第4話 地上と夜空

 セミが眠る夜。スズムシが自分達の時間だと活気立ち、平穏を呼び寄せる鳴き声で夜を憩わす。夜と朝。それは静と動のような関係。それに合わせて、人や動物は活動し、虫達は報せる。


 縁側に座っていた冥は、夜の静けさを初体験していた。人間達が支配する都会では、陽の光が落ちても、人工的な光によって眠らず、喧騒が続いていく。そんな喧しい世界で、冥は常に危険と隣り合わせの日々を送っていた。血を流さなかった日など、一日たりとも無かった。


 しかし、今は違う。警戒を解き、一ヶ所に留まり続けても、襲撃者の足音が聴こえてくる事は無い。聞こえてくるのは、スズムシの音と、ほんの少しだけ髪を揺らす風の音。




「いつからだろう……平穏が普通じゃなくなったのは……」




 久しぶりの平穏にすっかり心を許した冥は、ポケットから取り出したタバコを口に咥え、火を点けて吸い込んだ。喉の奥まで吸い込んだ煙を夜空に向けて吐き出し、白い煙が夜空に溶けていく様を眺めた。




「またタバコ吸ってる」


 


「ッ!?」




 オボンに二つのコップを乗せて、縁側に現れた小百合。コップには少量の氷と、麦茶が淹れられている。オボンを冥の隣に置き、その隣に小百合が座ると、タバコを咥えたままの冥にジト目を向けた。取り上げようと手を伸ばせば容易に届く距離にいるが、あえて小百合は視線で訴えた。


 小百合に睨まれ、居心地が悪い冥は、一度タバコを吸ってから、まだ半分以上残っているタバコを灰皿に捨てた。




「……よろしい」




「タバコなんて、みんな吸ってるんだけどな……」




「みんなは関係ない。そうやって周りに流されちゃ駄目だよ?」




「じゃあ、タバコを吸っちゃ駄目って言う連中に流されればいいんですか?」




「え? いや、だって、法律で……」




「小百合さん。法律なんて、あって無いようなものですよ。他人に迷惑や危害を加えない限り、誰も見向きしません」




「ぐっ! 屁理屈を並べて……! でも、今は私がいるから! 私がいる限り、タバコは吸わせないからね!」




「じゃあ、隠れて吸うとしましょうか」




「もう!」




 お互いの言い分で会話を繰り広げると、また夜の静けさに包まれた。まるで、タバコの煙が徐々に消えていくように。


 


「……どう? こっちでは暮らしていけそう?」




 小百合は麦茶のコップを手に取りながら、冥に尋ねる。冥は小百合が麦茶を飲む一部始終を眺めた後、目を閉じて夜の静けさを感じながら返答する。




「そうですね……ここは、退屈しかない」




「うっ!? そ、そりゃ、田舎だし……」




「でも、何かを感じる事も無い。悲しみ、後悔、怒り。そんな感情を忘れさせてくれる程、ここは静かなんです」




 冥は自分の分の麦茶を手に取り、一口飲み込んだ。氷によって冷えた麦茶。味は薄く、ほぼ水のようだったが、麦茶の風味が後からやってくる。


 月明かりに照らされる冥の姿に、小百合は目を奪われていた。月の光が似合う幻想的な冥の姿は、自信を平凡と決めつけている小百合に、様々な感情を呼び起こす。嫉妬、憧れ、好意。渦巻く感情の中で、一つの考えが浮かぶ。


 しかし、それを実行したとして、冥の姿と声が、小百合の記憶に焼き付いている。意味の無い事だと悟ると、小百合は麦茶を飲んだ。




「……小百合さんって、タバコ吸った事ありますか?」




 冥の唐突な質問に、小百合は一瞬困惑したが、深く考えるべき内容ではないと理解し、淡白に返した。




「ううん」




「吸ってみます?」




 今度は小百合の返答を待たずに、冥は新しくタバコを口に咥え、火を点けてふかしたタバコを小百合の口に咥えさせた。小百合は恐る恐るタバコを吸いこんでみた。タバコを吸った事の無い小百合が、煙を操れるはずもなく、冥の予想通りにむせてしまう。


 冥は小百合の口から弾け飛んだタバコをキャッチすると、自分の口に咥え、いつものようにタバコを吸い始めた。




「ゲホッ! ゴホッ! こ、こんなのなの!?」




「こんなのですよ」




「百害あって一利なし。まさに言葉通りね」




「利点ならありますよ」




「どんな?」




「美味しい」




「……ハァ。私には理解出来ない世界だわ」




「いいんですよ、それで。なんでもかんでも理解出来たら、堅苦しい世の中になりますから」




 再びの静寂。小百合は夜空を見上げ、冥は小百合を横目で眺めていた。




「……冥ちゃんはさ。何になりたい?」




「と、言うと?」




「夢だよ。誰だって、夢の一つや二つ、持つでしょ?」




「……そんな事、考えもしませんでした。今日をどう生きるか。それだけを考えて、生きてきました。気の遠い未来の事なんか、考える暇なんてありませんでした」




「私は、考えてるよ。私以外の誰かが、私を見てくれる日を」




「なら、夢はとっくに叶ってますよ」




 小百合が冥の方へ視線を移すと、優し気な微笑みを浮かべながら見つめてくる冥の姿があった。その姿と言葉に、小百合の心が安らぎが訪れる訳でも、恋心を抱く事は無かった。自分よりも十も年下な冥の気遣いと優しさに、劣等感ばかりが募っていく。 


 手を伸ばせば触れられる距離にいるというのに、地上と夜空のように、見つめ合う事しか出来ずにいた。




「小百合さん?」




「……本当に、綺麗だね」




「ハハ。褒めるよりも、まず言う事があるんじゃありませんか?」




「え?……あ!!! タバコ吸ってるー!!!」




「アッハハハ!」




 二人の距離は遠い。だが、それは今だけの話。

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