冷たい手と見放す目
「無駄話をする余裕があるほど仕事が早くなったのか?」
「し……失礼しました。すぐにご用意いたします」
鷹彦が苦手なのは女中たちも同じようで、青い顔で頭を下げ、さっさと炊事場へ立ち去っていく。
鷹彦は誰に対してもきつい物言いをする。愛想もない。少し口を開けば怒られるので、いつもは気丈な桔梗にも緊張が走っていた。
ふと、鷹彦の目が桔梗の手元の風呂敷包みをじっと見ていることに気付く。その中には酒屋で買い揃えた誠二のための酒があった。
(……義理の家族として親睦を深める、またとない機会かもしれない)
陸軍士官学校を卒業してから軍で順調に昇進し、現在は一般部隊で指揮官をしている忙しい鷹彦とは、接触する機会自体が少ない。こうして対面するのは久しぶりだ。
こちらが理解しようとしていないだけで、話してみれば気さくなお方かもしれない。
桔梗は威圧感に負けじと彼を見上げ、どうにか話を広げようとした。
「お酒、お好きなのですか?」
「好きだ」
鷹彦の答えはすぐに返ってきた。彼の口から滅多に聞かない肯定の言葉だ。
内心少し驚きながらも、桔梗は風呂敷の中から酒の瓶を取り出した。
西洋の食文化と一緒に海を渡ってきた高級品だ。牛鍋屋で飲んだ時、誠二がおいしいと言っていたのを桔梗は聞き逃さなかった。誠二が喜んでくれるだろうと買ってきたものだが、三本ほどあるので、一本であれば鷹彦にあげてもいいと思った。
「よろしければ、どうぞ」
ずいっと差し出すと、鷹彦の大きな手が桔梗のものと重なる。
受け取ってもらえた喜びでぱっと顔を上げると、桔梗を見下ろす鷹彦と視線が絡み合った。間近に綺麗な顔がある。睫毛が長い、と悠長に感心してしまった。
「部屋に」
「え?」
「部屋で注いでくれないか。ゆっくりと飲みたい」
「……部屋でですか?」
「何か文句があるのか?」
訝しく思った。
しかし鷹彦に凄まれ、曖昧に頷くことしかできなかった。逆らえばただでは済まされない――そう感じさせるような風格が彼にはある。
鷹彦の自室は広い和室で、畳の香りと紙の匂いがした。藤山家の邸宅は、来客用の応接間は洋室だが、それ以外の生活の場は大抵和室である。
初めて入る鷹彦の部屋。鷹彦は食事すら自室で取っており、一家の交流の場には一切現れない、義兄とはいえ得体の知れない存在だ。
桔梗は緊張しながら座布団の上に正座し、鷹彦の手の内の酒器にとくとくと酒を注ぐ。
酒を飲んでいる間鷹彦はずっと無言で、機嫌がいいのか悪いのか分からない表情をしていた。その顔色を窺いながら、桔梗はどうにか話を広げようとした。
「最近、またお忙しいのでしょうか、鷹彦様は」
鷹彦は視線を桔梗に戻す。
「忙しいに決まっているだろ」
無愛想な返事だった。桔梗が注いだ酒を受け取りながら、彼はふっとため息をつく。どこか苛立っているようにも見えた。
桔梗は静かに酒を注いだ後、少し考えてから言った。
「それほどのご昇進ですから、苦労も多いのでしょうね」
桔梗の言葉にはほんの少しの哀れみが込められていた。
鷹彦の目の下にはいつも隈ができている。おそらく時期によってはあまり睡眠を取れていないのだろう。
「ああ。長年苦労するばかりだ。気が遠くなるほど」
鷹彦が会話を続けてくれていることが意外だった。
「お察しします。でも、たまには休むことも大切ですよ」
しばらく静寂が流れた。
沈黙に耐えられず、桔梗は無理やり口角を上げて話を続ける。
「そういえば、もうすぐ汽車の料金がお安くなるんですって。嬉しいですね。鷹彦様は遠くへ行くことはございますか?」
藤山家と仲良くしている華族の中には、財閥と結びつき、鉄道や鉱業などの新産業に関与している家もある。
きっと鷹彦もこのような話題には興味があるだろうと期待して話を振ったのだが、彼はにべもなく答えた。
「いや。あんなものに足を運ぶ暇などない」
鷹彦の言葉は少し冷たく響いたが、桔梗はあえてそれを気にせずに続けた。
「たまには気分転換も大事ですよ。どこかに行ってみるといいと思います。そうすれば、きっと少しだけでもお疲れが取れるなるはずです」
桔梗は鷹彦の顔を見つめながら、精一杯の親しみを込めて言った。
「忙しくても、どうかご自愛くださいね」
会話をしながら注ぎ続けていた酒がなくなる。
また、しばしの沈黙があった。
鷹彦の白い手が桔梗の方に伸びてくる。
「……どうなさったのですか?」
鷹彦に纏う空気が一変したような気がした。
「笑うな」
低く囁く声が、まるで蛇のように桔梗の耳元を這った。
彼の指が桔梗の髪をゆっくりとすくい上げる。
「俺に向かって、笑うな」
――次の瞬間、その手は、桔梗の首を絡め取った。
喉が締めつけられる。呼吸が奪われる。
細く長い指が桔梗の首にぴたりと密着し、じわりと力を込める。
桔梗の視界がわずかに揺らぐ。
空気を求めて口を開くが、声すら漏れない。
鷹彦は桔梗の反応を楽しむように、ほんの少しだけ力を緩める。
「すぐに終わる。気を失っていた方が楽だろう。大人しくしていろ」
嘲るような笑みが桔梗の唇のすぐそばに落ち、鷹彦の唇が桔梗の小さな口に重ねられる。
噎せ返るような甘い匂いがした。酔ってしまいそうな、果実のような独特の香り。桔梗はそれを、最近どこかで嗅いだことがある気がした。
その香りが、あの点消方と最後に会った時の――鬼の香りだと、遅れて気付いた。
鷹彦の大きな体躯が覆い被さってくる。
何をされているのか理解が追いつかぬまま、桔梗は傍にあるもう一つの気配に気付いた。
薄く開かれた部屋の扉の隙間から、青ざめた顔をした夫の誠二がこちらを覗いている。
桔梗の心に一瞬、希望の光が灯った。
桔梗は必死に扉の方へと手を伸ばす。
「たす、けて」
掠れた声で助けを求めるも、誠二は――気まずそうに桔梗から目をそらし、扉の向こうからすっと姿を消してしまった。
信じられなかった。
絶望の底に突き落とされた心地がした。
(……どうして助けてくださらないの)
結婚して五年。夫婦らしいことは何一つしていない。それでも心はそれなりに通わせているつもりだった。
庭園で散策をした。茶屋で抹茶やお菓子を楽しんだ。お洒落をし、夫婦そろって観劇をした。
誠二との時間は穏やかなものだった。お互い燃え上がるような恋ではなくとも、桔梗は誠二のことを夫として好いていた。
しかし誠二は、妻である桔梗が実の兄に襲われているのを前にして、少しも助けようとする素振りがなかった。
思えば誠二は、長男である鷹彦に対していつもどこか怯えていた。
鷹彦を前にするといつも静かだった。誠二は鷹彦にだけは一切逆らおうとしない。
彼にとっては、五年付き添った妻への愛情よりも鷹彦への恐怖の方が勝つのだ。
頼りにしていた明かりがふっと突然消えてしまったようで、桔梗は抵抗する気力をなくし、意識を手放した。
これが桔梗の人生における悲劇の始まりである。
数えれば、二回前の人生での出来事だ。
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