鈴を外すとき。

翌朝、私はあの家に向かった。

別れ際、彼は何も言わなかった。

ただどこか寂しそうで名残惜しそうで、また胸の奥がきゅっと締めつけられた。

「いちさん、ありがとう。じゃあね」

「気をつけてな」

バタンと閉まる扉をしばらく見つめて私は彼の家を去った。


ほんの数週間ぶりの景色は、どこか懐かしかった。

門扉を通り、玄関を前に深呼吸をする。

大丈夫。私は今できる最大限のことをした。頑張った。

意を決して扉を開けるとリビングからパタパタと走る音が聞こえたあと、母が私に駆け寄り抱きしめてきた。

「おかえり」

私は母の肩に手を回した。その肩は少し震えているようだった。

「ただいま」

今まで両親から得られた覚えのない愛をそのときたしかに私は感じた。


リビングに入ると嗅ぎ慣れた家の匂いがした。

ああそうか、ここは私の家なんだ。

母とゆっくり話をした。

今までの素直な気持ち、それらを受けて今私が感じていること。

時折詰まりながらもすべて言葉にできた。

母の顔を横目に見ると母は泣いていた。

そして私の手を取り、何度もごめんね、ごめんねと繰り返した。

そこで私は今日までの母の心境や行動を初めて知ることになる。

周りの期待に応えようと一心に頑張る私になんて声をかければいいかわからなかったこと、徐々にヒートアップしていく父の私への言動に苦言を呈していたこと、それでも止められなかったこと、どんどん我が子が遠くに行ってしまうような感覚を覚え少し寂しかったこと、家から出ていくまでSOSに気づけなかった自分は母親失格だと思ったこと。

初めて母の胸の内を聞き、母も母親である以前に1人の人間なのだと気づいた。

そう思うと母の気持ちも理解できる。

母は私の存在を確かめるようにゆっくり抱きしめた。

「ママは杏胡ちゃんが生まれてきてくれて幸せ。今回のことがあってすごく不安だったけど、人様の迷惑になるような、警察のお世話になるようなことはしないってママ信じてるから、今度こそ自分の人生を生きて」

そこまで言うと母は私に向き合って、眉を下げながら言った。

「…もしママのこと許してくれるならそれを近くで見守らせてください」

母の飾らない真っ直ぐな言葉は私の心にしっかりと届いた。

「ママ。改めて心配かけてごめんなさい。私、ずっと苦しかった。でもママの話を聞いて納得いく部分もあって少し楽になった。ありがとう。これからどうなるかまだわからないけど、私はそれをママに見守っててほしいよ。できれば困ったときとか辛いときはそばにいてほしい」

もちろん、と言いながら深く頷く母の姿を見て、やっと本当に親子なのだと、私は愛されているのだと実感できた。


自室に行き、携帯電話を操作する。

『いちさん、ママとちゃんと話せたよ。やっとわかり合えた気がする。いちさんのおかげ。ありがとう』

返事はすぐに来た。

『よかったな。すずが頑張ったからだよ』

少し素っ気なく感じたけれど、気のせいだろうと流した。


それから数日。

母とは良好な関係が築けている。

父には母から話をしてくれたようで、少しずつ、本当に少しずつだが歩み寄りの姿勢が見られるようになった。

家族の再構築というと大げさかもしれないが、私たちは少しずつ私たちの家族の形を探していった。

次第にインターネットと距離が生まれていった。


両親との問題の解消の目処がある程度立った頃、今まで見て見ぬふりをしてきた彼との関係に目が向くようになった。

今まで感じてきた違和感や、薄々気づいていた彼からの好意に向き合わないといけないと感じた。

そうじゃないと、今まで彼が私に向き合ってくれた時間や気持ちを無下にしてしまうような気がして嫌だった。


連絡は変わらず取っていたけど、彼からの返答はやっぱり距離感を感じるものばかりだった。

久しぶりに通話できないかと持ちかけると少しの間待ってくれと言われた。

私は素直に従うしかなかった。


そして約束の日。

お互いの近況報告をしたあと、彼はぽつりぽつりと話し始めた。

初めはすずにとっていい大人であれればいいと思っていた。

徐々に信頼を寄せてくれるのがわかってうれしかった。

頼りにしてくれて、自分との関係に居場所を見出してくれるのがとてもうれしくて、自分も同じようにすずとの関係に価値を感じ居場所にしていた。

次第にそれらは恋に変わっていって、愛に昇華した。

今までの関係や距離感では物足りなくなってしまった。

すずを俺のものにしたい。すずに愛されたい。

「なんとなく気づいてたと思うけど、すずの答えの予想もつくけど、俺のけじめとして伝えさせて」

「俺はすずが、杏胡がすきだ。愛してる」

それは鋭い刃のように私の心を刺した。

彼がどんな表情をしているのか容易に想像できる。

きっと私があの家を去ってから、いや、あの家で過ごしているときから彼は自分の気持ちに気づいて向き合っていた。

でも、私の抱えている問題の重さ、私の辛さを誰よりも理解していたから、今の今まで言葉にしてこなかったのだろう。

いちさん。あなたは最後の最後まで優しいんだね。

彼の想いに応えられないのがとても申し訳なかった。

恩を仇で返すとはこのことか。

でも、彼の真剣な気持ちに生半可な覚悟で応えることは失礼だし、彼の本意ではないと思う。

深く深呼吸をし、彼に告げた。

「気持ちはうれしいけど、応えられない。ごめんなさい」

そして今までの感謝を述べる。

いちさんと出会わなかったら今の私はいない。

いちさんがいてくれたから愛とは何か気づけた。

いちさんが見守っていてくれたから私は私自身と向き合えた。

全部全部、いちさんのおかげ。ありがとう。

我ながら残酷なことを口にするなと思った。

電話口からは嗚咽が聞こえてくる。

それもまた鋭い刃のように私の心をえぐった。

逃げたい。

本能がそう叫ぶ。

だけど頭がそうさせなかった。

愛とは何か、愛されるということはどういうことか、私は彼から学んだのだ。

この痛みも苦しみも受け止めないといけない。

愛は時に痛みも伴うのだと学び、受け止め、理解しないといけない。


落ち着いた彼はいつも通りの、私が知っている声でありがとうと言った。

きっとこの想いは忘れないし、すずと前みたいに接するには時間が必要だからしばらくは連絡も取れないと思うと告げられた。

甘んじて受け入れるしか選択肢はなかった。

「よし。今日はすずの卒業式だ。今度会うときは対等に、同志として会おう」

空元気な声で彼は言った。

「わかった。元気でね。今まで本当にお世話になりました」

「卒業おめでとう」

そう言い残して彼は去っていった。

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