第5話 幸福の色

「私は文字が読めません。だけど手や指で触ったりすると文字に込められた気持ちが分かります。お願いします、妹や村の人たちに食べ物とお薬を下さい」


 お父さんとお母さんに枝を拾いにいくと噓を言って私は雪をかき分けながらお貴族様のお屋敷にたどり着いた。


 家族以外の愛を知らなかった。

そしてそれにすがり続けるには思い出はあまりにも夢のように儚く白黒に擦り切れていた。


 私の仕事は牢のような部屋でひたすら手紙や書類から本心を読み取ること。読めもしない文字に指を手を這わせて、難しい単語を舌をもつれさせながら監視兼伝言役の人に伝える。


 村の子供から出るとは思えない言葉と話に、最初は胡散臭く様子を見ていた男の人も目を丸くして驚いていた。けど旦那様にお伝えするために部屋から出る間際の言葉。


「魔女め」


 目に映した私も、私の声をも吐き捨てるように言った音が耳を離れなかった。そうして日々は過ぎていって私は旦那様が代替わりする度に所有物ざいさんとして受け継がれていった。


 部屋から出ることも無ければ食事内容も同じ具がほぼない薄いスープのみ。

 ある日、そんな毎日が終わった。先々代の旦那様は私の力を子供に伝える前にお亡くなりになった。だからか私は残った子供たちには魔女の愛人だと思われていた。


 魔女を先祖代々囲っていたと知られたくなかった先代の旦那様は私の存在を徹底的に隠した。魔女の利用価値を知らない彼らは先々代の遺言で私を世話してるに過ぎない。食事の量も質も徐々に下がった。


 二回目の新しい当たり前の毎日が終わったのは旦那様が亡くなってから暫くしてから。


「今日から貴方に読み書きを覚えて貰います」


 リジエッタ奥さまを初めて見たのは彼女が嫁いですぐだったから一瞬、老け込んだ容貌と昔の姿をを照らし合わせることができなくて言葉が詰まった。


パンッ


「ッ」


 私の態度を馬鹿にしてると捉えたのか頬を思い切り張り倒された。


「いいですか、貴方は私の娘。ソルンの姉なのです。生まれた時から病弱だった貴方はずっと存在をひた隠しにされたまま育てられた」


 寝所で語られる話は寝物語とは程遠く、冷水を頭に被らせるようなものだった。


 「ソルンの代わりにグランクト家に嫁ぎなさい」


 次の私の売買先が決まったのだ。


 二百年ぶりに部屋から出た私は嫁ぐまでの半年間、厳しい花嫁修行を受けた。

 間違えるたびにされる折檻は身体に傷がつかないよう派手な音を立てる鞭が使われた。音の支配を受けて私はリジエッタ奥様とその娘たちに飼いならされていった。


 元は村民、しかも魔女である私が嫁ぐ理由はソルン様からお聞きした。


「い〜い?アンタが私の代わりに商家へ嫁ぐのよ。私が伯爵家以下、しかも爵位無しに嫁ぐなんて冗談じゃありませんからね」


 私の所有者だんなさまがたは私の力で他のお貴族様方の意図を把握されていた。情報を元に築き上げた実績で公爵家にまで上り詰めていた家は没落寸前にまで落ちぶれていた。多額の負債を商家に肩代わりしてもらう代わりに公爵家の爵位を譲る。そのための婚姻。


 結婚式の日、そこで初めてお会いした私の結婚相手、新しい旦那様は黄金色の瞳と烏の翼のような強い美しさを持つ人だった。私を見て少しだけ綺麗な眉を上げて発した声。


「こちらで進めるからお前は誓いの言葉以外喋らなくていい」


 傷ついた、のか私には分からなかった。ただ不安感が増して、差し出された腕と教えられた通りに私の腕を組むことしかできなかった。


「誓います」


 それだけ言ってあとは黙って組んだ腕を引かれる度にその動きに合わせて動くだけの披露宴。リジエッタ奥様とソルン様は次の住居について楽しそうに話してる。


 ひどく重く感じるドレスを脱ぐことができたのはグランクト家についてから。新しい旦那様のお屋敷は煌びやかでまだ新しいのか由緒あると言われるメッサリア家より床とかがツヤツヤと輝いて見えた。


「お前は何もしなくてもいい。何かあったら使用人に言え。出入りしていい部屋は使用人が知ってるから移動するときは必ず誰か付けろ。あと、使用人にはお前のことを報告させる」


