壊れた壁
まるで見えない圧力に押しつぶされたかのように木材が粉々に砕ける。
清影の一撃が生んだ衝撃が、風となって桔梗の髪を荒々しく揺らした。
桔梗は息を呑み、舞い散る壁の破片を呆然と見つめる。
清影はあまりにも容易く、何の苦もなく、ただ手を一度振るだけで壁を消し去った。
人間の力ではない。そう思い知らされる。
「ほら。己の身と君一人守れるくらいの力はありますよ。鬼なので」
粉塵の中、清影は何事もなかったかのように薄く笑っていた。
「というか、次に食うなら君だと決めたので、一人にして死なれたら困ります」
硬直していた桔梗はぽっかりと穴が空いた壁を見つめ――絶叫した。
「何してるのよぉぉぉおおおおお!」
離れ屋とはいえ家の一部が破壊された。
月宮家には修繕費を捻出できる余裕もない。
「俺が強いことを理解していないようだったので」
「口で説明してくれたら十分よ……! こんな、手荒な真似……!」
清影の襟を掴み、ぶんぶんとその体を揺らして怒鳴りつける。
そもそも食いたくなったとは何だ。
「前のあなたは私が美しくないから食わないって言ってたんだけど?」
「俺が美しさを感じるのは、地を這いずり回っているような弱者が、無謀にもその身一つで強者に立ち向かおうとする姿なんですよ」
しれっと答えられ、悪寒が走った。
この鬼は自分を食わないと確信があったからこそ行動を共にしていたが、そうでなくなるなら話は別だ。ただでさえ厄介なのに、さらに厄介なことを言い出したこの男をどう扱えば……と頭を悩ませていた時。
「桔梗!? 凄い音がしたけど大丈夫!? 裁縫をしてるのよね!?」
離れ屋に続く渡り廊下から母の声がした。母は壁が弾ける大きな音を聞いて駆けつけてくれたらしかった。
桔梗は慌てて戸を薄く開き、顔の半分だけをひょこりと出して母に返事した。幸いにも穴が開いたのは入口とは反対方向にある壁なので、母からは見えない。
「だ、大丈夫よ! 裁縫をしてたら転けちゃって……」
「ならいいけれど……あなた、裁縫なんて自分の部屋でやりなさいな。離れは寒いでしょう」
「き、気分転換よ! たまには場所を変えた方が捗るの」
母が訝しげに、じぃっと桔梗を見つめてくる。
「……桔梗、この間から様子が変よ。何か隠してないわよね?」
「なっ……何も?」
見つめ合うこと数秒。桔梗は母から先に目を逸らした。
母は大きな溜め息を吐いた。
「とにかく、危ないことはするんじゃないわよ。それと、誠二さんとの結婚話が破談になるようなことも」
「わ……分かってる」
「分かってるならいいけれど……」
はぁ、ともう一度わざとらしく溜め息を吐いた母は、踵を返して来た道を戻っていった。
母がいなくなったのを確認してから、桔梗はばっと後ろを振り返る。
「〝そこで正座しなさい〟!」
同時に、奇術を使って命令した。
足を崩していた清影の体がその意思に反して動き出す。足首が重なり、膝が揃う。背筋がぴんと伸び、両手が太ももの上に置かれた。
正座の姿勢で固定された清影は、不快そうに眉を寄せる。
「何のつもりですか」
「何のつもりですかじゃない! 先生の時もそうだったけど、私の傍にいる時は手荒な真似は控えて。あと、壁は破壊しないこと!」
「はあ……」
「気のない返事やめなさい! 返事は『はい』!」
「…………」
「『はい』!」
「……はい」
清影が心底怠そうに答える。
その態度が余計に桔梗の神経を逆なでした。
「人に乱暴はしない、物を破壊しない、私を食わない。この三つ、約束できる?」
「何故俺が君の言うことを聞かなければならないんですか?」
「逆にどうしてそんなにふてぶてしい態度なのよっ! 私、奇術の扱い方は分かってきたし、あなたにいくらでも言うこと聞かせられるのだけど?」
支配できる対象は、過去に自分を殺した存在。清影は前々回の人生で桔梗のことを殺している。この事実がある限り清影は桔梗の支配下だ。
逆に言えば、鷹彦が桔梗を殺さなかったのは、桔梗が自分を支配できるようになれば脅威になり得ると判断したからなのかもしれない。
桔梗の奇術はあの恐ろしい鬼が警戒するほどに強い。であれば、清影にだって多少強気に出たっていいだろう。
「私はあなたに自害しろと命じることもできる。あなた、捜してる人がいるんでしょう? その人を捜し出すまでに死ぬのは嫌よね?」
「それを持ち出してくるとは、本当にいい性格をしてますね?」
「あなたに言われたくないわ!」
「まあ確かに、この体の母親を見つける前に死ぬのは困りますが」
「でしょう? だったら、私の言うことも少しくらいは聞いて。『人に乱暴はしない、物を破壊しない、君を食わない』。はい、続けて」
「『人に乱暴はしない、物を破壊しない、君を食わない』」
物凄く棒読みなのが気になるが、ひとまずそれでよしとして、桔梗はその場に座り込んだ。
桔梗が気を抜いたために奇術が解除されたのか、清影は姿勢を崩した。
「あなたの強さは分かったから、明日はお望み通り付いてきてもらう。それで先生を守ることができたら、その後は壁の修繕を手伝ってもらうわ」
「俺の力で壊れるような脆い壁の方が悪いのでは?」
「壊そうとしなければ壊れないでしょうが! 壊したものを壊した人がどうにかするのは当たり前なの!」
清影を睨み付けて叱った後、まるで大きな犬を躾けているような気分だと脱力しながら、まだ温かい夕飯を見下ろした。
食べるのが速い清影の皿の方はもうほとんど空っぽだが、桔梗のご飯はまだまだ残っている。
先生が死んだ光景を見た後で食欲が湧くはずもなく、既に準備してしまったこの食事をどうしよう、と悩んでいた時。
「食べないんですか? じゃあもらいます」
横から長い手が伸びてきて、桔梗の膳を奪い去ってしまった。
本当にふてぶてしい鬼である。
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