君と過ごす夏休み。――五年越しに、届ける想い

木立 花音@書籍発売中

君とすごす夏休み。

 カランコロンと下駄の音を響かせて、君が石段を駆け上がっていく。

 そんなに急いだら転ぶぞと、少しだけ髪が伸びた背中に声をかけた。

 振り向いた君はすました顔で、「大丈夫だよ」と笑う。あのとき見た、藍色の浴衣を着て。あのころ見た、ひまわりみたいな、その笑顔で――。


   ◆


 僕が彼女と出会ったのは、大学を卒業した年の春のことだ。

 卒業後、地元にあるスポーツ用品を扱う商社に就職したのだが、そのとき僕の教育係になってくれたのが彼女だった。このとき僕は二十二歳で、高卒入社だった彼女は二十一歳だった。先輩なのに、わたしのほうが年下なんだね、と笑ったときにできる片えくぼが可愛らしかった。

 僕はたびたび仕事で失敗をした。上司に怒られてばかりの毎日。あとから入ってきた社員に営業成績で抜かされて、新人にすらバカにされている気分になった。

 それでも、彼女は常に僕の味方になってくれた。

 彼女に慰められて、彼女のアドバイスを聞いているうちに、僕の営業成績は次第に上り始めた。

 まさに彼女は、僕の救世主にして――女神だったのだ。

 彼女を好きになるまで、それほど多くの時間は要さなかった。


   ◇


 石段を登りきると、そこは神社の境内だ。

 夏休みになると、毎年ここで夏祭りが行われるのだ。わりと広いスペースがあって、左右に複数の出店が並んでいる。子ども連れや、若いカップルらで会場は賑わっていた。君は、最初に綿あめを欲しがった。女の子の――魔法少女とかいうやつか?――がパッケージについている物を買ってあげると、嬉しそうに笑ってみせた。

 片えくぼが、可愛らしい。


   ◆


 告白をしたのは、僕からだった。

 この頃には、もうすっかり彼女のことが好きになっていて、切ない感情が、胸の内を一杯に満たしていて、伝えずにいることはできなくなっていた。苦しい胸の痛みを吐き出すようにして告白すると、笑って彼女は言ったのだった。ようやく、伝えてくれたねと。

 初めてのデートは、市内であった花火大会だ。

 彼女は金魚すくいが得意なのだと豪語していて、どうやったらポイが破れないのか、どういった角度から攻めるのが効果的なのか等々、事細かに僕に語ってくれたものだった。

 テクニックを散々指南されたのに、結局僕は一匹も捕まえることができなくて、二人して笑いながら空を見上げた。花火に照らされた彼女の顔はとても綺麗で。藍色の浴衣と、対象的に白いその横顔に、思わず見惚れてしまった僕は、爆発しそうな心臓を抑えるのが大変だった。

 それからは週に一度くらいの割合で会うようになって、手を繋ぐことにも慣れてきて……。

 付き合い始めて一年以上が経ったとき、僕は彼女にプロポーズをしたのだ。


   ◇


 夏まつりの会場には露店が並んでいて、色々な食べ物や玩具などを売っている。焼きそばにたこ焼きに唐揚げにいか焼きに……。

 君が次に向かったのは、やはり金魚すくいだった。

 彼女が好きだったたこ焼きは、最後でいいだろうか。


   ◆


 付き合い始めて一年が経って、休日にデートをしているときだった。

 大きな池がある公園で、ボートを借りて漕いだ。

 僕も彼女もボートを漕ぐのは初めてで、どっちがうまく漕げるか競争をしているうちに、汗だくになってしまったのは良い思い出だ。

 ベンチに座って一休みをしていると、彼女が不意に切り出した。

「わたしね、もう少ししたら引っ越そうかと思っているんだ」と。

 今よりも、ちょっとだけ不便な場所になるんだけれどね、とひまわりみたいな笑顔で笑う。

「だから、さ。もう、会えなくなると思う」

「え?」

 引越し先として聞いたその場所は、車で高速を飛ばしても七時間くらいかかる遠方の地方都市で。「仕事はどうするんだ?」と訊ねると、「辞めるの」と彼女は笑った。今度は、寂しそうな笑みだった。

