第8話 嗜好品
冥は縁側に座って、連打する虫の鳴き声を聞いていた。夕焼け空には依然と陽が昇っているのに、早々と月が出しゃばってきている。朝と夜の狭間にある夕方のチグハグさを不思議に思いながら、冥はポケットからタバコを取り出した。
冥がタバコを吸おうとした瞬間、ふと疑問に思った。冥は台所で晩御飯の準備をしている小百合の方へ声を飛ばす。
「小百合さん。お仕事は何をやってるんですか?」
「何~? なんて言った~?」
「仕事は何をしてるんですかー!」
「晩ご飯を作ってるよー!」
「そういう事じゃなくてですね! あー、もう! 面倒臭い!」
タバコを縁側に置き去りにして、冥は台所へと向かった。台所では小百合が今晩のご飯を作っている最中で、衣をつけたコロッケを熱した油に投入しようとしていた。
「なに作ってるんですか?」
「コロッケ。ジャガイモに衣をつけて揚げた物」
「美味しいんですか?」
「人によっては、お肉や別の野菜を混ぜたり、粉末を使って何ちゃら風にしたりするよ。でも、これは純粋なジャガイモコロッケ」
「私二つ食べたいです」
「うん。二つでも三つでも食べなさいな」
「それでですね。小百合さんは何の―――」
冥が本題に入ろうとした瞬間、コロッケが油に投入された。激しい音と共に、弾け飛ぶ油の粒。冥は咄嗟に小百合を自身に抱き寄せ、油が顔に掛かるのを防いだ。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとう……揚げ物って、普段作らないから、ちょっと臆病になっちゃった」
「長袖から袖だけ切り取ってきましょうか?」
「フフ。暑いからって、薄着で揚げ物をするものじゃないね」
小百合の言葉に、冥は意識してしまう。触れている小百合の柔らかな二の腕。薄い生地の中にある下着の感触。鼻をくすぐる小百合の長い髪。冥は理性を殺しにかかる劣情になんとか打ち勝ち、小百合から三歩離れた。
劣情を抱いてしまったのは小百合もであった。女性とは思えない力強さ。服の上からでも分かる硬い筋肉。耳元で囁かれる低い声。あと数秒、冥が小百合から離れるのを拒んでいたら、小百合の方から冥を襲っていた。
お互いの気持ちが分からなくとも、気まずい空気が流れる。さっきまで触れていた、触れられていた部分の感触が、二人の頭を悩ませた。
「……あの、小百合さん」
「ど、どうしたの?」
「その……コロッケ……」
「コロッケ? え、あ!?」
すっかり忘れていたコロッケの存在を思い出し、小百合は揚げているコロッケへと視線を向けた。コロッケは見事に焦げており、急いでトレーにあげた所で、焦げたコロッケは焦げたままであった。
「あぁー……!」
「なんか、タワシみたいな見た目ですね? これがコロッケですか?」
「……ううん。これは、失敗したやつだから。もったいないけど、これは食べれそうにないね」
「ふ~ん」
小百合が焦げたコロッケを処分しようとすると、横から冥の手が伸び、焦げたコロッケを素手で掴んだ。口にするのを阻止しようと、小百合が口を開くが、時すでに遅し。冥は一口でコロッケの半分を喰らった。
砂利を噛んでいるような音を鳴らしながら、冥は焦げたコロッケを味わい、飲み込んだ末に感想を呟いた。
「食べれない事はないですよ」
そう言って、冥は片眉を上げながら苦笑した。冥の優しさからの行動と言葉だと分かっていても、自分を犠牲にして安心させようとする冥の気遣いに、小百合の心は傷付いた。
母性で紛らわせていた嫉妬心が再び姿を現し、小百合を突き動かした。
「どうしてそんな無理するの……?」
「え? だって、もったいないじゃないですか」
「無理して笑ったりして……私を気遣わないでよ……」
小百合の長い髪が邪魔をして、冥から小百合の表情は見えなかったが、震えた声色が小百合の心情を表していた。
「小百合さん……」
「……ごめん……今、余裕が無いかも……」
「小百合さん」
「やめて……私の名前を口にしないで!」
小百合は怒号と共に、冥の方へ顔を向けた。すると、口の中に何か熱い物が咥えさせられた。噛んでみると、砂利のように気持ち悪い歯応えと、ひたすらに苦味が口の中に広がっていく。
「苦っ!?」
「ハハハ! やっぱり苦いですよね!」
「ちょ、ちょっと! ふざけないで! 怒るよ!?」
「いいですよ。むしろ、我慢なんかしないでください。怒りたければ、いくらでも私に怒りをぶつけてください。怒鳴られても、殴られても、私は小百合さんの傍から離れるつもりはありませんから」
悪戯気に微笑む冥であったが、その瞳は小百合だけを映していた。暗闇よりも色濃い黒い瞳に見つめられ、小百合が抱いていた怒りや嫉妬は、住処の奥底へと逃げ出した。
「試しに、何か私に罰を与えてください。小百合さんがしたい罰を」
「……いいよ、もう」
「私がしてほしいんです」
冥は何をするでもなく、小百合を待ち構えていた。平然とした表情で待ちわびている冥に、小百合は恐る恐る近付いていき、浮き出ている鎖骨に唇で触れると、軽く噛みついた。強く噛めば歯が折れてしまいそうな硬さと、ほんのり感じる甘味にハマり、小百合は冥の肩を掴んで味わった。
恍惚とする小百合の頭を撫でながら、冥は悦に浸る。価値の無い物だと思っていた自分の体を貪る想い人の姿に、幸せを感じていた。
やがて我に返った二人は、さっきまでやっていた事の卑しさに頭を抱え、顔を合わせずらくなった。ようやく出来たコロッケの味など感じる余裕も無く、二人は俯きながら晩ご飯を食べ進める。
「……その……さっきの、事なんですが……」
「……あれは、そう……たまたま二人共、熱中症になって……ね?」
「そうそう。熱中症で頭が……ね?」
思い切った行動で近付いた二人の距離とは裏腹に、二人の心には相手に対する遠慮が生まれていた。
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