鍋にブラックベリー

祐里

足元に猫


「ただいま」


「みゃ」


「おかえりー」


 その日も学校から帰った僕を待っていたのは、サビ猫のゼータの鳴き声と母さんの満面の笑みだった。


「ねえ駿しゅん、聞いて」


「……何」


 重い玄関扉をゆっくり閉めると、低い声で母さんに尋ねる。十五歳になったばかりの僕は一般的にいえば思春期という名の反抗期真っ只中らしいが、親に反抗する余裕なんてない。だって――


「昨日ね、お客さんがブラックベリーくれたの。ジャムにすると美味しいんだって。お願い!」


 ほら来た。母さんはいつもこうだ。突然僕に無理難題を押し付けてくる。


「ブラックベリーって何? ストロベリーの仲間?」


「えっと、わかんない!」


 僕は靴を脱ぎながら右手中指でこめかみを押さえる。肩に掛けていた鞄がずり落ちたけど、そんなこと気にしていられない。


「あのね、母さん、そういうのはちゃんとくれた人に確認し……」


「ジャムにすると美味しいって言ってたから!」


「……はいはい」


 その「ジャムにする」方法やコツを知りたいんだけどな……と思ったけど、言わなかった。言っても無駄だから。「駿が作ったらきっとおいしい」なんて笑う母さんには。


「みゃー」


「あとで遊んでやるから」


 黒と茶色のサビ柄を持つゼータに優しく言うと、僕は部屋に鞄を置いて制服から普段着に着替えた。脱いだワイシャツは、毛まみれになる前に洗濯機のそばへ置く。


「ね、お願い、美味しいんだって」


 僕がリビングへ足を運ぶと、また同じことを言う。母さんの職場の、いわゆる高級クラブという大人の社交場ではこんなにポンコツではないみたいなのに。


 ここでたまには反論しておこうと、僕はゼータにねずみのおもちゃをけしかけている母さんに物申すことにした。


「母さん、僕に何でも押し付けてこないでくれよ。ゼータだってそうだっただろ? ペット可のマンションに住んでいるのがうちだけだからって急に連れてきて僕に世話しろなんて、ひどい話だよ」


「でもゼータはあんたに懐いてるじゃない」


「まあ、結果としてはよかったけど」


「じゃ、キッチンに置いてあるから、よろしくね」


 軽く手を上げると、母さんは自室へと引っ込んでしまった。きっと出勤前の化粧に励むのだろう。


「やれやれ。ええと……うわ、けっこう量あるな」


 キッチンでのそんな独り言をものともせず、ゼータが僕に向かって何やら主張を始める。


「みゃ、みゃっ」


「ああ、ゼータ、おいで」


 僕が手を伸ばすと、ゼータがTシャツの胸に向かって飛び込んできた。本当に懐いていて、とてもかわいい。


 僕の左手と胸の間でゼータが喉を鳴らすのを聞きながら、右手でタブレットを操作する。どうやら砂糖は買ってあるみたいだから、すぐに作れそうだ。


「……仕方ない、やるか」


 ゼータを床に下ろしてから大きな鍋を取り出し、タブレットで出てきた作り方の手順を踏んでぐつぐつと黒い果実を煮る。しばらく火にかけていると、少しずつ色が赤みを帯びてきれいになってきた。


「おもしろいな、こんな風になるんだ。ちょっと味見……お、おいしい」


 頼んできた張本人は、砂糖少なめじゃないと「美容に悪い」などと言い出しそうだが、この味付けなら大丈夫だろう。少しだけ渋みを感じる甘酸っぱい味は、きっと母さん好みだ。


 本当はわかっている。僕がよけいなことを考えないように、こうして母さんがいろいろと用事を押し付けるんだって。父さんが死んでからもう二年も経つのに、まだ心配をかけているんだ……そう考えると、少しうれしいような、少し悲しいような、少し申し訳ないような、何とも複雑な気分を味わうことになる。


「な、ゼータ、思春期症候群って知ってるか?」


「みゃ」


「妙に落ち込んだり、うまく睡眠が取れなくなったり、なんだって」


「にゃ」


 同じクラスに、いじめられているわけでもないのに不登校になってしまった子がいる。思春期失調症候群というのだと誰かが言っていた。十代の子にはよくあることだとも。ただ、僕には一向にそんな気配はない。毎日が母さんとゼータの世話で忙しいからかもしれない。余裕がないって案外いいことなのかもしれない。


 鍋には程よい甘さを付けられたブラックベリーがぐつぐつと煮えている。もう少し煮てからざるで種をこして――


「……って! 時間、時間!」


 足元でゼータが「にゃっ!」と鳴くのを聞きながら、僕は母さんの部屋のドアを開けた。案の定、化粧もせずにベッドに寝転がってスマートフォンをいじっている。


「母さん、何やってんだよ。あと三十分しかないよ」


「えっ、うそっ! 何でもっと早く教えてくれなかったのー!」


 母さんのクレームを無視して、僕はクローゼットから女性用のバッグとワンピースを取り出した。


「ほら、バッグとワンピース」


「ありがとー! 早くしなきゃ! 着替えるから出てって!」


「……こんなに世話してやってる息子にひどい。じゃ、がんばって」


 ひらひらと手を振りながら部屋を出ると、ドアの前で待っていたゼータが「みゃあ!」と一鳴きした。

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鍋にブラックベリー 祐里 @yukie_miumiu

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