第11話 潮風、銀色の水平線


 背の高い山々、見渡す限りの田園風景、遠く見える人々の営み。


 高速道路に入ってしまえば、覗ける景色はだんだんと自然にまみれてゆく。当たり前の話だが、一度郊外に出てしまえば背の高い建物は存在しない。


 最後に県外に出たのは、高校の修学旅行の時だっただろうか。


 浮かんだ単語はそのまま会話の種となる。片道およそ二時間半のひまは順調につぶれて、トンネルを抜けると新たな色が加わった。


 ――白く輝く水平線、青い海。


 芽衣さんがカーテンを開けてくれたタイミングが良かったのもあるだろうが、俺はその眩しさに呼吸を忘れた。あるいは単に、新鮮さに酔っていただけなのかもしれない。


「あ、次で降りますわ」


 停車ボタンを押して、芽衣さんはスマホに視線を落とす。


「知り合いの方が迎えに来てくれますので、そこから車で移動します」

「……その人もボランティア団体の人なんですか?」

「ええ。安心してくださいませ、とっても気さくな方ですから!」


 高架橋から見下ろせる街並みは自然との距離が近く、いかにも田舎町ですといった雰囲気を漂わせている。


 時間の流れがゆるやかで、のんびりとしているような――日々をコンクリートに囲まれながら生きている身からすれば、ずいぶんと物珍しい。


 バスを降りると海風がしおの匂いを運んでくる。同時に飛んできた声の方向に、芽衣さんはぱっと笑顔を咲かせながら振り返った。


「――っあ久しぶりぃ~、芽衣ちゃん! 今日もめんこいわねぇ、もぉう!」

「ユミおばさまぁ~~~!」女の人としかと抱擁ほうようを交わし、「お久しぶりです、お元気そうで何よりですわっ! 本日はよろしくお願いいたしますわね!」

「んまっ! もう、礼儀正しいッ! うちの息子にねぇもう、見習わせたいくらいだわ――で」


 首をゆらりと動かしながら、妙にけわしい顔が俺を見やる。


「で、だよ。芽衣ちゃん、このお兄さんが例の?」

「はいっ。鰐淵銀平さま、ボランティアのお手伝いに来てくれたすけですわ」

「あ……どうも。鰐淵です」マスクを下ろして会釈えしゃくを添え、「芽衣さんに誘われて来ました。初めてなので至らない点もあるかと思いますが……本日は、よろしくお願いします」


 唐突に濃さを増した空気の密度に、ついていくのは難しい。


 当たり障りのない言葉をつぎはぎして並べる最中も、その人はねっとりとした視線を浴びせてきた。今も「ふぅん」だの、「へぇ~、あぁ……」だの、独り言をぶつくさと漏らしている。


 芽衣さんからは気さくな人だと聞いていたのだが、もしかしたら身内以外には厳しいタイプなのだろうか。


 やがて満足したのか、ユミおばさまと呼ばれていた彼女は元の姿勢に居直った。それから探るような口調で、


「ギンちゃんさぁ……あのイケメン俳優に似てるって言われない?」

「ギンちゃ――は、えっ?」

「ほらあ、朝にやってるじゃないの。あ、もしかして見てない? 連続テレビドラマのさぁ――っあ~なんだっけ、もうタイトルど忘れしちゃった! トカゲじゃなくてうずら……は、こないだ終わったヤツだったっけか。ま、いいや! 今日はよろしくねギンちゃん! あそうだ、明日の夕ご飯八宝菜にしよ。うん」

「八宝菜! わたくしも食べたいですわっ!」

「いや、帰れなくなっちゃいますよ。バスの時間的に」


 気安くつけられた“ギンちゃん”というあだ名は訂正ていせいする隙もなかった。どころか、会話は雑にぶった切られ、二転、三転と転がる話題の中に埋もれてしまう。


 かなり大雑把で馴れ馴れしい主婦というのが第一印象だが、このイメージはおそらく今後一切、変わらない気がする。年齢は三十代か、高くてもその後半くらいか。


 ぐいぐいとくる押しの強さも相まって、そこまで年老いた雰囲気は感じさせない。


「そこに車回してるから、荷物詰めて乗っちゃって。狭いけど」


 ありがとうございますと言いながら俺は自分と芽衣さんの荷物を載せていく。その最中、ふと確認しておいた方がいいだろうかと思い、俺はうかがいを立ててみる。


「あの、一応フルネームを伺ってもよろしいでしょうか。いきなり下の名前で呼ぶのも失礼かと思いますし」

「えぇ何、ギンちゃんホンットに礼儀正しいわねぇ……うちの息子に会う? ってかもう、一回会ってほしい」

「ええと、名前……」

「ああハイハイ! よ、渡辺ユミコ!」


 ――は?


「もうみんなからユミ、ユミ言われるもんだから、たまぁ~に自分の名前忘れちゃうのよねぇ。あ、そうだ! せっかくだしぃ、ギンちゃんだけでも“ユミコ”って――」

「いえ、改めて今日はよろしくお願いします。渡辺さん」

「急に若者の距離感ッ!? 温度差で風邪ひくわ!」


 渡辺さん、いやユミコで、渡辺さんで大丈夫です、じゃあせめてユミでどうよ、せめてって何ですか、なんでこんな事で張り合ってるんですか――漫才じみたやり取りを繰り返し、俺は結局この人を“ユミさん”と呼ぶことに決めた。名前を呼ぶだけで無駄にスリリングな気分を味わわされる。


 そんな俺たちを見て芽衣さんは「もうすっかり仲良しさんですわね」と、どこまでものんきな感想を漏らしていた。


 見てくれだけはいい赤の自動車が、沿岸沿いを走ってゆく。


 車内はお世辞にも綺麗とは言えず、芽衣さんが片付けるまでタオルやティッシュ箱が床に投げ置きされていた。一方で助手席に積まれているダンボールには水遊び大会に来てくれた子供に配る、飲み物が入っているらしい。


「――会場の公園に着いたらまずはそれを開封して、それから着替えね。あとはあらかじめ連絡しといた業務をこなしてもらいながら、こっちから与える持ち場の仕事もやってもらうから」

「持ち場?」

「でっかいビニールプールと水鉄砲合戦用のコートをもう設営してあんだけど。芽衣ちゃんはプール、ギンちゃんはコートの方を担当してほしいの」

「詳しい内容はスタッフの方が教えてくれますわ。ただ、たまに水鉄砲でいたずらしてくる子供もいるので……」


 芽衣さんは手を指鉄砲の形にして、


「そういう時は撃ち返してもいいことになっていますわっ! ほどほどに反撃して差し上げましょう!」


 ――子供を撃つのか、俺は。


 口ぶりから察するに、たぶん懐に水鉄砲を忍ばせる事になるのだろう。心の中で引き金を引く覚悟を決めていると、ユミさんは駐車場の一角に車を停めた。


 近くには青い芝生と豊富な遊具が目立つ海浜公園が見え、敷地内には先ほど話題に挙がっていたビニールプールやパラソルを差した休憩所、スタッフ用のテントなどが設営されている。


 水遊び大会の会場は、既に親子連れで賑わっていた。

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