 初夜も無く着いて早々、そうおっしゃった旦那様はすぐお仕事に戻ってしまわれた。


 朝、目を覚ますと着付けをさせられる。クローゼットの中には見たこともない衣装が並んでいて壮観だ。

 私は煌びやかなドレスを着て一日の大半を図書室や部屋で過ごす。奥様方に読み書きを叩き込まれた私は読書が好きになった。今は亡き故郷の村に思いをはせながら村があった地域の歴史書などを読む。


 不思議なことに普段から言葉遣いは丁寧な方がほとんどのメッサリア家より新しい旦那様の家、グランクト家の方が居心地が良かった。


「あ、ごめんなさい。はしたなかったわ」


 使用人が気を利かせて視界から外れていたから気が緩んで窓辺の椅子をどかし、一番気持ちいい日差しが当たる所に座りこんで本を読んでしまっていたのだ。


「いえ、新しいお茶と菓子が旦那様より届いております。召し上がりますか?」


「?! えぇ、お願い」


 一番苦戦した使用人や目下の人に対して敬語を使わないこと、慣れるまで時間がかなりかかったけど簡単な受け答えなら問題はない。


 茶会用の設備が整っている庭園で、ガラス製のポットの中で暗めの赤褐が日の光で透き通ってみえる。


「まぁっ!」


 またはしたないことを、と思いながらも目を開けてじぃっと見るのをやめられなかったのは、色とりどりながらも統一感のあるラベルが巻かれたジャムの瓶の数々にときめいてしまったからだ。


「奥様がジャムにご興味をお持ちだとお話ししたところ、このように最高級のジャムをこちらの焼き菓子と共にお取り寄せ下さいました」


「旦那様が…」


 ここに来てからの私の疑問、旦那様は本当に良くしてくださる。私が欲しいなんて言わなくても興味を示した時点で翌日、遅くて一週間の間にはとても高価なものが当然のように用意してある。


「奥様、ジャムの種類もたくさんありますし、本日は直接、召し上がってはいかがでしょうか」


 確かに紅茶の中に入れて飲むと、何杯も飲まなければいけない。


「そうするわ」


「はい、どちらからお空けしましょう。味の濃さが薄いものから順番に並べております」


「そうね…」


 ひたすら与えられる日々が続いた。私の様子を報告させるとおっしゃってはいたけど、まさかこのように情報が使われるとは想像もしていなかった。


「奥様、旦那様が明日お帰りになられます」


 淡々と言われて反応が一瞬遅れる。就寝の準備をしているところだった。


「えっ?あっ、そう、なの?」


「はい、と言っても明日の午前十一時辺りになるかと」


「わかりました、ありがとう」


「いえ」


 期待と嬉しさ、浮足立つ心をどうにか制御できたのは疑問だった。


(わからない、旦那様がここまで優しくしてくれる理由が)


 ベッドの中であぁでもない、こうでもないと考えを巡らせる。


(旦那様、グランクト家とメッサリア家だったら立場はグランクト家の方が上のはずよね…)


 次第に私は勉強したことではっきりしたメッサリア家没落寸前までに至った経緯から、旦那様の意図を考え初めていた。


 私がメッサリア家に行った当時、位は子爵だった。当時は分からなかったけど、今までの旦那様はかたちだけの経営を教え込まれていたもの、私の力に依存していた。当然、教えられる交渉術など何もない。それ故、先代の旦那様、いや当主様は苦労していた。


(でも一番の原因は奥様の愛人)


 先々代当主様の奥様はよくある話だが、売れない詩人を愛人として囲っていた。だが浪費額が比ではなくお遊びとしての許容範囲を大幅に超えていた。それどころか、長男はその詩人との子供だった。


(あの時は屋敷中を当主様が奥様を追いかけまわしていて…。部屋の中にいても聞こえてきて怖かった)


 生まれたばかりの長男の存在は既に周囲に報告済みでどうしようもできず、愛人に脅しをかけ無理やり別れさせた後は屋敷中に緘口令がしかれた。以来、人間不信になった当主様は私の言葉を伝える伝言役すら信用できず直接部屋へいらしていた。それから元伝言役も既に四十を超えていたこともあり、次第に当主様以外で私の力を知る人はいなくなっていった。


 当主様は意外にも妻と愛人との間の子供を大事にした。ただそれでも信用することはできずに私の力も、本当は誰との子だったかも伝えずにお亡くなりになった。奥様もその後を追うように数年後にお亡くなりになった。


