第10話 ギャップ
帰宅して、俺はすぐに荷造りを始めた。
必要な物は買いそろえる事が出来たし、ボランティアの日程は明後日、土曜日からの予定であったが、早過ぎて困るということもないだろう。今のうちに荷物をまとめておけば、明日は確認だけで済む。
持ち物のメモを見ながら、必要なものをリュックに詰め込んでいく。十分もしないうちにそこそこに膨れたリュックが出来上がると、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震動した。
画面上に表示されていたのはメッセージの通知。差出人は――
「……ユミコ」
思わず
人の顔面をひっぱたいておいて、今さら何を話すことがあるのだろう。反射的に舌打ちまでしてしまったが、腹の底で煮えたぎる、ぐらぐらとした感情は止められない。
それによくよく見てみれば、メッセージが届いたのはチャットアプリではなく、彼女を見つけたマッチングアプリの方だった。
マッチングアプリは仕様上、男性側は女性にメッセージを送るだけでも金が掛かる。無論、あの女とそこまでして会話する価値はないので、俺は静観を貫いてブロックする事に決める。
ただの送り間違いか、あるいは「ヨリを戻したい」などと
パンドラの箱の中身は、そのどちらでもないようだった。
『今日、付き合ってる彼氏と別れた』
『別れたっていうか、切り出されたんだけど』
『新しく好きな人出来たからって』
『一方的に話して逃げてった。ほんとウケる』
壁に殴り書きされた落書きのように、散発的な文章が矢継ぎ早に更新される。
自暴自棄な文面からは疲れのようなものも見て取れるが、下手に受け答えをする気はなかった。俺と彼女は、既に赤の他人なのだ。
『あんた今日のお昼にさ、女の子と歩いてたでしょ。制服着た子と』
『リョーマが気付かなきゃ知らなかったけど』
『最低。趣味悪。パパ活整形クソブタ野郎』
アカウントにはまだ三回分メッセージを送れるポイントが残っている。ふうっと息を吐き出して
『もう全部忘れる』
『サヨナラ』
――我ながらよくぞここまで目を通したものだ。
「このユーザーにブロックされています」という注意文が画面上に浮かんだ瞬間、俺はマッチングアプリを消去する。言いたいことは山ほどあった。あったはずなのだが、いざ吐き出す先を
自分を不幸にした人間への最大の復讐は幸せになる事だと、どこかで聞いたことがある。本当に、そうだろうか。
殴られたら殴り返さねば気が済まないように、心に受けた暴力は同じようにすることでしか清算できないのではないだろうか。
俺にはその理論が、強者が幸せなまま逃げおおせるための言い訳にしか聞こえない。
「……ざけんなよ」
攻撃的な感情に引っ張られ過ぎている。
二度目のため息がこぼれ、そばに置いていたミネラルウォーターを飲もうとボトルを掴み、キャップを開けようとする。
瞬間、鳴り響いた着信音に俺はかっとなった。
「おい! なんなんだよさっきから……!」
『――ぅおおぉっ!? ……お、おいおいギン? 大丈夫かよ……?』
聞き馴染みのある低音に耳を離せば、スマホに表示されていた“おやっさん”の名前に肝が冷えた。
すぐさま感情的に言葉をぶつけてしまった事を
しかし業務連絡ならチャットのやり取りで事足りるだろうに、どうしてわざわざ通話を選んだのだろう。
急ぎの用事でもあったんですかと問いかけると、どこか歯切れの悪い吐息が聞こえてきた。
『いやあ、今日な? お得意様からずんだ餅もらってよ、ずんだ餅』
「はい」
『ギン、今週の土日休みだろ? 冷蔵庫に入れといたから明日のうちに食っとけよって……なあ?』
「なあって、もしかしてそれだけの為に?」
『…………おう』
唸り声のような弱い返事に、俺は
急ぎの用事でもなければ業務連絡かどうかさえもあやしいラインで、そもそもおやっさんぐらいの中高年はどうしてこう、電話をかける事にためらいがないのだろう。こういう
これがいわゆる、ジェネレーションギャップというものなのだろうか。
「……ご丁寧に、どうもありがとうございます。後でいただきます」俺は
『あぁ、今日バイトの子の面接してなぁ。合格にしたから、来週から来てくれる事んなったぜ』
「内容的にそちらを先に話すべきだったのでは……?」
豪快な笑い声が電話越しに
『これから折り紙作ろうとしてんだがよ。ギンに送ったヤツぁたしか、ペンギンだったよな?』
「ええ、そうですね。親子ペンギンの」
『早ぇよなぁ。お前が来てくれてから二年経つぜもう――』
折り紙細工で作られた大小二匹の親子ペンギン。棚の上に飾ってあるそれは、俺が初出勤の日にもらった、おやっさん手製の代物だった。
――お疲れさん。明日からもよろしくな、ギン。
妙に茶目っ気のある笑った顔はあの頃から変わらない。筋肉質な外見に反し、意外と手先は器用なようで、新人のアルバイトが入るたびに「歓迎のしるし」と称して動物の折り紙細工を贈呈していた。種類は違えど、来週入るというアルバイトにもきっと同じものが贈られる。
ほんの少し遠慮のないところはあるが、俺はこの人の事が嫌いじゃない。
「……今度の土日、ちょっと岩手にまで向かう用事があって。なので何か、おみやげの注文があれば」
『おっ? ああ、まあみんなでシェアできるモンなら何でもいいが……――』
チャットで聞けばわかることを電話越しに聞いてしまう。という事は少なからず、俺もこの人の影響を受けているのだろうか。
けれど日頃の礼をするには、いい機会だと思った。
明後日の早朝、朝日に照らされた街並みはさながら起き抜けのように感じられて。俺は寝ぼけまなこをこすりながら、人もまばらな街を歩いていた。
すれ違うあくびに眠気を誘われるも、足を動かしていれば次第に目的地にたどり着く。
芽衣さんとの待ち合わせ場所である高速バスセンターに入ると、すぐに彼女の姿を見つけられた。白のブラウスに、パステルカラーの黄色いロングスカート。会うたびに変わっていた髪型も、今日はシンプルなストレートに
「おはようございます、銀平さま」
俺を見つけるなり立ち上がって挨拶し、
「おとといとは来る順番が逆ですわね!」
「おはようございます。朝はっ――」がらついた声を咳払いをして整える。「……朝は、ちょっと苦手なので」
「ぎ、銀平さま……もしかして太陽に
「焼かれてません。吸血鬼かなんかだと思ってます? 俺のこと」
くたばりかけの吸血鬼とは対照的に、芽衣さんはこんなに早い時間からでも覇気に満ちていた。目元には眠気を感じさせず、
隣に併設されているコンビニで飲み物を買うと、ほどなくして二台のバスが停留所に流れ込んでくる。
俺が最初に来たバスに乗ろうとしたところ、芽衣さんに「乗るのはあっちのバスですわ」と二台目のバスにまで手を引かれてしまった。
「っふふ、意外とうっかりさんなところがあるんですのね!」
「まだ頭が回ってないだけです……席はどちらが?」
「出来れば窓側が。よろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
席に着くなり、甘い花の香りに
ちょっとすいませんと腕を伸ばし、備え付けのカーテンを閉める。芽衣さんは目を丸くしたあとにやんわりと微笑んで、
「お気遣いありがとうございます――まるで使用人か、執事のようですわね」
「言い過ぎです。具合を悪くしないか、心配になっただけですから」
車内がかすかに揺れるたび、腕に触れる体温がぎこちない。
走り出したバスは街を抜け、向かいの車窓からは少しずつ、緑が増え始めていた。
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