第9話 フラッシュバッカー


 芽衣さんが老舗呉服店のお嬢様。その肩書きに疑いを持っていた訳ではないが、彼女の目利めききはどうやら本物らしかった。


「……サイズ、言ってないよな……」


 試着室で芽衣さんが選んでくれた水着を穿いてみると、窮屈きゅうくつに感じる部分がまったくない。いやいや、まさかそんなはずはと試しに足を動かしてみたが、感想は変わらなかった。突っ張る感じもせず、ごく自然に馴染んでくれる。


 デザインにも不満はないし、これに決めていいだろう。俺は幾何学きかがく模様が刻まれたハーフパンツの水着をカゴに突っ込み、試着室を後にする。


「お待たせしました」


 他の水着を見ていた芽衣さんに声を掛け、


「水着、これにしようと思います。ただ、俺に合うサイズなんてよくわかりましたね」

「お役に立てて何よりですわ! 何度も服と人の体型を見比べるうちに、自然と分かるようになりましたの。……これで信じてくださいましたか?」


 胸の内を見透かしたように芽衣さんが得意げな表情を浮かべる。


「最初から疑っていません……が、素直に凄いと思います」


 裏打ちが確かなものと分かった瞬間、浅ましいとは思うが彼女の輪郭にオーラが見えた。身分のいい者が持ちうる、高貴な光。それは普段の振る舞いからもにじみ出ていた光であったが、同時に住む世界が違うのだと壁も感じてしまっていた。


 自分勝手な劣等感はおくびにも出さず、俺たちは必要な小物を買いそろえる。


 日焼け対策のUVジェルにフード付きのラッシュガード、サンダル――足りないものがあれば店をはしごする必要もあるだろうかと考えていたが、幸いにも品揃えが豊富だった。フロア内を回れば、欲しいものがすぐ手に入る。


 そうして諸々の会計を済ませる頃には午後二時半を回っており、驚くべき事に芽衣さんと合流してからまだ三十分ほどしか経っていなかった。


 必然、会話はこの後どうしようかというところにたどりつく。


「芽衣さんのおかげで早く終わりましたね。というより、早く終わり過ぎたというのが正確かもしれませんが」

「えへへ……銀平さまはこの後、何かご予定でも?」

「いえ、特には」

「でしたら、下の階にあるカフェでお茶でも――」


 エスカレーターを降りて、すぐ右側に見えるカフェに入る。


 ガラス窓越しに座っている人物に気付きさえしなければ、たぶん、そうしていた。


「……すみません」

「へっ――? あっ、銀平さまっ……!」


 不躾ぶしつけな行いを心の中でびながら、しかし足は止まらない。止められない。


 彼女――ユミコに見つかってはいないだろうか。


 窓際にいたあの女は、いま付き合っている彼氏と会話しているように見えた。何を話していただとか、どんな様子だったかなんてことはすぐ目を逸らしてしまったから分からないし、どうでもいい。


 ただ今は、芽衣さんと一緒にいるのだ。一緒にいるところを見られればあらぬ誤解を受けかねず、迷惑をかけたくないという思いが第一に浮かぶ。


 即席の無関係を装って外に出ると、降り注ぐ陽射しが目を差した。

 頭上には突き抜けるような青天が広がっているというのに、心にかかる雲だけは晴らしてくれない。


「銀平さまっ!」


 太陽にかかる雲が影を落とす。しかし、芽衣さんは暗い境界線を踏み越えて、


「も……もしかしてお手洗いでしょうかっ!? わたくしが荷物を持っていますから早く急いでくださいませっ! 大惨事になってしまいますわっ!」

「だッ――別にもよおして急いでた訳じゃありません……!」

「でしたら、どうして――」


 言い返せない俺に彼女は歩み寄り、


「どうして、そんなに慌てていますの?」

「別になんでも……ただ会いたくない人を見つけたので」

「……銀平さまの頬を叩いた方ですわね」

「は……? なんで分かっ――」


 あらわにした動揺を包み込むかのように、優しく微笑みが浮かべられた。


「まあ、本当にそうだったのですね? わたくしは思い当たるふしを言ってみただけですのに」


 ――やられた。


 カマを掛けられたと気付いた時には遅かった。駆け引きのやり方まで親から教えられているなどとは思わなかったが、手玉に取られたことに対してはいいようのない敗北感を覚えてしまう。


 俺は雲の影から顔をのぞかせる太陽に、腹の底で中指を立てた。




 ショッピングモールとは違い、適当に立ち寄ったゲームセンターはひどくごちゃついていて騒がしい。


 ひっきりなしに鳴り響く派手な効果音、ループする流行りのアニメソング。規則正しく配置されたクレーンゲームの筐体きょうたいはぎらぎらと光を放っていて、隣を歩いていた芽衣さんはある一台の前で足を止める。