 その子供ー前の旦那様ー、メッサリア家の先代当主が領主として就任した時点で、家は既に傾きかけていた。だけどその時はまだ立て直しを諦めていなかった。だからランドール地方の伯爵家の娘、リジエッタ様を奥方として迎えた。


 伯爵は当時では珍しい娘にも領地経営を叩き込む貴族として有名だった。リジエッタ奥様を迎えた先代当主様は戦力を増やすために求婚した。ただリジエッタ奥様にはその優秀さをかき消すような致命的な欠点があった。


(階級至上主義は実はもう古い考えだったのね)


 別名、貴族至上主義とも名付けられた、簡単に言えば貴族は貴族同士と交流を持つべきといった考え方。平民から資産家が生まれ、今の旦那様の方法で爵位を得る者が出ると純貴族が減って階級至上主義に名前が変わった貴族絶頂期の名残り。


 リジエッタ奥様は階級至上主義で人付き合いも純貴族以外は認めない方だったため、プライドを捨てきれずに無理な策を強行しようとした結果、没落寸前まで寧ろ一気に転がり落ちた。


 それでも私を追い出さなかったのは私が魔女で、受け就くべき財産だと先祖代々からの遺言があると分かっていたから。私が自分の力を言わなかったのは、いずれごく潰しだと追い出されるのを待っていたから。でもそんな遺言があったとは知らなかったからそんなことは起きなかった。


 そして遂に私と今の旦那様との婚約話が持ち上がった。ここから先は私がグランクト家の家令から聞いたことだ。


「ね、ねぇ」


「はい、なんでございましょう。奥様」


「旦那様のことで、聞きたいことが、あるの」


 家令であるムガンクさんは優しそうな細身のおじいさん、人懐っこい笑顔の方でこの人なら聞けるかなと思って恐る恐る尋ねた。私の様子を見て他の使用人を下がらせたムガンクさんは、元は旦那様のお父様付き秘書だったらしい。


「旦那様、グランクト家はメッサリア家より立場は上よ、ね?」


 食後の紅茶をメイドの代わりに注ぎながら私の言葉に耳を傾けている。


「えぇ、そうですね。こんなことを奥様に申すのは心苦しいのですが、本来なら奥様のご実家であらせられるメッサリア家夫人は公爵どころか伯爵の立場を保つのも難しかったでしょう。それを旦那様が負債の肩代わりと伯爵の爵位継承に必要な手助けや事業計画作成、人材をお送りなさいました」


「だから私、分からないの。なぜ、ここまでしていただけるのか」


「…旦那様は」


 肝心な質問を呟きのようにくうに散らした私の音をムガンクさんはちゃんと拾ってくれた。


「グランクト家はの方々はモノの価値を見抜く力に優れているのです」


「?」


「奥様は…この屋敷での生活を気に入っておられますでしょうか?」


「えぇ」


(どうしてそんな…悲しい笑い方をするの?)


 私にそれ以上、聞くことはできなかった。


 三日後に図書室に行くと、お気に入りの場所には本を読むのに丁度よさそうな長椅子が置いてあった。


「これも旦那様が…?」


「はい、日が差しているとはいえ、床はお身体が冷えます故」


 屋敷の持ち主は旦那様なのに、どんどん私仕様に変えられていく空間を享受しながらも素直に喜ぶことができなかった。


(布が柔らかい、日が暖かくて…)