 池の水面をぼんやりと見ながら、彼女は続けた。

 実家に戻るのだと。

 お父さんも、単身赴任先から戻ってくるから、タイミングがいいのだと。

「ごめんね」と。

 これで終わりにしたくなかった。

 だから僕は君にプロポーズをした。結婚してくださいと。

 わたしを好きになったら不幸になるよ、と彼女は苦笑していたけれど、笑って頷いてくれたときのことは、きっと一生忘れないだろうと思う。


   ◇


 露店の明かりに照らされて、浴衣の艶やかな色が目に焼き付くようだった。金魚が跳ねて水面が揺らめくように、彼女の柔らかな微笑みも揺らいでいるようだった。

 真剣な顔で、君が金魚を追いかけている。

 あの日のことを、ちょっとだけ思い出して切なくなる。

 ポイに穴が開いて、結局金魚は一匹もすくえなくて、君は唇を尖らせて拗ねた。

「下手になったんじゃないか?」と笑ってみたら、ますますご機嫌ななめになってしまった。

 君が好きな、たこ焼きでつり合いを取らないと、こいつはまずそうだな。


   ◆


 結婚式が終わってから、彼女は髪を伸ばし始めた。

 これが三十センチまで伸びたら、と語っていたが内容はよく覚えていない。彼女なりの願掛けとのことだった。それだけはよく覚えている。

「願いが届くことは、ないだろうけどね」と少し寂しそうに彼女は笑んだ。

 そんなこと言うなよと、僕は苦笑いするしかなかったが。


 終わりのときは、案外と突然やってきた。

 彼女と結婚をしてから、彼女の地元に引っ越した僕は、商社は辞めて工場勤務をしていた。

 自動車部品を作っている工場で、交代制勤務のある比較的忙しい職場だった。

 そのせいで、出産をひかえて入院していた彼女の元にも、なかなか顔を出せずにいたのだ。

 出産予定日には立ち合おう。そう思っていたのに、僕の決意が叶う日はこなかった。

 仕事中に会社に電話がかかってきて、こう告げられたのだ。

 ――奥さんが、危篤だからすぐ来てくれと。

 急いで車を走らせたが、死に目に会うことはできなかった。


   ◇


 それからのことはよく覚えていない。

 どうやって、葬儀を執り行ったのか。

 どこで葬式を行ったのか。誰がきてくれたのかも、曖昧にしか覚えていない。

 気が付けば、涙で頬を濡らしていたことだけは覚えているけれど……。

 彼女は、とある難病に侵されていた。十五歳のころに、余命十年と宣告されていたのだそうだ。

 奥さまの体では、出産にたえられるかは五分五分です、と当初から医師に言われていたので、やはりダメだったかと運命を呪いそうになった。それでも僕に後悔はない。神様は、彼女との結婚を祝福してはくれなかったのかもしれないけれど、それでも僕は彼女を愛していたし、あの日の感情だけは否定したくはないのだから。

 享年、二十四。

 もしかしたら、出産などしなければ、もう少し生きられたのかもしれない。

 だが、歴史にイフはない。

 君は確かにいなくなってしまったけれど、君が残した忘れ形見が、今こうしてここにいてくれるのだから。最期の瞬間に、彼女はこう言葉を残していたのだから。

「あなたと出会えて、幸せでした」と。


 ――お腹の子は、無事だった。


 それが、せめてもの救いだったろうか。

「パパ、見てー」

 僕のズボンを引っ張って、君が呼んでいた。

 僕は目を向けると、ぐいぐいと服を引っ張ってくるので、娘を抱きかかえてやった。

 金魚すくいが好きで、藍色の浴衣が好きで、たこ焼きが好き。よくもまあ、と思うほど、いろいろなところが妻とよく似ている。

「たこ焼きを買ってあげようか?」と僕が言うと、娘が「うん!」と頷いた。

 娘の笑顔は、妻にそっくりだった。時々、彼女の面影を重ねて、心憂くもなってしまうのだった。

「ねえ、パパ」

「ん? なんだい?」

「ママのお話を聞かせてよ」と娘がねだった。僕は少し考えてから、微笑んで頷いた。

 そうだな……。何から話そうか? ああ、そうだ。僕が君に、プロポーズをした日のことでも話そうか……。


 成長した娘の話は、次の彼岸まで待ってくれるかい?

 君とよく似て、明るい子なんだ。


 了

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