 パネルの向こうにあったのは特徴的なウマの耳と尻尾を生やした、俗にいう美少女フィギュアだった。


「やってみます?」


 何気なくこぼした一言に小さく首を振り、


「以前遊んだことがあるのですが、全然ダメダメで……でも目を惹かれますわ。造形が力強くて、なのに綺麗で、可愛くて……」

「……わかります」

「えっ?」

「いえ、なんでも。……ちょっとお金、崩してきます」


 俺がよく遊んでいるスマホゲームに登場するキャラクターだったから、というのもあるかもしれないし、気を紛らわせたかっただけなのかもしれない。


 芽衣さんが俺の好みや趣味を知っているはずがない。

 けれど単純に――ほんの少しだけ、俺の好きなものに興味を示してくれたのが嬉しかった。


 間隔を空けて配置された二本のバー。その上に置かれたフィギュアの箱を、バーの間にあるスペースに落とす事。遊び方は一見簡単に思えるが、UFOキャッチャーのアームが弱いせいでこれがなかなか難しい。


 早くも一枚目の五百円玉が無駄になる。頭で別の事を考えながら、俺は次のお金を投入した。


「――中学の頃の話です。俺を叩いたあの女はユミコって名前で、クラスメイトをあおって俺をいじめてました」

「……いじめ……」

「この間の七夕まつりで会った時は向こうが別の男と浮気していて……ただ俺も同じ事をしていたので、自分の事を棚に上げる気はありません。それでもあの女は、俺にとってわかりやすいトラウマの象徴で」


 どれだけ丁寧に動かしてもアームは箱の表面を撫でるだけ。


 それでも回数をこなすうちに、なんとなく攻略の糸口がつかめてきた。少しずつ、箱の位置をずらすように動かしていく。


「だから……いや、だからって言うのもおかしいですね。あの女のせいで付き合ってた子と別れたのは辛かったけど、客観的に見たら俺だって悪人です。浮気したんだから、救われちゃいけない」


 ――俺は正しい事を言っている。

 なのに口にすると、後悔の念がやってくるのはなぜだろう。


 鬱積うっせきした想いに引っ張られ、手元が狂う。積み重ねた順調な成功も、たった一度のミスでほとんど水泡に帰してしまった。


「……芽衣さんは、大丈夫なんですか」

「何がでしょう?」

「制服姿で異性といるところを見られたら、変な勘違いをされるかもしれません。それから噂が立ったりして」

「いじめに遭うかもしれません」


 言葉を先取りして芽衣さんは小さく笑いかける。


「目上の方と一緒にいるなんて、ボランティア活動をしていれば日常茶飯事です。お友達にも話している事なので、銀平さまが考えているような事にはなりませんわ」

「……それでも、気を付けた方がいいと思います」

「心配してくださるのですね。でも本当に大丈夫ですわ、ありがとうございます」


 根も葉もない噂を流されること。それが孤立であったり、いじめの呼び水になり得ることを俺は身をもって知っている。


 人当たりのいい芽衣さんがひどい仕打ちを受けるようには思えないが、どうしてだろう。いざそのような場面を想像すると、ひどく胸が痛くなった。


 心が折れそうになりながらも、諦めずに、最初から少しずつ――やがて取り出し口にフィギュアの箱が落ちてきた時、芽衣さんは我が事のように喜んでくれた。


 通りがかった店員を呼んで箱を入れる袋をもらう。俺は受け取ったフィギュアを、そのまま芽衣さんの前に差し出した。


「あげます」

「えぇっ!? い、いいのですか?」

「はい、最初からそのつもりだったので」


 不意によぎる、フィギュアを見つけた時の芽衣さんの瞳。話を聞いてくれたお礼というのもあるにはあったが、興味に輝く目を見てどうにか報いたいと思ってしまった。


 当初、想定していたよりも荷物は増えてしまったが、芽衣さんの表情はすこぶる明るい。人通りの増えたアーケード街を歩いていると、ぽつりと言葉が落ちてくる。


「銀平さまが悪人だったら……この世は悪人だらけかもしれませんわね」


 もしかしたらそれは、強がりやなぐさめのような言い分だったのかもしれない。天窓から注ぐオレンジ色の光が、芽衣さんの頬を淡く照らす。


「心がボロボロの状態なのに人助けができる人は、悪人失格な気がしますわ」

「人を使い古しのボロ雑巾みたいに言わないでください」

「っふふ、すみません。でも本当に嬉しかったんです、己をかえりみずに手を差し伸べてくれたことが」

「……芽衣さんはなんでも、ポジティブに捉えてくれるんですね」

「お嫌いですか?」

「いえ」


 マスクを鼻にかけ直し、


「羨ましいです。俺は根暗なところがあるので」


 聞きようによっては嫌味に受け取られてしまうのでは。脳裏をよぎった不安を、夕焼けのようにあたたかな笑みが溶かしてくれる。


 誰かと一緒にいる安心感。

 忘れそうになっていた感覚を思い出させてくれる笑顔だった。

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