 一瞬、何か懐かしい光景が閉じかけた瞼の裏をかすめた。


「?!」


 反射的に目を開けてそれを掴もうとしたけど、叶わず使用人の足元が映るだけ。


「奥様? どうかなされましたか?」


「ううん、何でもないの」


 旦那様がご帰宅されたのはそれから三日後だった。


「お帰りなさいませ」


 帰ってきた旦那様の威圧感は重くてつい足がすくみそうになったけど何とか姿勢を正してお出迎えをした。


「変わりはないか」


「はい」


「使用人や物は足りているか?」


「充分過ぎるほどです」


「何かあれば、誰でもいい。お前の言葉は伝えるよう言ってある」


「お心遣いいただきありがとうございます」


 靴音を鳴らして目の前にくる旦那様のお顔は私を睨んでいるようにも観察しているようにも見える。


「次は夕食の時に会おう」


「はい」


 テーブルの向かいに座る旦那様との距離は遠くてただでさえ伺いにくい顔色が余計分からない。


「なんだ?」


「えっ」


「俺のことを見ていただろう。欲しい物でもあるのか」


「いえっ、そんなっ、そのっ」


 たじろぐ私を見て手の振りだけで使用人たちを下がらせる。本当にグランクト家の方々は察しがいい。


「なんだ」


 腕組みをして顎をのせた時の目つきはお帰りなられた時より、明るい黄金色が蘭々と光っているように見える。


「私、どうして、ここまでして頂けるのかわからなくて…。爵位しか、ないのに…」


「俺は見合う物を見合う者に与えているだけだ」


「私に、見合う物、なんでしょうか」


「俺の妻だから」


「…」


「悪いが、明日も早めに仕事があるから先に寝させてもらう。朝食は一緒にとろう」


「あ、はい。お疲れ様です」


 慌てて席を立ち階段に向かう旦那様に頭を下げる。お背中が見えなくなった後にふと気づく、メッサリア家でより安心して人と食事ができたと。確かに緊張も恐れもあったけど、それでもあの家での刺すような空気がここには漂っていない。


「おはよう」


「おはようございます」


 昨夜よりかは軽快に零れた音に自分で自分を褒めたくなる。


「よく、眠れているか」


「はい、みんなよくしてくれています」


 私と旦那様の部屋は別々だ、部屋自体の距離も遠い。


「そうか」


 そう言いながらふと、腕時計に目を落として時間を確認した旦那様はぐんと顔を上げて私を見る。


「?」


 なぜかその顔が、瞬きのような間だったけどひどく幼く見えた。いや、無垢を感じたのだ。


「結構余裕がある。少し散歩しないか」


「はっはいっ」


「食事が終わったら庭園に出よう」


「はい」


 まだ昼前の外が肌寒く感じたのは一瞬で暖かいベージュのストールを巻かれる。今度は腕組して隣に並ぶことはなく、数歩先を振り返らずゆっくり歩く。


(これを世間は冷たいと呼ぶのかしら)


 屋敷にいる間も届けられる新聞を私は見た。新婚にも関わらず妻を屋敷に残してまた大きな商談をまとめたと功績を少しいじるような見出し。私は特に気にしたことはない。


 自主性のない私にとっては、旦那様の接し方はまだ謎が多いけれどとても優しく見えた。


「コルネリア」


「?!」


 初めて名を呼ばれて目を大きく開けた自覚はあった。旦那様の足と影、背が低めの花々を中心に収めた視界が急に広くなる。空いた空間に入り込む日の光に目がくらんだ。


「こういう花は好きか」


 濃い赤や紫色の大輪の花々、その花弁を下からすくい上げるように手を添える旦那様。私がはいと言えば、そう遠くない日にここは夕日色の花弁が時間関係なく覆うのだろう。


「私は、黄色が、好きです」


 柔らかい風が沈黙の間をすり抜けていった。


「わかった」


 はっと我にかえる。


(旦那様があの花を好きで植えていたらどうしよう)


「あのっ、旦那様はっ」


 また振り返るその顔は相変わらず読めない。


「旦那様はっ、何色がお好きなんですか?」


 一歩だけ近づいた距離にとてつもなく緊張している。


「色に、特にこだわりはない」


「そう、ですか」


 また旦那様の歩いた後ろを私が歩く時間が始まる。ただ私の中の心境は少しだけ変わっている。

ハウェル様のことを知りたい。あの方の中に見えるものにどこか懐かしさを覚える理由を知りたい。


 あの日から旦那様と散歩をする時間が増えた。


 思っていた通り、庭園には黄色の花が徐々に増えてきている。それに癒されながら歩く私も、実は特に色にこだわりはなかった。だから自分でも何故、黄色が好きだと言った理由が分からない。


「コルネリア」


「はい、ハウェル様」


 名前を呼ばれる事にも慣れてきて私も名前を呼ぶことができるようになってきた。


「次はバルジンドの方に行く。土産は何がいい」


 いつも何か欲しいと言わなくてもハウェル様は装飾品などを送ってくる。普段の無表情からは考えられないくらいの過ぎる献身の理由も未だに分かっていない。ここまできたら、何もいらないという方が無礼だろうかと要望を考える。


「ハウェル様、っつ」


 びゅうと、強い風が唐突に訪れる。正に暴風、私が見せたくないモノを暴く風だった。


「大丈夫か」


「は、い」


「コルネリア」


 乱れた髪を軽く手でまとめていると、ハウェル様が手を伸ばしてきた。


「?ハウェル様? ッヒュッ!」


 本当に物語のように息を飲むことがあるとは思わなかった。

ハウェル様は風でめくれた私の袖口を指で掴んでいて、あらわになった肌に生まれつき刻まれた印。

 

