第4話 鷹から生まれた鳶の子は


 おぼろげな天の川は翌朝、雨となって街に降り注いだ。


 七夕まつりの間はなんとか持ちこたえていたのだろう。目覚まし代わりに聞こえる雨音で目を覚まし、俺は洗濯物をバッグに詰め込んでコインランドリーまで足を運ぶ。場所は近所だが、雨足が強いせいで多少濡れた。


 誰もいない店内、安っぽい洗剤の香り。乾燥機の中でのんびり踊る衣服を眺めていても仕方ないので、スマホゲームでもしながら適当に時間を潰す。


 マンションの自室に戻る頃には、時刻は八時半を回っていた。


「……だるい」


 洗面台の鏡に向かえば、当然ながら自分の顔が映っている。しかし俺はこの顔を、いまだ自分のものだと認識できない時がある。


 奥二重のまぶたは埋没法を利用して作り上げ、厚かった唇は切除、縮小を重ねて薄く目立たないように。潰れた鼻はシリコンプロテーゼ――簡単に言えば人工的に作られた軟骨――を使って高く見せる。


 大人びた顔の自分は、精巧な医療技術の産物だった。


 この顔になってからもう五年が経つが、自分が幽霊にでもなって他人に取り憑いているのではないかと、時折錯覚を起こしてしまう。手早く洗顔を済ませてから、俺はいつものようにメイクを乗せ始める。


 ――父さん、母さん。俺、整形したい。


 中学卒業後、春休みのタイミングだった。


 顔や容姿をきっかけに三年間もいじめを受ければ、嫌でもコンプレックスを刺激される。俺は、俺をいじめていたユミコとクラスメイトから離れる為にわざわざ遠方の高校を受験し、両親に胸の内を明かした。


 立派な顔に生んであげられなくてごめんね。銀ちゃん。

 俺たちもずっとギンの味方でいる。だから大丈夫、大丈夫だからな。


 とびたかを生むなんてことわざがあるが、俺と両親の関係は真逆だった。


 美人と呼んで差し支えないくらい恵まれた容姿をもつ母親と、どんな時も頼りがいのある優しい父親。二人とも俺を愛してくれた。抱きしめてくれた。


 そんな鷹から生まれたのが俺という鳶だったのだから、まったく皮肉としか言いようがない。けれどもっと皮肉なのは――


「……いってきます。母さん、父さん」


 鳶より優れているはずの鷹が、この世にいないという現実だった。


 即死だったらしい。


 車で買い物に出かけていた両親は対向車線からはみだした大型トラックと衝突。相手の運転手は寝ぼけまなこでハンドルを握り、挙句ブレーキとアクセルを踏み違えた。父さんは、母さんをかばうような姿勢で事切れていた。


 整形手術を終えた日の帰り、両親は俺の顔を見ることなく、空へと旅立ってしまったのだ。


 どうして優れた鷹ではなく、みにくいブタが生きているのだろう。

 泥のようにこびりついた疑問をマスクの奥に隠してしまう。バイト先の小洒落こじゃれた空気は、ある意味で救いだったに違いない。


 抹茶のドリンクと期間限定のパインフラペチーノ、それぞれを十代であろう男女の客に提供する。雰囲気がおしゃれな事で有名なチェーン店のカフェで働くこと、それが今の俺の仕事だった。


 勤務歴は今年で三年目。店の仕事をほとんど覚えた今では、新人のアルバイトに接客やドリンクの作り方などを教える機会も増えてきた。


 今日は雨のせいか客足が緩い。時たま出そうになるあくびを噛み殺しながら、俺は業務をまっとうすることに集中する。


「――おう、ギン。おつかれさん」

「あ……お疲れ様です。おやっさん」


 休憩時間中、スタッフルームでサラダチキンにかじりついていると、低音の効いた深みのある声が降ってきた。


 白髪交じりの髪を後ろで結び、筋肉のついた腕がワイシャツの袖から覗いているこの人はカフェのオーナー――俺を含め、バイトスタッフはみな彼のことを“おやっさん”と呼び、親しんでいる。


 詳細な年齢は知らないが、おそらく中年あたりであろう。本名も面接の際に告げられたはずだが、おやっさんという呼び名が浸透しているせいでどうにもうろ覚えだ。たしか無駄に仰々しい名前だったような気もする。


