29. 水中神殿

 満点の星々に包まれながら飛び続けていると、星々の彼方かなたに水色に輝く巨大な球体が姿を現した。その神々しい光芒に、賢者ノアは思わず息を呑んだ。


「な、なんじゃあれは……」


 その圧倒的な存在感に、賢者の声は震えていた。近づくにつれ、水色の球はその姿を大きく膨らませていく。やがてそれは、直径十キロはあろうかという途方とほうもない大きさであることが分かってくる。その表面には巨大な同心円の波紋がいくつも浮かび、生命を宿したかのように躍動して見えた。


「では、行きますよ。衝撃に備えてください」


 ゼロは子供のように目を輝かせながら賢者を見る。


「ま、まさか……突っ込むのか? あれに?」


 賢者の声は裏返り、顔は青ざめていた。


「そうですよ? 溺れないように……」


「溺れないように? あれは水なのか? どこが集会場なんじゃぁ!」


 焦りに震える賢者の問いかけに、ゼロは悠然と答えた。その落ち着きぶりが、逆に賢者の不安を掻き立てる。


「いや、ちゃんと集会場ですって。神殿とも言いますがね」


「し、神殿……? まさか女神の?」


「そうですよ?」


 会話を交わす間にも、巨大な水の球の水面が眼前に迫ってきた。その美しく澄み切った内部には、光に包まれた何かの構造体が垣間見える。しかし、絶え間ない波紋のせいで、その全容を掴むことはできない。その神秘的な光景に、賢者は言葉を失った。


「こ、これが……世界を創造した女神様の……?」


 賢者の声は畏怖と興奮で震えていた。人生をかけて取り組んでいた長年の研究も、この光景の前では色褪せて見える。


 やがて、水面が全視界を覆う――――。


「ほら、口を開けてると危ないですよ? くふふふ」


 ゼロの悪戯っぽい笑みに、賢者は「ひぃぃぃ!」と悲鳴を上げた。


 次の瞬間、ズン! という衝撃と共に、激しい水柱が宇宙空間に噴き出し、二人の姿を呑み込んだ。賢者の悲鳴は水泡と共に消え、二人は神秘の水中へと消えていった。


 水面に残された波紋が、新たな冒険の始まりを告げるように、ゆっくりと広がっていく。その波紋は、まるで宇宙の神秘そのものを体現しているかのようだった。



       ◇



 「おわぁぁぁ! ぼごぼごぼご……」


 賢者の絶叫が水中で泡となり、虚空こくうへと消えていく。無数の気泡が水色に輝きながら、賢者の周りを優雅に舞い上がっていった。


(溺れる、もうダメだ)


 絶望ぜつぼうの闇が迫る中、賢者は不思議な感覚に襲われた。呼吸ができるのだ。水中で、普通に。


「え……? あれ……?」


 困惑に満ちた目を開くと、そこには想像を絶する光景が広がっていた。


 瀟洒しょうしゃなオフィス空間。透明で開放的な壁からは柔らかな光が差し込み、高級木材の床と家具が上品な雰囲気を醸し出している。壁の向こうには豊かな森が広がり、不思議な形をした建物が点在する。室内には生命力溢れる観葉植物が配され、カフェスペースからは香り高いコーヒーの匂いが漂ってくる。


 働く人々は、慌てふためく賢者を見てクスッと笑うと、静かに仕事に戻っていった。異世界からの訪問者など、日常茶飯事とでも言うかのように。


 賢者は赤面し、コホンと咳払いをして衣服を整えた。黒いローブは不思議なことに完全に乾いており、先ほどまでの恐怖が幻だったかのようだ。


「ホットコーヒーでいいですか?」


 ゼロの声に、賢者は我に返った。


「あ、あぁ……。できるだけ濃い奴を一杯……」


 大きく息をつき、近くの椅子にドカッと腰を下ろす。その表情には、驚愕と疲労、そして旺盛おうせいな好奇心が混在していた。


 コーヒーの香りに包まれながら、賢者の脳裏では疑問が渦巻いていた。水中の森、建物、そして何よりも気になるのは、この「神殿」の正体だ。


 ゼロがコーヒーを持って戻ってくる。立ち上る湯気を見つめながら、賢者は決意を固めた。世界の真理がここに集約されている。王国の叡智を以てしても理解し難いこの【神殿】の秘密を、何としても解き明かさねばならない。


 ギラリと目を光らせ、賢者はゼロを見据えた。未知なる世界の扉が、今まさに開かれようとしていた。



      ◇



 琥珀色こはくいろの深みを湛えたコーヒーを一口すすると、賢者の緊張した面持ちが僅かに和らいだ。その芳醇な香りと深い苦みが、混沌とした思考を整理していくようだった。深呼吸を一つし、賢者はゼロの瞳を真っ直ぐに見据えた。


「一体ここは何なんじゃ?」


「だから女神様の神殿ですって。ここで星を管理しているんですよ」


 ゼロの言葉は、さらなる謎を投げかけるものだった。


「管理……? どういう……ことじゃ」


 賢者の声には、困惑と好奇心が交錯こうさくしていた。星など創って終わり、後は自然の摂理に任せるものではないのか?


「今見せますね」


 ゼロはそう言うと、優雅に指先を空中で舞わせた。まるで見えない絹糸けんしを紡ぐかのように。


 ヴゥンという電子音が響き、突如として巨大な地球儀が空中に投影とうえいされた。そこには、半分が漆黒しっこくの闇にむしばまれた彼らの星の姿が映し出されている。その姿は、かじられた林檎のようだった。

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