「は、ハウェル様」


「身体が冷える」


「え?」


「このストールだけじゃ足りないな。もう少し厚めの生地で仕立てさせよう」


「あの?」


 魔女の印を見ても一切表情を変えないハウェル様がいよいよ分からない。腕に刻まれた印が何を示すのか、分からないはずがない。


「中に入るぞ」


 それからのことはよく覚えていない。そのまま仕事に出かけていくハウェル様のお見送りもおざなりになってしまった。いつも通っていた図書室へも足が向かわない。自室へ引きこもって窓から庭園をぼうと見る日々。


 出かけた翌日、私は部屋の中を漁って頂いた物の中からハウェル様の書いた何かがないか必死に探した。でも、そんなものは何一つなく、虚しい気分のまま引っ張りだした物を片付けた。


(私を穏便に追い出す準備をしているのかしら)


 魔女は卑しい、月女神から力を盗んだ罪人。私の、文字から書いた人の思考が読める力がそうだ。


 その日から、徐々に長袖の服が増えてきた。暑い日用の薄いレースの編み込みは所々厚い箇所があって印を綺麗に隠してくれそうだ。長手袋と共に一般的な手首までの手袋まで渡したのは偽装のためか。


 遂にジルバンド地方へ行く日がきた。ハウェル様は何も言わずに行ってしまった。

 メッサリア家にいた時は、追い出されることをあんなに望んでいたのに今は恐怖を感じていた。この嗜好品た

ちや生活を手放したくないのかと欲深くなった自分に呆れる気持ちになった直後、頭をよぎったのは初めて散歩した時のハウェル様と袖を下ろした時のハウェルの表情だった。


(泣きそう…だった?)


 あの時、泣きそうだったのはコルネリアの方だったはずだ。


 悩んでいる間にも時は進み、ハウェルがバルジンド地方に行く日が近づいてきた。


(魔女だと知ってもこんなによくしてもらっているのだから、恩返しをしましょう)


 あまりにも変化のない日々に不安よりも募るのは、申し訳ないという罪悪感。ただでさえ、妻として役不足を感じている中、この件だ。今までの分も含めてハウェル様、ひいてはグランクト家に報いたい。


 情報取集として読み始めた新聞の片隅にある写真に目を奪われる。しばらく熟考して立ち上がると勢いのまま、ハウェル様の元に向かう。


 私の姿を視認した瞬間、メッサリア家の使用人よりも洗練された動きでハウェル様の横に控える部下の方たちを見て、改めてこの方の凄さを思い知らされる。


「ハウェル様、私が外で活動することをお許し下さい」


「つまり?」


 流石に即座に却下されるかもしれないと思っていた話に耳を傾ける姿勢を見せてくれることに安堵する。


 村にいた頃の記憶は、ここに来てから何故か鮮明に色を取り戻していった。環境が変わったせいなのかは分からないけど、役に立てるかもしれない数少ない機会を逃したくない。これが上手くいけばハウェル様の名声を、新聞にあったような面白くおかしく書かれた内容を消せるかもしれない。勿論、純粋に食べられる草を雑草として処分するのを見て、知っていたら生活が少しでも楽になるのにと心配の気持ちもある。


「護衛を付けさせる。俺の妻だと分かれば怪しまれしないはずだ」


「ありがとうございます」


 結局はハウェル様の手伝いが無ければできない事を恩返しと言えるのかという思いもある。だけど、それ以上の利を出せればと私は震える声と手で子供たちと教会の方たち、護衛の目線を浴びながら使い方の実演した。


「きっとお貴族様の元だけにしか残されていない貴重な本からの情報でございましょう。それを提供して下さり本当に、もうなんて言えばよろしいか」


「いえ、ハウェル様がお許しいただいてくれたおかげです」


「ハウェル様…」


 僅かに顔を曇らせる尼僧を見て私は焦った。


「と、とてもお優しい方なんです。私なんかの言葉を真剣に聞いてくださって…」


「ふふっ、コルネリア様はハウェル様をとてもお慕いしてらっしゃるのですね」


 慌ててハウェル様の印象を良くしようと言葉を必死に紡ぐ私の様子がおかしかったのか、尼僧の側にいた修道女の方が笑い声を零した。


「あっ」


「これっ、よしなさいっ」


 その言葉を飲み込むよりも早く、熱が頭に昇って赤くなる顔を見られるより先に尼僧が修道女を強めに咎めた。

 

