人嫌いの鬼




 美しい男が目を見開く。


「……驚いた。鬼か人間か見分けが付くのですか?」

「鬼は独特の甘い匂いがするの」

「へえ。そこに気付く人間がいるとは初めて知りました」


 感心したように頷く男。

 この男も人の姿をしているということは、人を食って成り代わったのだろう。先程の光景を見た直後では酷く忌々しく感じられて、桔梗は顔を顰める。


 そして、ふと疑問に思った。

 鷹彦はあれだけ人を殺しておいて、その誰にも成り代わっていない。鷹彦のままだ。鬼の食事は成り代わるためのものではないらしい。


「あなたの言う通り私は死ぬ。あなたのことを邏卒に知らせる気もない。だから……最期に聞かせて。あなたたちはどうして人を食べるの? 成り代わるためではないの?」


 どうせ死ぬつもりであるから、目の前に鬼がいたって少しも怖くない。


 本来、鬼を見つければすぐに通報することになっている。相手が鬼であると分かっていて対話を試みるなどという異常な状況。自分から仕掛けておいて妙な心地がした。


 男は意外にもあっさりと答えてくれた。


「鬼にとって、人を食うことは必須ではありません。鬼は食事を必要としませんから。大抵はその鬼の趣味か、奇術を奪うために人を食すのです」

「奇術……?」


 聞き慣れない言葉を小さな声で繰り返すと、嘲るように笑われた。


「見たところ華族のご令嬢のようですが。そのくせ何も知らないのですね」


 明らかに馬鹿にされているのを感じて少しむっとした桔梗は、早口で次の質問を投げかける。


「あなたもその、奇術とやらを奪うために人を食べているの?」

「俺は偏食なので人は滅多に食いませんよ。人間は醜くて汚いですからね。生まれてこの方食ったことがあるのはこの男・・・のみです」


 男は自身の顔を指差して薄く笑った。


「……その男はおいしそうだったということ?」

「いいえ? でも、美しいじゃないですか」


 にっこりと満面の笑顔で返され、桔梗の口角は引きつった。

 美しいからという理由で食べるなんて、到底理解できない。


 桔梗は大きな溜め息を吐き、踵を返して崖に向かって歩を進めた。

 すると今度は向こうから問いかけられる。


「最期なのでしたら俺にも聞かせてください。そちらは何故死ぬのですか?」


 桔梗は一度足を止め、振り返らずに答えた。


「……戯言だと思うでしょうけれど、私はもう三度もこの日々を繰り返していて、毎度同じ鬼に陥れられて捕まるの。釈放された時には元々あった全ての幸せが奪われている。私は何度も未来を奪われる。暗澹たる日々を続けることに耐えられない」


 男がゆっくりと近付いてくる気配がしたかと思えば、彼は桔梗の隣に立ち、崖の向こうに目をやりながら言った。


「これはある人からの受け売りですが。仏教には看脚下かんきゃっかという言葉があります」


 隣を見上げれば、男の顔が夕日に照らされている。風が吹き抜け、互いの袖をそっと揺らした。


「暗い夜に毒蛇のいる危険な道を通って帰る際には明かりが必要ですが、その明かりが歩いている途中で突然消えてしまったとして。君は暗闇の中どうしますか」

「……危険なら、その場から動かないかも」

「でも、止まっていても蛇が来るかもしれませんよ」

「それは……」


 返答に窮した桔梗に、彼は幼子に語りかけるような柔らかい声音で言った。


「単純なことです。真っ暗で危ないのなら、躓かぬように自分の足元をよく見て歩くしかない」


 拍子抜けするほどに単純な回答。

 桔梗は唇を引き結んだ。


「暗い夜道で突然明かりが消えたならば、まず今ここでなすべきことは何かを考えるしかないそうですよ? 余計なことは考えずに、躓かないように足元をよく見て歩んでいく。君の行く先は真っ暗かもしれませんが、ならば自分の足元を見つめながらどう切り抜けていくかを考えねばなりません」


 ――まず今ここでなすべきことは何か。

 桔梗は足元を見下ろした。夢中で走ってきたせいで、草履が片方脱げている。自覚すると、じわりと足裏から痛みが広がっていった。


「辛く苦しい思いをした君に、仏様のご加護があらんことを」


 男はそれだけ言って桔梗の隣から立ち去っていく。

 仏という言葉を出すなんて、まるで人間のようでおかしな鬼だと思った。


 桔梗はゆっくりと視線を空へ向けた。陽光が眩しく、目を細める。


(……きれい)


 秋の空はどこまでも青く、雲がたなびいていた。

 崖の上からの眺めがこんなに美しかったことに、三度繰り返すまで気付かなかった。


 その瞬間、桔梗の心に変化が生まれた。


 もう、この世界に未練などないと思っていた。

 皆殺されてしまったから。


 親しくしてくれた女中たち――そして誠二の顔が、鮮明に頭に浮かぶ。


「鬼のお方」


 桔梗は咄嗟に彼を呼び止めた。


「私のことを食い殺していただけない?」

「……は?」


 矢継ぎ早に要求すれば、男は怪訝な顔でこちらを振り向く。


「毎度毎度、馬鹿の一つ覚えみたいに同じ死に方をするのはもう飽きた。死に方を違えれば運命が変わるのか試してみたいの」


 それに、三度も繰り返して止められなかった己を罰したい。

 誠二や女中たち、そして義両親と同じ目に遭い、その苦しみを共有したい。


 人を食いたがる鬼であればこの提案は喜ぶだろうと思った。

 しかし、鬼であるはずの目の前の男はにっこりと笑って――


「嫌です」


 と、ばっさりと断ってきた。

 さらに、余計な理由まで付けてくる。


「だって君、美しくないですから」


 頭上に雷が落ちてきたかのような衝撃が走った。

 美しさを否定されたのは初めてだったからだ。

 桔梗は俯き、わずかに震えながら反論する。


「……私、見目はそこそこよいと噂だったのだけれど……」

「造形は整っていますが、俺の好みではないですね。生気がない。まるで、墓に供えられた造花のようです」


(墓に供えられた造花!?)


 そのような例えをされた経験がなく、桔梗は口を開けたまま硬直する。

 容姿に関しては幼い頃から褒めそやされて生きてきたため、ぎょっとしてすぐに言い返すことができなかった。


「……ああ、そうだ。死に方を変えたいというのなら、もっと簡単な方法で殺してあげますよ」


 ふと思いついたように愉しげに言った彼は、突然、桔梗の肩を強く押した。


 背後には崖が迫っている。

 不意に体勢を崩された桔梗は、足を滑らせて呆気なく崖から落ちていく。

 突然のことで、何をされたのか理解するのがひどく遅れた。


「さようなら。良家のお嬢様」


 鬼は、鬼。

 人とは価値観が異なる存在。

 どれだけ優しくされたとしても、油断するべき相手ではない。


 桔梗の三度目の人生における最期の光景は、落下する自分を崖の上から見下ろす、鷹彦とは別の美しい鬼の顔だった。



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