第3章:事件発生

 ファッションショー前夜、会場となる高級ホテル「ル・グラン・ブルー」のバックステージは慌ただしい空気に包まれていた。スワロフスキーのクリスタルが散りばめられた豪華なシャンデリアの下、スタッフたちが忙しく行き交う。


 紬はトップモデルとして最後のフィッティングに臨んでいた。彼女が身に纏うのは、高島美也子が今回のコレクションの目玉として用意した特別なドレス。純白のシルクオーガンジーを贅沢に使用し、胸元から裾にかけて繊細な刺繍が施された逸品だ。ボディラインに沿ってぴったりとフィットするシルエットが、紬の完璧なプロポーションを際立たせている。


 一方、柚子はスタッフとして忙しく動き回っていた。彼女の手には、ランウェイで使用するアクセサリーのリストが握られている。「パールのチョーカー」「エメラルドのイヤリング」「プラチナのブレスレット」……次々と飛んでくる指示に、柚子は必死に対応していく。


「紬さん、どうですか? 何か怪しい動きは?」


 柚子が小声で尋ねる。その声には緊張が滲んでいた。

 紬はウインクしながら答える。その仕草は、まるでプロのモデルのようだった。


「まあな。みんなピリピリしとるわ。でも、まだ決定的なもんは……」


 その時、突然悲鳴が響き渡った。


「きゃーーーー!」


 二人は慌てて声のした方へ駆けつける。そこには、床に倒れこむ高島の姿があった。高島は、普段の凛とした姿からは想像もつかないほど蒼白い顔をしていた。


「高島さん! 大丈夫ですか?」


 柚子が声をかける。その声には、明らかな動揺が感じられた。

 しかし、高島は意識を失っていた。彼女の口元からは、かすかに泡が吹いている。


「救急車や! 誰か救急車呼んでくれ!」


 紬が叫ぶ。その声に、周囲のスタッフたちが我に返ったように動き出す。

 その混乱の中、別のスタッフが駆け込んでくる。彼の表情には、明らかな恐怖の色が浮かんでいた。


「大変です! メインの衣装が……メインの衣装が盗まれてます!」


 会場は一気にパニックに陥った。

 スタッフたちの間に動揺が広がり、モデルたちの間からも悲鳴が上がる。

 紬は柚子の耳元で囁く。その声は、いつもの軽さを失っていた。


「柚子、ワシは高島はんに付き添う。あんたは衣装の方を頼むで」


 柚子は頷き、すぐさま行動を開始する。

 彼女の目には、普段とは異なる決意の色が宿っていた。


「ル・グラン・ブルー」の豪華なバックステージが、突如として騒然とした雰囲気に包まれる。床に倒れこむ高島の周りに、スタッフたちが慌てふためいて集まっている。その中心に、紬が冷静な表情で佇んでいた。


 遠くから近づいてくる救急車のサイレンが、徐々に大きくなっていく。その音が、まるで事態の緊迫感を増幅させるかのように、バックステージ全体に響き渡る。


 紬は、高島の蒼白い顔を見つめながら、静かに周囲の人々の内なる声に意識を向ける。彼女の瞳が、わずかに焦点を失う。それは、特殊能力が発動する瞬間の、紬特有の仕草だった。


 まず、ベテランのメイクアーティストの声が聞こえてくる。


(やっぱりあの噂は本当だったのか……高島さんが、違法な薬物に手を出していたなんて…)


 その声に、紬の眉がわずかに動く。

 高島の突然の倒れ方と、この心の声。

 高島はなんらかの違法ドラッグでオーバードーズした可能性が高いと紬は踏んだ。


 次に、ライバルブランドのデザイナーの声が響く。


(これでショーは中止か。ざまあみろ。高島のブランドが落ちぶれれば、私のチャンスだ)


 その冷酷な思いに、紬の目が一瞬だけ鋭く光る。

 人の不幸を喜ぶその態度に、紬は内心でまたも軽く吐き気を覚える。

 そして、若手モデルの焦りの声が聞こえてくる。


(私のチャンスが……このショーで注目を集めるつもりだったのに。どうしよう、次のオーディションは……)


 その自己中心的な思いに、紬は少し悲しげな表情を浮かべる。

 次々と聞こえてくる心の声。それらは、高島への心配よりも、自分たちの利害に焦点を当てたものばかり。紬の表情が、徐々に厳しさを増していく。


「ったく、どいつもこいつもくそばっかりやな!」


 紬の目が鋭くなる。その瞳には、事態の重大さを悟った色が浮かんでいた。この事件の背後には、もっと深い、もっと闇に満ちた真実が潜んでいるのではないか。


 紬は、周囲の騒ぎをよそに、静かに思考を巡らせる。


(これは単なる事故やのうて、計画的な何かかもしれん。高島はんの薬物使用、ライバルたちの思惑、若手たちの野心……全てが絡み合って、この事態を引き起こしたんやないか)


 救急車のサイレンがいよいよ間近に迫る中、紬の中で推理が進んでいく。彼女の目には、これから始まる本格的な捜査への覚悟が宿っていた。


 紬は、倒れている高島を一瞥する。


(高島はん、あんたの周りで何が起こっとるんや……)


 その瞬間、救急隊が到着し、バックステージはさらなる混乱に包まれる。

 しかし様々な思惑が渦巻く中、事態は予想外の方向へと進んでいく。バックステージには、華やかなドレスとは対照的な、暗い影が忍び寄っていた。そして、その影は紬と柚子を、さらなる謎の深みへと誘っていくのだった。

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