「申し訳ございません」


 やってしまったといった感じですまし顔に戻す修道女から視線を戻した尼僧が頭を下げるが、それどころじゃなかった私は結局、屋敷に戻るまで熱が引かなかった。


 就寝準備を済ませて寝台に寝転び、手触りのいい毛布を口元まで持っていく。自分でも気づかない本音が飛びださないよう覆って頭でぐるぐると考えを巡らせる。


(私がハウェル様を…?私は恩返しがしたくて、ハウェル様の事はまだ…、でも夫婦だし…)


 あまりにも男女の関係的な事をしたことがないあまり意識してこなかった。悶々としたまま、時計の針が子守唄に変わるほど沸騰した頭では答えが出るはずもなく、意識は溶けていった。


 ハウェル様がバルジンド地方に行く数日前の食事や散歩での会話では、私からもお話を提供することができてハウェル様に相応しい妻に少し近づけたような気がして、それを確実なものにするために私はメッサリア家にいた頃に勉強させられた貴族社会だけでなく、色んな階級層の社会の仕組みについて学んだ。


 そうやってまた新しい日々を送りながら、ハウェル様はバルジンド地方に向かう日が来るといつものように変わらない表情で出掛けていかれた。


 時々、掴みかねた答えのような記憶の中の光のようなものを追いかけたりする度、ちらつくのはハウェル様の黄金色の瞳で、そこから先は壁に当たったように何も考えられなくなる。それこそが答えだと知ったのは、ハウェル様からの手紙を手に入れてからだった。


 ウイデオという、最近よく世話をしてくれる使用人から渡された手紙は水彩のような淡い紫に染まった薔薇の形に折られた手紙。もしかしたら、逸る気持ちをできるだけ抑えて自室に戻る。鍵を後ろ手にかけ、手汗で湿らせたくない気持ちと緊張でゆっくり開けたい身体がガチガチとぶつかり合う。


 触れる面積を少なくしてゆっくりと指先だけで手紙を開く。カサカサと鳴る花弁は少しだけゴワゴワしていて、その硬さと抵抗感が誰かの心の内を暴こうとしているのだと認識させる。ようやく開かれた花の中にあるのは蜜ではなく、美しい文字。


「ハウェル様の…」


 ハウェル様が書類などを書かれているところは見たことがある。だから、能力を使っているうちに誰が書いた文字か判別できるようになった私にはすぐ分かった。


『すまない、土産は遅れることになる』


 たったそれだけの言葉。


「…っ」


 なのに初めての私のためにご自分で書かれたのだろうそれに、胸が苦しくなって涙がこみ上げてくる。

それをこらえて息を吸い込むと意を決して文字にそっと指先で触れた。


「あっ…」


ー優しくしたいー

ー大切にしたい、髪に触れたい、抱きしめたい、共寝をしたい、緒に歩きたい、食事をしたい、同じ目線で見たい、尊重したい、守りたい、手に触れたい、隣で歩きたい、好きなものが知りたい、嫌いなものを知りたいー


「っ…ふっ…」


ー愛おしいー

ーこれ以上ない存在ー


「ぐっ…うっ」


ー愛しているー


「うあ゛、あぁっ」


 まだ明るい、カーテンが心地よさげな陽の光を受け入れる部屋の中で膝が崩れ落ちて狂ったように泣き出す。触れる程度に文字に載せていた指先は、いつの間にか手のひらになっていて、流れ込んでくる愛おしさを掴むように手紙に押しつけていた。


「うっ、ひっぐ…うぅ」


 止まらない涙がメッサリア家にいた頃、何度もなぞって、擦れて色落ちた愛した家族との思い出にしみていくようだ。愛されているというのは、こういう感覚だったのかと完全に色を取り戻した記憶が頭を駆け巡る。そして、一つだけ自分の中にある疑問の答えを見つけた。


 故郷の村は冬は特にだけど、一年中厳しい生活で木があまりない、雪もほぼずっとある状態で落ちた枝葉はすぐに湿って火をつくるのも一苦労だった。畑だって、唯一雪が揺らない地帯の境目のような所に見張り小屋のようなものを建てて何時間も歩いて交代で育てていた。そんな私たちにとって日の光は、あの金色は希望の色だった。


