私は帰りません!
「しらすって海にいるんだよ!」
「小さいお魚、いっぱいだね!」
「目が怖い〜」
おやつ時間は楽しく進んでいく。
過去にも何度かシラスおにぎりは出ているのだが、毎回新鮮な反応を見せてくれる。
おやつの時間が終わると、子ども達は教室の前方に集まり終わりの会に参加する。
僕はその間におやつの片付けを行う。
帰りの会が終わると、自由に遊びながら保護者が迎えに来るのを待つ時間が始まる。
「先生〜 一緒に遊ぼう!」
終わり肩口で切り揃えられた髪の女の子、愛莉ちゃんが終わりの会が終わると一目散にこちらにやってきた。
「良いよ。何して遊ぶ?」
そう僕が聞くと、うーんとおもちゃがある棚を見ながら考えている。
「そうだね、お人形遊びしよう!」
愛莉ちゃんと一緒に人形遊びのセットをテーブル持ってきて広げ始めると遠目からこちらを見ている女の子に気付く。
「沙織ちゃんも遊ぶ?」
僕が口を開くより先に愛莉ちゃんが沙織ちゃんに声をかけた。
沙織ちゃんは一瞬驚いた様子だったが、「うん」と笑顔で静かに頷くと僕達の方へやってくる。
「沙織ちゃんは、どれが良い?」
そう聞くと愛莉ちゃんは沙織ちゃんに人形を見せてあげている。
「赤ちゃん可愛いから赤ちゃんにする!」
楽しくなってきたからか、先程よりも元気に告げると赤ちゃんの人形を手に取る。
元々発言等も多く元気一杯な愛莉ちゃんだが、ここ最近は周りをよく見て声を掛ける事に加え、他の子の意見を先に聞いたり、譲ってあげる様子がよく見られるようになっていた。
まだ愛莉ちゃんと同い年は自分の主張を通したい子が多い中で、まるでお姉さんのように感じる事が多くなっていた。
四月生まれで月齢が高いからだろうか。
そう考えていると、不意に愛莉ちゃんが腕に抱きついてきた。
「私は遥希先生が大好きだから一緒にママとパパやる!」
「ありがとう。じゃあ、先生はパパやるね」
面と向かって言われると、嬉しい気持ちになる。
愛莉ちゃんも一緒にママとパパが出来る事になり、嬉しそうだ。
「私はね、道枝君と羽生君と遥希先生が格好良いから大好きなんだ〜」
アイドルとフィギュアスケーターと並べられるなんて畏れ多いし、ここでありがとうと答えるのは自意識過剰のように感じる。
しかし、相手は子どもだと思い直し、苦笑いで短く、ありがとうと返すのだった。
人形遊びが始まると沙織ちゃんは人形を横にしてコロコロし始めた。
「ママお腹空いた〜」
その声を聞くと愛莉ちゃんは人形の顔を赤ちゃんの人形の方へ向ける。
どこか忙しそうだ。
「私も今仕事から帰ってきたから、すぐに食べれる物をすぐ作るから少し待っててね」
まさかのキャリアウーマンだった。
共働きの家庭が当たり前になってきたからだろうか。
愛莉ちゃんの動かす人形は忙しなく生活の大変さを表す見事な演技だった。
「パパは残業で遅くなるって」
ということは、すぐに帰ってはいけないということだ。
子どもは良く大人の話を聞いていてる。
大変そうな共働き家庭の人形遊びになってきたぞと感じながら、ご飯が出来るまで帰るのをやめようと思い待機するのであった。
その後の子どもを保育園に送るドタバタの朝を終えて現在17時、そろそろお迎えがピークになる時間だ。
市川保育園はL字の内側が園庭になっている。
園庭は各教室に面しているので、保護者や子どもたちは、園庭を通って各教室に出入り出来るようになっている。
白井先生が迎えに来た保護者に今日の様子を伝えている間、僕は引き続き子どもと遊んだり、時には子どもの支度を手伝ったりしながら過ごしていた。
「すみません、美浜愛莉の保護者なのですが……」
「あぁ、今日からお迎えに来ていただけると連絡を貰ってますよ。どうぞ、中に入ってきて下さい」
「愛莉ちゃん、お迎え来たって。準備しようか」
白井先生が出入り口に向かうのを確認して、人形遊びをしていた愛莉ちゃんに声をかける。
僕の声に反応し、顔を上げて出入り口を確認した瞬間、楽しそうに遊んでいた顔がだんだんと険しくなっていく。
どうかしたのかと思い、口を開こうとした瞬間だった。
「嫌!」
そう短く叫ぶと出入り口とは反対方向に顔を背けてしまう。
お迎え時は素直に返事をし、帰りの準備をして帰っているいつもの様子とはまるで違っていて、驚きで少し固まってしまった。
しかし、このまま時間が経つとどんどん意固地になり、方向修正が難しくなってくる。
