404

鮫島

Oceans

人間……佐川早苗サガワサナエ アンドロイド……アラン


 冷たい雨が身体を突き刺す。身につけているジャケットは水気を吸って、すっかりと暗色に染められている。このままでは風邪をひいてしまうだろう。そんな結末は容易に予想出来たが、どうしても早苗は傘を差す気にはなれなかった。

 きっと明日、相棒のアンドロイドに欠勤の連絡をすればどうしてそんなことしたんですか、なんて小言が飛んでくるだろう。数字でしか人間の感情を捉えられない彼には理解出来ないに決まっている。人間でさえも自分の感情を完璧に理解することが出来ないのだから。頬を伝う液体が、雲から落ちてきたものなのか、自分の感情が湧き出たものなのか、そんな簡単なことさえ分からない。分かりたくない。

 時刻はもう二十一時を回っていて、雨の降っている夜中の公園は流石に人の姿はない。傘も差さずに雨の中を歩くなんて一昔前のドラマ、フィクションだけの話だと思っていたが、まさか自分がそれをする日が来るなんて。誰にも見られなくて良かったと、ひとりでに自嘲する。アスファルトで舗装された広い歩道をたった一人、雨音だけを聞きながら歩いていれば終末世界に取り残されたような心地になった。

 するとふと、引き摺っていた右手のビニール傘が抜き取られた。早苗が驚き振り返った時には、先程まで身体を刺していた雨粒が遮られ鈍い音に変わっていた。けれどビニールの中は早苗一人だけだった。早苗の手から抜き取ったはずの主は雨粒に晒されたままである。そうしてビニール越しに見えた顔は見覚えのあるものだった。

 アランは傘の中に自分の相棒を押し込めると、目を細める。観察のために内蔵されているシステムが起動する。顳顬のあたりで高音の機械音を発し、脳内で結果を表示した。

【佐川早苗 性別:女性 年齢:二十六歳 住所:――――】

 見飽きたデータはそのままスキップし、機能を切り替える。血色の悪い顔をサーモグラフィーで見れば皮膚温が極端に下がってるのが分かった。目は水分量が高く充血しており、瞼も重い印象を与える。

【体温の低下•目の充血•瞼の浮腫を確認 ストレスレベル:七十八パーセント(高)】

 表示されたポップアップを見て、溜息を吐きそうになるのをぐっと堪える。今の状態の彼女には不適切だと判断したからだ。

「……濡れるよ」

 ずっと押し黙っていた彼女が掠れた声で吐き出した言葉はどうだっていい些細なことだった。

「防水機能は備わっています」

 プログラム通り振る舞えば彼女のストレスレベルが僅かに下がったのを感知した。

「もしかして傘持ってないの」

「ええ、必要ないので」

 ここまで雨の中歩いていたのだ。今更、傘を差して雨を防ごうとも思えない。アンドロイドには濡れることに対する抵抗も、不快感も備わっていないのだから。それにしても人間というのはやはり理解が難しい。優先すべきは自身の体調であって、機械であるアランの調子を気にする必要はないというのに。

「……じゃあ今度、うちにある要らないビニール傘あげるよ。雨が降る度に出先で買うから余ってるの」

「必要ありませんよ。私は人間のように体調を崩すことはありませんし、ある程度の水没には耐えられるように造られているので機械の一部が故障することもありません」

「御託はいいから、アンドロイドは大人しく人間の親切に甘えるものなの」

「そういうものですか」

「そういうものなの」

 彼女が黙ったことで再び沈黙が落ちた。警戒心を解くためトークの機能は搭載されているが、今の彼女に会話を続行することが適切だとは判断出来ない。だが一連の会話によるものなのか、ストレスレベルは五十パーセントまで低下している。アランは彼女が次に言葉を発するまで黙っていることを選択した。

 聴覚機能は降り頻る雨音と早苗の規則的な呼吸音のみを捉えている。手持ち無沙汰で、サーモグラフィーに切り替えてみるが皮膚温は相変わらず低いままだ。

 本当はこんな歩道で立ち止まってたりしないで、さっさと彼女は家に帰って一刻も早く身体を暖めるべきなのだ。無理矢理にでも歩かせて家に送り届けたいぐらいだが、彼女のストレスレベルを再び上昇させるだけなのだろう。

 そのまま二分二十八秒が経過した時、早苗は唐突にアランの手にあった傘の柄を掴んだ。特段力を込めている訳では無かったから、傘は掌からするりと抜けてそのまま彼女の肩口に収まった。

「てっきりあんたに見つかったら、家まで引きずられて帰らされるかと思ってた」

「そうしたいのはやまやまでしたが、あなたに今必要なのは自宅での休養ではないと思ったので」

「……情緒なんて分かんないんじゃなかったの」

「情緒という感覚は今も解りません。ただ状況に基づいて最適な選択を行っただけです」

「うん、そういうこと言っちゃうのやっぱ情緒ないよ」

 早苗は眉を下げて笑った。でもそういうとこがどうしようもなく救われる、聴覚機能が捉えたはずの微弱な音波は認識できていないことにした。

「……さて、帰りますよ。ストレスレベルも四十パーセントまで低下したら充分でしょう。ストレスレベルが下がった分、あなたが明日体調を崩す確率は七十パーセントまで上昇しています。家に帰ったらすぐに風呂を沸かして、浸かってください。あと急激な温度変化は危険なので、出来ることなら浴室内に暖房を焚いておいてください。それか――」

「あーもう、黙ってたと思ったらすぐそれなんだから。分かった、分かった」

 傘をくるくると回しながら、早苗はようやく一歩を踏み出した。アランは歩幅を合わせてそれに着いていく。

「本当に分かっていますか?あなたが二回続けて返事をした時、言葉通り行わない確率は八十パーセントを超えています」

「二割はちゃんとやってるんだから十分でしょ。今回はその二割なの」

 軽口を叩く早苗の表情、声音はアランが傘を差し出した時より幾分も柔らかく、明るくなっている。今のアランは人間の感覚でいう『安心』というものに近いのだろう。思考がそこまで至った後、アランは自嘲した。

 所詮、それも人工脳内に発生した一種のバグに過ぎないというのに。アンドロイドは感情を持ち得ない。理解することは出来るが、体験することは出来ない。もし今、アランが『安心』を感じたのであればメモリーに収容されている記憶と共感値のバグによるものに違いなかった。人間の話を聞いて理解したものを、誤って自らが体験したものと勘違いした。

 体内に自己診断プログラムを巡らせながら、アランはネットワークに接続してメンテナンスの予約を入れた。



BGM: Oceans(Soda Island, Spire)

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404 鮫島 @yugiri_nazu

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