 二百年もたって衣食住に困らなくなったどころか、贅沢過ぎるこの生活でまたあの色に救われた。

いやー


「ハウェル様が私の希望…」


 心だけでなく、故郷の記憶を蘇らせてくれた人に私は何を返せるだろうか。ハウェル様と同じものを持っていない事が申し訳なくて、でもそれに罪悪感を抱く自分に傲慢さを感じて嫌になる。そもそも、もう一つ掴み損ねているものがあるのだ。何となく、その答えを出さずにハウェル様へのお返しを決めるのは不誠実な気がした。


「ハウェル様にこれから私、どう接したらいいのかしら…」

 

、ハウェル様のお気持ちは嬉しい、心からだ。でも持て余しているのも事実で、特に今はふわふわとした高揚感で大地に足が着いてない感覚だ。頭を冷やすために風に当たろうと庭に出ると、黄色の花が目に入る。さっきのこともあって思い浮かべるのはハウェル様の瞳に、散歩の記憶。


(頭を冷やしにきたのに…)


 ふと何も手にしていない自分の両腕を見る。孤児院での実績作りで過ぎた献身に報いようとした。


(足りない…)





 私が自分のもう一つの疑問の答え、本心に気づいたのはヴェリタスの花の開花を旦那様と見たときだ。


 ハウェル様に会うのが待ちきれなくて、いつもより近くでお出迎えさせていただいた。

ハウェル様の瞳に吸い込まれるように半歩の距離感に縮まったのを咎められなかったことが嬉しくて、この開花の瞬間の立ち合いもお誘いしてしまった。


屋敷を花が見れる期待と興奮に任せてハウェル様に身を寄せる。

 月光に下に出ると、ぴくりと蕾が動いた気がした。


(月明かりに当てるといいのかしら)


 紫色の花弁の隙間から零れる光は美しくて夢中になった。そうして花びらが一枚一枚、身を起こすように開いていくた度に外に向かって伸びる光の道が増える。薄い花弁から発生し、互いに光を反射し合う。透かされた色が映った様々な紫、蒼色は、ハウェル様と私を照らす。


「こんなにも美しい花があるのですね」


「…そうだな」


 こちらに一瞬だけ向けられた瞳が、手紙に込められた想いを思い出させる。自分がさっきまで夢中になっていたのは確かにこのヴェリタスの花だったのに、淡い光に浮かぶその金色にどきりとしてしまう。日の光とは違う光に照らされたハウェル様の黒髪にはいつもとは違う七色がのっている。


「こんなにも美しい花があるのですね」


「…そうだな」

 

 開ききった花から溢れる光が強くなったのに我に返って、敏いハウェル様に気づかれないよう感想で誤魔化した。ふと、手の中の光に混じるように外から陽の光が入る、朝日だ。


「もう朝が、申し訳ございません、長く付き合わせて…」


 朝までかかるとは思わなかった上に、時間の経過に気づかなかった自分の配慮のなさに冷や汗が噴き出す。慌ててハウェル様の体調が大丈夫か確認しようと顔を跳ね上げるが、朝日の方を向いており私の身長では表情は分からない。


「いや、今日は休みだ。問題ない」


 振り向かれたそのお顔を陽の光が照らし出して、いつもの自信に満ちたハウェル様を際立たせる。だけどそれ以上に、朝日が入り込んだハウェル様の瞳に吸い込まれて動けなくなった。ここ最近、掴み損ねて足搔いていた答えを急に目の前に差し出されたのだ。


 好きな色なんてなかったのに咄嗟に黄色が好きだと言った理由、ハウェル様の瞳の色が欲しかったのだ。出会った当初は、商人らしい強欲でギラギラとした金貨の黄金色のように感じてた目は、あの方からの優しさを感じる度に懐かしさを覚える色に変わっていった。近寄りがたい雰囲気なのに見たかった。


 その懐かしさもハウェル様の優しさを拾う度、散歩や食事の回数を重ねるごとに求めたのは擦り切れていた故郷の記憶だけでなく、ハウェル様の心だった。こんな家族を捨てたような私を、皆はどう思うのだろう。親不孝者とあの世で睨んでいるのだろうか。このまま、自分の感情とハウェル様の想いに浸っていいのか迷いがある。


(私も愛していると言えば…この方は込めた想いを実現してくれるのだろうか。いや、私も、私がもっとこの方に近づかなければ…)


