第9話 黒と白はモノクロに

 今日は一段とセミが鳴く猛暑日であった。風は熱波と化し、遠くの景色がオーロラのように歪んでいる。人工的な寒暖に慣れている冥であったが、自然由来の寒暖の耐性はついておらず、肌から滲み出る汗に苦い顔をするしかなかった。


 タバコを吸う度に渇く喉。それでも止められない依存症。タバコが好物な事を不幸と感じる日が、冥にやってきた。        




「こんな暑い日に、タバコなんて吸わないでよ」




 家の外に水を撒いていた小百合が、ホースの口を潰して、冥の顔面に水を飛ばした。タバコはもちろん、冥の顔はびしょ濡れになった。それでも尚、冥の口にはタバコが咥えられたままだ。


 


「……小百合さん。汚れてもない人の顔に水ぶっかけるのは失礼では?」




「でも、少しは冷えたでしょ?」




「……はぁ。小百合さんじゃなきゃ、半殺しですよ……にしても、今日は本当に暑いですね」




「なんたって田舎だからね」  




「温度が設定されていた都会が、なんだか愛おしくなってきましたよ」




 冥が新しくタバコを吸おうと、縁側に置いていたタバコの箱に目を向けると、さっきの水によって箱そのものが濡れてしまっていた。僅かな望みを抱きながら、箱から一本取り出すと、タバコはフィルターを残してポッキリと折れてしまった。


 冥は縁側から飛び出し、小百合の手からホースを奪って、ホースの口を潰しながら空に向ける。シャワーのように降り注ぐ水は、二人の全身を濡らしていく。




「ちょ、ちょっと~! やめてよ~!」




 満更でも無さげな笑みを浮かべながら、小百合は冥からホースを奪い返そうとする。そうはさせまいと、冥は高身長と長い腕を生かして主導権を死守する。小百合が手を伸ばしても、飛び上がっても届かない位置にあるホース。


 それでも、小百合は諦めなかった。冥に密着しながら、冥の右手に握られているホースを取ろうと必死になっていた。それ故に、小百合は気付いていない。密着する体。いつもより近くで聴こえる吐息。頬に触れる唇。冥の理性は限界であった。


 小百合は冥の手から離れたホースを掴むと、頬を膨らませながら、冥に水を掛け続けて距離を取っていく。冥は浴び続けている水の冷たさで抱いた劣情を鎮めながら【もしも】という願望に浸っていた。




「もう! 冥ちゃんの所為で服がビショビショになっちゃったじゃん!」




「私の所為で服が……?」 




「あ、でも気温が暑いおかげで、もう乾いてきたかも」




「くそっ……!」




「流石に今年の異常気象は伊達じゃないなー……そうだ! 冥ちゃん、お風呂行こ?」




「お風呂……お風呂?」




 小百合は思考停止状態な冥の手を引き、床に二人の痕跡を残しながら風呂場へと駆け込んだ。蛇口から流れる水が、空の浴槽を満たしていく。




「本当はプールとか、海に行きたいけど。近辺にプールや海は無いし、第一私達、水着も持ってないしね」




「じゃ、じゃあ、どうするんですか……?」




「どうするって、普通に」




 そう言うと、小百合はおもむろに服を脱ぎ始めた。飾り気の無い下着姿の小百合に、冥が目を奪われていると、小百合はブラジャーの背中のホックを外し始める。冥は首を折る勢いで、自身の顔を小百合から逸らした。




「ぐっ!? く、首が……!」




「え、何やってんの? ほら、冥ちゃんも脱いで。私だけが涼んでも、居心地悪いだけだし」




 冥が首の関節を元に戻している間に、小百合は一足先に水風呂に浸かった。体温が急激に下がっていく感覚に、吐息交じりの声を漏らしてしまう。浴室という事もあり、その声はよく響き渡った。




「冥ちゃんも入りなよ。最初は冷たくてビックリするけど、慣れたら気持ちいいよ」




「……呑気な事を……我慢するのが馬鹿らしくなってきた」




 冥は小百合に背を向けたまま、着ていたシャツを脱ぎ捨てた。露わとなった冥の背中は、極限まで鍛え上げられた脂肪が少ない筋肉と、戦闘で負った傷痕。後ろ姿だけでは、男性と思える程に屈強な背中であった。正面の肉体美も凄まじく、割れた腹筋や引き締まった腕。女性と判断出来る胸でさえ、筋肉で硬まっていた。


 そんな冥の肉体に目を奪われていた小百合は、今になって、この状況がどれ程マズいかを理解する。お互い一糸纏わぬ裸。吐息が反響する狭い空間。娯楽の無い田舎。


 冥の鋭い眼光に見つめられ、小百合の胸が熱くなる。跳ね上がる鼓動。色濃くなる吐息。勝手に思い浮かぶ想像。


 


「私も入るから、少し空けて」




 普段よりも強い口調で冥が言う。まるで命令されているようで、小百合は言われた通りに、一人分のスペースを空ける。


 二人入るには狭い浴槽。膝を抱えても、お互いの膝と膝が密着し、足が自然と絡まる。




「冷たいですね」




「そう、だね……」




 真っ直ぐと見つめる冥の視線に耐えられず、小百合は俯いてしまう。水面に映る自分の表情が、少女のように何かを期待しているようで、小百合は恥ずかしくなった。




「……小百合さんは、私をどう思ってますか?」




「どうって……良い子だなって……」




「私をどう見てますか?」




「だから……! 良い子、だって……!」




「私は小百合さんが好きです」




 突然の告白に、小百合は顔を上げてしまう。そして、冥と目が合った。真っ直ぐとした冥の眼差しが、小百合の視線を掴んで離さない。




「好きって……え……好き……え……?」




「異性として……いえ、同性相手にこの言葉は不自然ですね。小百合さんを、一人の女性として好きです」




 冥の長い手が、小百合の膝を掴み、身を乗り出して小百合の顔を覗く。




「初めてなんです。他人が近くにいるのに、無警戒でいてしまうのは。壊されても良いと思えてしまうのは。小百合さんが、初めてなんです」




 オデコとオデコがくっつき、鼻と鼻の先がくっつき、互いの上唇の先が触れる。




「だから、覚悟してください」




 そこから先、二人は言葉を発する事は無かった。開いた窓から入ってくるセミの鳴き声が浴室に反響し、ノイズとなって二人の姿を世界から隠した。

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