特に愛莉ちゃんは普段あまり不機嫌にならない分、一度不機嫌になると数日引っ張る場合もある。
とはいえ最近はまったくその様子はなかったはずだが……
とにかく、説得にするにしても、誤魔化して気を逸らすにしてもにしても原因が何かを知る事が重要だ。
そう思うと出入り口の方を確認した。
「……美浜さん?」
どうしようかとそわそわしていた美浜さんは、名前を呼ばれ不思議そうな顔をしてこちらを見る。
「……あれ、市川君?」
しばらく僕の顔を見ていた美浜さんは驚いた顔でそう呟いていた。
そんなやり取りをしていると美浜さんの後ろから沙織ちゃんの保護者が入室して来た。
「市川先生、私もすぐ行くからそれまで愛莉ちゃんの対応をお願いして良い?」
保護者の入室を確認した白井先生は素早く僕に指示を出す。
「分かりました。美浜さん、取り敢えずこっちに」
僕がいる事に不思議そうな顔をしていた美浜さんだが、僕が誘導するとハッと表情を引き締め、慌ててこちらに近付いてきた。
愛莉ちゃんは美浜さんの方を向こうともしない。
「愛莉ちゃん、お姉ちゃんお迎えに来てくれたよ」
「嫌……」
取り敢えず様子見で放った言葉も短い否定で返され取っ掛かりが全くない。
「ほら、愛莉。先生達に迷惑をかけちゃ駄目でしょう。早く帰ろう」
「嫌!」
どうしたものかと考え込んでしまった僕を見て、美浜さんは焦りを感じたのか強い口調で愛莉ちゃんに指示をだし、愛莉ちゃんもそれに対して強い否定を返す。
こうなっては売り言葉に買い言葉、言葉の応酬が始まってしまう。
「お姉ちゃんは嫌だ! 遥希先生といる!」
愛莉ちゃんが感情を爆発させる。
こうなっては、まず落ち着かせないとどんな言葉も耳に入らないだろう。
しかし、美浜さんの方を見ると焦りからこちらも気持ちが昂っている。
慌てて止めようとするが、もう遅かった。
「なんで言うこと聞けないの!」
美浜さんも感情を爆発させてしまった。
愛莉ちゃんは無反応だ。
とにかく、二人を離そう。
そう決断をし、行動に移そうとした瞬間、廊下側の扉が開く。
現れたのは市川保育園主任の母さんで、大声を聞いて様子を見に来たのだろう。
中の様子を確認すると素早く僕の方に近付いてきた。
「遥希は美浜さんの娘さんとは知り合い?」
質問の意図がいまいち分からないが、重要な質問なのだろう。
「クラスメイトだよ」
短く答えると、母さんは素早く頷き、今度は愛莉の方を向き視線の高さを合わせる。
「愛莉ちゃん、遥希先生とだったらお姉ちゃんと三人でお家に帰れる?」
そう聞かれると愛莉ちゃんは母さんの方を向き、渋々だが頷いた。
「そしたら鞄持って、靴を履いておいで」
母さんの言葉を聞き愛莉ちゃんが動き出したのを確認すると、僕は母さんに視線でこれで良いのかと訴えかける。
その意図を察し、母さんは僕の方へ近付き小声で囁く。
「仮にこの場で愛莉ちゃんを落ち着かせて帰らせたとしても、どこかでまた爆発するわ。それにこれは家庭の問題、私達が出来ることは少ない。それなら、これ以上溝が深くならないようにするのが得策。でも、私達が園を離れるわけには行かないから、あなたが行って美浜さんの娘さんのフォローもしてあげなさい。美浜さんのお母さんには電話して伝えておくから」
確かにこの状態で帰らせるのは二人にとって辛いだろう。
僕は了解の意味を込めて頷く。
それは見た母さんは頷き返すと手を差し出した。
「エプロン持っておくから頂戴。それから、靴を持っておいで」
靴を取って園庭側から三人で外に出る。
愛莉ちゃんは僕と手を繋ぎながらチラチラと美浜さんの方を見ているが表情は不機嫌なままだ。
美浜さんも心ここに在らずといった感じで道案内以外の言葉はない。
気不味い思いを感じながら十五分ほど、美浜さんはある一軒家の前で立ち止まった。
「私達の家はここなんだ。ありがとう、市川君」
見ると、家の電気はついている。
どうやら美浜さんの親は帰宅しているみたいだ。
僕が挨拶するより、家族が話す時間を作った方が良いだろう。
そう思った僕は門の前で別れる事を決めた。
「分かった。また、明日学校でね」
美浜さんは疲れた笑顔を浮かべると愛莉ちゃんと二人で家に入っていった。
僕はしばらくその場に立ち尽くした後、今日の事を反省しながら帰路に着くのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます