31. 伸びてくる白い腕

 「おっ、データリカバリーが始まりましたね」


 ゼロの声が弾んだ。地球儀を覆っていた漆黒しっこくの闇が、少しずつその領域を縮めていく様子に、笑みをこぼした。


 何しろリリーの笑顔が見られるのだ。その想いは星のように、ゼロの心の中で煌めいていた。


 闇はまるでデジタル映像のノイズが消えていくかのように、正方形の単位で海や陸地に変わっていく。その光景は、世界がデジタルであることの一つの証拠なのかもしれない。青々とした海、緑豊かな大地、白銀の極地が次々と姿を現し、まるで生命の息吹が世界に戻ってくるかのようだった。


「過去の時間に戻ると言うことじゃな?」


 賢者の声には、驚きと畏怖が混ざっていた。その眼差しは、未知の領域に足を踏み入れる探検家のように、好奇心と緊張感に満ちていた。


「そうですね。そろそろノアさんにもお帰りいただかないと……」


 ゼロの言葉に、一抹の寂しさが滲む。その表情には、別れを惜しむような微妙な陰りが見えた。


「お、お主、まさかワシの記憶を消すつもりか!?」


 賢者は怒りに震える。その声は、この大いなる真実の記憶を奪われることへの恐怖と抵抗を表していた。


「うーん、世界の裏側なんて忘れてしまった方が幸せですよ?」


 ゼロは小首をかしげた。その表情にはある種の思いやりが感じられる。まるで、重荷を背負わせたくないという優しさが込められているようだった。


「何を言っとる! ワシには知ってて損することなどないわ! ワシは王国の叡智じゃぞ!」


 賢者はバン! とこぶしでテーブルを叩く。その姿は、知識への渇望に燃える学者そのものだった。


「うーん、記憶を残したまま……となると、ノアさんには運営の協力者の登録が要りますね。私の指示で動いてもらうことになりますがいいですか?」


 ゼロは渋い顔で腕を組む。


「ぬ? お主の部下になれってことか?」


 賢者の声には、戸惑いと不満が混ざっていた。長年自由に生きてきた賢者にとって、誰かの下につくという考えは、受け入れがたいものだったのだろう。


「申し訳ないですが、規則なので……」


「くっ……。よかろう。じゃが、できることしかできんぞ?」


「それで結構です。ではよろしくお願いいたします」


 ゼロはニコッと笑うと、賢者に右手を差し出す。


「おぉ、お手柔らかにな」


 賢者が握手した瞬間、予想外の出来事が起こる。


「お、おぉ……。お? うわぁぁぁ!」


 突如、賢者の身体が黄金の光に包まれたのだ。その輝きは、まるで神々しい祝福のようだった。部屋全体が眩いばかりの光に満たされ、まるで太陽が室内に降り立ったかのようだ。


「これで契約は成立。命令違反は処罰の対象になるのでご注意を……」


 ニヤリと笑うゼロ。その表情には、少しばかりの悪戯心が垣間見える。


「な、何をやった?」


 賢者は握手していた手の甲を見つめた。そこには不思議な幾何学模様がオレンジ色に輝いて浮かび上がっている。その模様は、まるで古代の魔法陣のようだった。複雑に絡み合う線と円が、神秘的な力を秘めているかのように脈動している。


「就業契約ですよ。命令違反を検知するとその紋が光り、限度を超えると身体がマヒするのでご注意を……」


「くっ! こざかしい真似をしやがってからに……」


 賢者は悔しそうに唇を噛んだ。その表情には、騙されたような悔しさがにじむ。


「これも規則なので……」


 ゼロは申し訳なさそうに肩をすくめる。


 賢者はしばらく目をつぶり、宙を仰いでいたが、大きく息をつくと無言でコーヒーをすすった。その一杯のコーヒーには、これまでの人生への決別と、新たな冒険への覚悟が込められているようだった。



         ◇



「ワシは何をしたらええんじゃ? また魔王を倒せばいいのか? ん?」


 賢者の声には、皮肉と諦めが混ざっていた。長年の苦労が、一瞬にして無意味になったかのような虚脱感が漂う。


「いや、もう、魔物は全部消すから大丈夫です」


 ゼロの言葉は、まるで日常会話のように軽やかだった。コーヒーをすすりながらの何気ない一言に、賢者は衝撃を受ける。


「け、消す? まさか、魔物はお主が創ったものか? なぜそんなことを……」


 賢者の声が震える。人類を長年悩ませて来た魔物がゼロの産みだしたものだとすると、それはとんでもない話のように思えたのだ。


 ゼロは深いため息をつき、肩をすくめる。その表情には、計り知れない重みが感じられた。千年の歴史を一身に背負うかのような、深い憂いがその瞳に宿っている。


 突如、パキッという音が空気を裂いた。空間に亀裂きれつが入り、そこからニョキっと白い腕が伸びてくる。その光景は、現実の法則を軽々と踏み越えるかのようだった。


「ひっひぃぃぃ!」


 賢者の悲鳴が響く中、ゼロは何事もないかのように指の伸びていく先にあるクッキーのバスケットを差し出した。


「どうぞ……」


 チョコチップクッキーをつまんだ指先が空間の裂け目の向こうに消え、ポリポリという食べる音だけが響いてくる。


「だ、誰なんじゃ?」


 賢者は恐る恐る空間の割れ目の向こうを覗き込む。その目には、恐怖と好奇心が交錯していた。

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