「ハウェル様」


「なんだ」


「お隣を歩いてもよろしいでしょうか」


「構わない」


 最初の第一歩としてこの方の隣を歩くと決めて並べた肩はハウェル様の腕に当たる。


 「手を」


 結婚式以来の腕組みを超えた接触に心がはずむ。階段を降りるためと分かっているけど、この行為にハウェル様も喜んでいればいいのにと、階段を下りてからも離したくない気持ちを込めて少しだけ握る力を強くした。ハウェル様の手は少しだけ動いたけど、ほどかれないことに笑みを浮かべることを止められない。


「あ、あの」


「なんだ」


「お手紙、とても、嬉しかったです」


「ただのつまらん言付けのようなものがか」


「ハウェル様のっ、ハウェル様が直接書かれたものでしたので…」


「そうか」


 こういう言い方、ハウェル様にねだるようなものだと分かっているのに止められなかった自身が恥ずかしかった、だけど自分の想いを告げられるよう、信じてくれるよう努力を積み重ねてこの方に捧げたかった。


 悩み事が晴れ、目標がはっきりした私はハウェル様との時間を増やした。勿論、ハウェル様のご都合とお身体が第一で孤児院での実績作りも一層力を入れた。ハウェル様の本心を知ってからより、妻として相応しくありたいという気持ちが強くなった。当然、働いている時や計画をたてる時は子供たちのことを色んな方たちと相談する。


 視界に広がるいっぱいの花々がハウェル様の顔、たまに揺れるまとめられた虹色を纏う黒髪に、空ではなく相手の瞳の動きを気にするようになったのは私だけではないと信じたい、幸せな日々。


 その内、この日々を残したいと思うようになった。孤児院での手伝いの帰り、素敵な日記帳を見つけて購入した。その夜、自室にて日記帳を胸に抱え何としたためようかと考える。そうして部屋を歩き回って思いついたのは今日の出来事ではなく、ハウェル様からの手紙。


ー紫の薔薇を今度は抱えきれないくらいほしいー


 あの時、ハウェル様の想いがあまりにも温かくて、手のひら全部を使ってもあの熱を知るには足りなかった。もし、あれを抱えきれないほど抱えてあの方の想いが宿った文字に全身使って触れられたらと夢を見る。読み取ることができるのはこの手だけだと分かってはいるけど、それでもハウェル様からの手紙を、愛をこの両手にいつか堂々と抱える日を私は迎えてみせる。





 明日も、その次の日もハウェル様のために頑張ろうと決めていたのに、気がついたら日記帳を抱えたまま私は寝たきりの状態になっていた。思考がまとまらず、視界が首や頭の動き以上にくるくると回っている。


(嘘、まだ、どうして、私はまだハウェル様と…生きたいのに…)


 まだ尽くしきれていない、ハウェル様とやりたい事もまだ沢山あったのにと悲しみに心が浸かる。ずっと世話してくれていたウイデオがついてくれているのに、ハウェル様に看取られず死んでいくのかと思ったら悲しくて仕方なかった。


「グランクト夫人、お初にお目にかかります。ハウェル様より、奥様を診るようにと仰せ使いました」


(お医者様…どうして…?)


 私が魔女だと知っているハウェル様が、これが無駄だと分からないはずがない。


「申し訳ありません。こちらの手には触れないで下さい」


 目まぐるしい視界の隅でウイデオが私の魔女の印がある方の腕をそっとお医者様から遠ざける。


(あぁ、ハウェル様、貴方という方はどこまで…)


 きっとハウェル様は魔女だという事を勘づかれないようにお医者様を手配したのだ。ウイデオが私が魔女だということを知っているかは分からないけど協力体制をとっているだろう動きに安堵する。


 手を尽くしても回復する見込みのない様子に、流石にお医者様も顔を時々曇らせる。それに申し訳ないと思いながらも、もう私には悲しみはなかった。


(ハウェル様と一緒になれて本当に幸せだった、故郷の思い出も思い出せた。皆も幸せになったかな…、マギニト、まだ小さかったのにな。グランクト家の皆様も本当に優しくて…ハウェル様…)


 苦しかった息が心なしか楽になってきた気がした。


(私、最期に愛されて)


 息と共に成し遂げることのできなかった後悔を吐き出す。熱が頭から引いていく感覚が心地いい。余計なものが消えていく中で、次にハウェル様に逢えたらしたいことを考える。


(一緒の部屋で寝て、起きて、窓から差し込む日の光に照らされた貴方が見たい。気持ちを目を見て伝えたい、今度は私から花を…、ハウェル様を愛せてよかった…)


 新品の日記帳が手から滑り落ちる感覚がした。

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