女性の本分
◆
てっきり殺されると思っていた。
しかし目を覚ました時、桔梗は五体満足で生きていた。
体に異変が起き始めたのは、それから二週間ほど経ち始めた頃だった。最初は気の所為とも取れる小さな異変だったのが、数ヶ月も経てば明確な体の変化として現れた。
覚えがなく、容易に信じられないことではあったが、桔梗は妊娠していた。
思い当たることがあるとしたら、鷹彦に襲われたあの日の一件だけだった。
夫の誠二が証言したことで桔梗は姦通罪となった。
桔梗は鷹彦が鬼であると必死に主張したが、証拠がなく、狂言として扱われた。
女性の本分は妻として夫を敬愛、随順し、母として祖先の後継者を作り、将来御恩に奉公する国民を育てることである。
男性は結婚後も愛人を作り遊び倒すのが甲斐性とされているが、女性が不貞を働いたとなれば厳しく取り締まられてしまう。
たとえ男から無理やり行為に及んだとしても、どれだけ抵抗できないような状況であったとしても、夫以外の男と体の関係を結んだ女性は、貞操を守ろうとしなかったとして罪に問われる。
夫である誠二との間に夫婦の営みがない中、他の男との間に不義の子をなした桔梗は、牢獄に入れられることになった。
檻の中は寂しかった。近くに収監されていた年の離れた女性と一時期よく会話を交わしていたが、その女性は先に釈放されてしまったため、桔梗はまた一人になった。
獄中で子を産んだ。女の子だった。
鬼との間の子とはいえ、我が子は可愛いものだった。
その子供は藤山家の温情で藤山邸で育てられることになった。
誠二はどういうつもりなのか、積極的にその子を引き取って育ててくれた。
桔梗がようやく外へ出ることができたのは二年後だ。
藤山邸へ戻ればそこに何があるのか、桔梗はもう知っていた。
並木とガス灯を配した大通りの歩道を抜けた先に、ひっそりと佇む巨大な洋館。
刑期を終えた桔梗は、由緒正しき名門の証、藤の花を模した藤山家の家紋を空虚な気持ちで見上げていた。
既視感がする。この秋の冷たい空気も、塗り直された邸宅の門も、庭の古木が二年の間に姿を消していることも、初めて見る光景であるはずなのに知っていた。
ゆっくりと戸を開ける。
一歩、内側へと足を踏み入れる。
女中たちが動き回っているはずの昼間にも拘らず、不自然に静かだった。
広い玄関を通り過ぎ、階段の方へと向かえば、一気に血の匂いが香ってきた。
心臓が嫌な音を立てる。
夢であってほしいと願う。
けれど、この光景は三回目。まるで同じ劇を何度も鑑賞しているような心地だった。
一度目は邸宅中を彷徨って捜した桔梗も、今回は迷わずその場所へ向かった。
階段上に倒れ伏した義母の淡い色の着物には鮮やかな血が滲み、その数段下で倒れている義父の腕は不自然に折れ曲がっている。
その惨状の中央に立つ男は、階段の手すりに片手をかけ、無表情で桔梗を見下ろしていた。その口元にはべったりと血が付着している。
食ったのだ、と悟るのにそう時間はかからなかった。
口を開くが、声が出ない。
桔梗は踵を返し、逃げ出すように大広間まで走り出した。
大広間では知っている通り、夫の誠二、女中、そして――我が子である娘が無惨にも食い殺されていた。
桔梗は大きな叫び声を上げて邸宅から飛び出した。
またこの展開。続く悪夢。同じことの繰り返し。
(何が起こっているの?)
夢ではない。桔梗はこの光景を三度も見ている。
時が戻っている。
こんな光景が繰り返されるなんて、何かの呪いなのではないかとすら感じた。
桔梗は息を荒げながら走り続け、いつも最期を迎える場所へ向かった。
小高い崖の上。一度目も二度目も、桔梗はここから飛び降りて自死している。
誠二も愛娘も、仲良くしてくれた女中たちもいない世界で生きている意味などないからだ。
いや、たとえ彼女たちが生きていたとしても、不義の子をなした桔梗のことを快く受け入れてくれる場所などどこにもない。
目を瞑って飛び降りようとした――その時、ふわりと甘い香りが漂った。
顔を上げれば、高い木に咲く黄色い小さな花が目に映る。菩提樹だ。
菩提樹の実は浄化作用があるとされており、数珠を作る際の素材となっていると聞いた。
そういえばこの崖は、近くに寺があった。
「死ぬのですか」
聞き慣れない男の声がして振り返る。
背丈は高く、引き締まった体格が目を引いた。着物に藍色の羽織を纏ったその男の顔立ちは端正で、鼻筋は通り、薄く整った唇は微かに笑みを浮かべている。
一瞬体が強張ったのは、彼の雰囲気が鷹彦に似ていたからだ。
人を惑わすような妖しい色気を感じさせる、鷹彦と並ぶほどの美形だった。
不審に思った。
いつもと展開が違う。いつもより早くここに辿り着いたからだろうか。
何か答えようとして、桔梗はあることに気付いて口ごもった。
しばし沈黙した後、ゆっくりと口を開き、警戒しながら問いかける。
「あなた……鬼でしょう」
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