猫とこしあん。
目が覚めると彼はもう起きていたようで、おはようと声をかけられた。
かすれた声でおはようと返すと、携帯電話が何回も鳴っていたことを伝えられた。
確認すると母からの着信履歴とメッセージがいくつもあった。
スクロールして1つずつ見ていく。
謝罪と心配の言葉たちが並んでいた。
そして昨晩、彼が送ったメッセージに行き着いた。
そこには、娘さんが落ち着くまでお預かりしますという内容とともに彼の運転免許証の写真、電話番号が添えられていた。
「もしかして、ママから電話あった?」
「うん。すずのこと、ものすごく心配してたよ」
久しぶりにゆっくり眠れたからだろうか、頭も身体もすっきりしていた。
「迷惑かけて、心配もかけてごめんなさい」
彼に頭を下げる。
「心配はかけてくれていい。あと迷惑だなんて思ってない」
それよりもこれからのことだと彼は言った。
起き上がり、彼と向かい合って話をする。
すずはどう思っているのか、これからどうしていきたいのかを問われた。
常に自分以外の誰かのために行動してきた私。
今までは誰かが決めてくれていたことを、これからは自分で考えて決めなきゃいけないということにこのとき初めて気づいた。
と同時に今まで感じたことのないくらい大きな恐怖が襲ってきた。
他の誰でもない自分が考えて、決めて、そして責任を取らないとならない。
理解すればするほど怖くてたまらなくなった。
思うように思考もまとまらなければ言葉にもできない。
そんな私の様子を察したのか、彼が口を開いた。
「怖いよな。辛いよな」
何度も頷く。
「焦ることはないよ。時間はある。ゆっくりじっくり考えればいいさ。帰りたいと思うまでうちにいてくれて構わないし」
わかった、ありがとう、と口にしながらも果たして彼の優しさに甘えていいのだろうかと考えていた。
それから、減ってしまっていた2人の時間を取り戻すかのように、たくさん、たくさん彼と言葉を重ねた。
彼は何も変わっていなくて、一緒に喜んでくれて悲しんでくれてアドバイスをくれた。
通話越しじゃなく目の前にいるからだろうか。
彼の感情がダイレクトに伝わってきて、以前よりも大きな安心感を感じることができた。
甘えるのはとても苦手だ。
でも、彼になら甘えていいかもしれない。
彼なら受け止めてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱き始めた私は徐々に行動へ移していった。
パソコンとにらめっこしている彼に話しかけてみたり、眠れないから私が眠れるまで手を繋いでいてほしいと言ってみたり、お風呂上がりに髪を乾かしてほしいとねだったり。
彼はどんな状況でも私の要望に応えてくれた。
それだけで私の乾いた心は潤いを取り戻していった。
こんなこと両親には言えなかった、とこぼすと彼はとても複雑な顔をして私の頭を撫でた。
どこかでずっと期待していたのだ。
結果を残せなくても、つまづいて転んでも、頑張れなくなっても、あなたがいてくれるだけで生きていてくれるだけでいいと、存在を肯定してほしかった。
ずっと蓋をしていた心の奥の扉が少し開いた気がした。
そうか、私はこれに向き合っていかないといけないんだ。
1つ1つ思い返して、自分の気持ちに素直になって、その問題と向き合う。
決して簡単なことじゃなかった。
当時の私が潜在的に無視していた問題を掘り起こして、苦しい思いをして落ち込んで、少し元気が出たら向き合って考えて。
ゴールの見えないマラソンを走っている気分だった。
そんな私に彼は、時には父のように、時には兄のように、時には恋人のように寄り添ってくれた。
今思えば甘えすぎていたのかもしれない。
私にとって彼は大切な存在だ。
恋人や友人といった肩書きをつけられるような存在ではなく、どこまでいっても彼は彼だった。
だから次第に近くなっていく距離感に何も違和感を感じなかった。
でも彼は違ったみたいだ。
一緒のベッドで眠ることが増えた。
一緒にお風呂に入ることが増えた。
頭を撫でるという行為が抱きしめるという行為に変わった。
それらの変化に私は何も感じなかった。
今思えば、彼を男性として認識はしているものの意識はしていなかったのだと思う。
そして、今までの自分自身の感情や両親との確執に向き合うことに精一杯だった私は更なる問題、考えないといけないことを増やしたくなかったのだと思う。
いつも通りベッドで一緒に横になって話しているときのこと。
「すず、いつもそのぬいぐるみ抱きしめて眠ってるよな」
彼にそう言われた。
枕元にいるクマのようなぬいぐるみをじっと見つめる。
「一緒に眠ってくれてるなら名前つけてあげないと」
しばらく考えて、1つとてもしっくりくる名前が思い浮かんだ。
「こしあん!君は今日からこしあんだ」
満足そうにそのぬいぐるみを抱きしめる私を彼は愛おしそうに見つめていた。
それからも思考を巡らす日々が続いた。
ベッドに座り、こしあんを抱きかかえ考え込んでいる私に彼が声をかけてきた。
「すず、少し気分転換に散歩でも行かないか」
ちょうど考えに行き詰っていた私はふたつ返事で了承した。
近くの公園に行くことにした。
まだ昼間の陽気が残る道を歩く。
たどり着いたそこは遊具はあまりないけれど広々とした公園だった。
そして目につく春の色。
「桜だ」
「ちょうど咲いてる頃かなって思って来たけど、想像以上だな」
ブランコに腰かけ、ゆらゆらと揺れながら桜を見つめる。
そこにはゆったりとした時間が流れていた。
今日まで考えてきたことを思い返す。
これからどうしたいかはまだわからなかったけれど、今までの気持ちには素直に向き合えたはず。
すべてがそうとは言えないけれどきっと彼の言うように、これはこれからも時間をかけて向き合っていかないといけない問題なのだろう。
それならば、今はこれで及第点なんじゃないかと思えた。
ブランコから降りて、彼に告げた。
「私、明日帰るね」
ちょうど影がかっていて彼の表情は見えなかった。
その日の夜は別の布団で寝た。
微かに聞こえる鼻をすする音に気づいていたけど、私は気づかないふりをして眠りについた。
胸の奥、心臓のあたりがきゅっと締めつけられるこの感覚はきっと忘れられないだろうと思いながら。
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