 おやっさんは上機嫌な笑みを浮かべながら、


「やっぱいい響きだよなぁ……おやっさんってよ」

「俺たちにそう呼ばせてるの、結局なんでなんですか? ドラマの影響とか?」

「みたいなゲームの影響だな」

「は……?」

「ドラマ、みたいなゲームの影響」


 「あ、これ栗まんじゅうだから。後でみんなで食っとけよ」と脇に抱えていた小包みを冷蔵庫にしまい、どっかりと椅子に腰を下ろす。


「前、働いてた子に……ああ、なんだっけ。名前忘れたな。まあなんか、動画配信者の実況をすすめられてよ。そのゲームに出てくる極道の親分がえらいカッコよくて、それからだ。ハハハ」

「ハハハ――って……なんですか、その理由」


 つまりおやっさんはゲームキャラに影響を受けて、えつに入りたいが為だけに、俺たちに呼ばせていたという訳だ。


 そう思うと途端に子分のような、みじめな気持ちが湧いてくる。理由としては子供っぽいこと極まりないのだが、この人の作る笑顔は妙な茶目っ気にあふれていて憎めない。


 目元を隠すサングラスも手伝って、外見的にはやや強面こわもてな部類のはずなのに、これがいわゆるギャップというやつなのだろうか。


「それよりどうだ、昨日の七夕まつりは。いい息抜きになったんじゃねえのか?」

「……そうですね。楽しかったです」


 おやっさんは左手薬指に残る、指輪のあとを触り始める。


「そっ、か。なら休ませた甲斐があったってモンだなぁ……」


 楽しかっただなんて大嘘だ。だが日頃世話になっている人間に対して、ありのままを伝えてしまうのは気が引けた。


 そしておやっさんは、嘘と本音の見極めが上手い。


 薬指の後に触れたという事は、俺の嘘などとっくに見破られているのだろう。昨日まで交際していた彼女と一緒で、おやっさんにも無自覚にしてしまう“クセ”があった。


「午前中、面接してましたよね。バイトの」


 ばつの悪さに負けて話題を変えると、サングラス越しの視線がぴくりと持ち上がる。


「どうでした? ぱっと見は体育会系って感じで、明るそうな人に見えましたけど」

「ん~……今回は見送りかもなぁ」無精ひげを親指で掻きながら、「すぐ馴染めそうだったんだけどな? でもバランスがなぁ。ウチって結構、実は人見知りです、みたいな子が多いから、食い合わせ悪そうなんだよな」

「はあ、食い合わせ……」


 そういうものなんですかという適当な相槌に、そういうもん、そういうもんとこれまた適当な首肯が返される。


 おやっさんなりの採用基準があるのかは分からないが、とどのつまり、フィーリングに合わなかったのだろうなと俺は勝手に解釈している。採用される時はされるし、されない時は縁がなかったという事になる。


 休憩時間が終わったのでホールに戻る。


 店舗が駅近くにあるという立地上、どんな天候や時間帯であれ、そこそこの客は来る。しかし一度ピークを過ぎてしまえば、店内でくつろぐ客を眺めるだけの時間がやってくる。


 ほどほどに忙しくて、ほどほどに暇なくらいがちょうどいいのさ。


 年度末に上京した先輩の言葉が頭をよぎると、新たな客が来店した。いらっしゃいませと反射的に声を出し、離席している新人のアルバイトに代わって接客する。


「お待たせしました。ご注文はお決まりでしょうか」


 普通であれば注文か、迷っていたのだとしても一言か二言程度の相槌は返してくれるものだろう。しかし訪れた沈黙は、少々長すぎる気がした。


「あの、お客さ……」

「――もももももっ、もしかしてその声はっ! 先日わたくしをエスコートしてくださった、銀平さまではありませんかっ!?」


 彼女は俺の事を、臆病な自尊心と、尊大な羞恥心から虎と化してしまった詩人の成り損ないだとでも思っているのだろうか。言い分はさておき、俺の事を“銀平さま”と呼んでくれる人間は一人しか思い浮かばなかった。


 ――また会いましょう、銀平さま。


 記憶の中と目の前にいる人間の顔が、寸分たがわず重なった。

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