて仕方ない。不格好に咳き込みながら、しかし理解は追いついていた。


 前を歩いていたリョーマは振り向きざま、唐突に、容赦なく俺を蹴り飛ばしたのだ。


「鈍感なタイプには見えないけどなぁ、銀平くん――」


 のし袋から飛び出たお土産の箱を革靴が蹴り飛ばす。さらにアスファルトの水たまりにつばを吐いて、


「俺さあ、浮気しないって言ったじゃん。じゃないと好きな相手に失礼でしょって事も言ったし、服装だって気合入れてきたのも話したよね? なのに、なんで気付いてくれないかな」


 ――まさか。


 悪寒に心臓を掴まれながら、しかし鈍痛どんつうは鳴り止まない。それどころかいじめられていた時の光景が脳裏に再来し、立ち上がろうとする力を奪ってしまう。


 逃げなくてはいけない。

 声を上げて、助けを呼ばなくては。


 もがく俺をあざ笑うかのように、残酷な瞬間はやってきた。


「――っ」


 唇に触れる絶望的な感触。

 毒のようにかかるうとましい吐息。


 片膝をついた男は俺の胸倉をつかんだまま、悪夢のような一言をささやいた。


「付き合ってよ。俺、銀平くんに一目惚れしちゃった」

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