猫の決意。
昔から私たちを知っている人には心配されたが、大丈夫だよといつも通りへらっと笑って返していた。
大丈夫。大丈夫。少し前に戻っただけ。
そう言い聞かせるけれど心は理解してくれなかったみたいだ。
眠れない夜が増えた。
不安が不安を呼び、私の心は暗く黒いもので覆いつくされていった。
そんな日々が続いたときのことだった。
自室でぼーっとしているとリビングから鈍い音が聞こえた。
今までも何度か聞いたことのある音だったけれど、このときは確認しなければならないと強く感じた。
ドアを開けると、父の声が響いた。
嫌な予感がして駆け足で階段を下りると俄かに信じがたい、いや信じたくない光景が広がっていた。
散らばったリモコンやクッション、割れて破片が散らばっている写真立て、床に座り込む母の姿、息の荒い父の姿。
一瞬にして、父が物にあたり、母に飛び火したのだと悟った。
皮肉なことに、母が拾う破片のすぐそばには私の高校入学の記念写真があった。
そこに写る、笑顔の母はもういない。
私はただ立ち尽くし、その光景を見つめることしかできなかった。
しばらくして父が去っていき、母は大丈夫よと私に言うと部屋を片づけ始めた。
私のせいだ。
私がいい子じゃなかったから。
私がみんなの期待に応えられなかったから。
私が、私がすべてを壊した。
自室に戻ると力が抜けてその場にうずくまった。
涙が床を濡らし、視界が歪んでいく。
私が泣く資格なんてないのに。
身体中の水分がなくなるんじゃないかというくらい泣いた。
そして決めた。
まだぎりぎり終電が残っているくらいの時間。
お財布と通帳、パスケース、イヤホン、携帯電話。本当に必要最低限の物だけ持って、両親が就寝しているのを確認して家をあとにした。
行く当てはない。
お金もある程度ならあるし、身分確認をされない限り、数日はどうにかなるだろう。
どうにかならなくなったら、こんな無価値な人間、消えてしまえばいいんだ。
野良猫とすれ違った。そう、来世は君みたいな誰も傷つけずに済む猫になれればいいな。
暗い道を進む。
方向だけ決めて来た電車に乗った。
数駅過ぎた頃、握りしめていた携帯電話が通知を知らす。
『いち:起きてるか?』
何も考えずに返信をした。
『起きてるよ』
返事はすぐに来た。
『少し話さないか』
『今、電車だからごめん』
『電車?こんな時間に?』
なんて返そうかなと考えているうちに電車が終着駅に着いた。
ここまでかあ。それなりに家から離れた場所だけれど県はまたげなかった。
ベンチに座り、空を見つめる。
このまま暗闇に吸い込まれて同化したい。そう思って目を瞑ったときだった。
携帯電話が震える。震え続けた。電話か。画面を見ると彼からの着信だった。
出ないのも申し訳ないか。
「もしもし?どうしたのこんな時間に」
「こっちの台詞だ」
電話口の彼は怒っているようだ。
「今どこにいる」
「……」
「怒らないから正直に答えて」
「…寺崎駅」
「何があった」
さっきとは打って変わって優しい、私の知っている彼の声だった。
私は事の顛末を淡々と彼に話した。
話していると他人事のように思えて涙は出なかった。
彼はしばらく黙り込んだあと、何かを決意したような再確認したような様子で私に言った。
「うちにおいで」
心配だから通話は繋いだままにしておいて、あともう電車もないだろうし、何より危ないからタクシーを使ってくれという彼のお願いを素直に聞き入れ改札を出る。
終電後の駅前ということもあってか、簡単にタクシーを捕まえることができた。
彼から告げられた住所を伝え、車に揺られた。
電話口からは時折がさごそと物が動く音が聞こえていた。
目的地に着くと見覚えのある人が立っていた。
その人は運転席の方へ回ると支払いを済ませてしまった。
ドアが開く。
おいで、と差し伸べられた手を取り、彼の少し後ろを歩いた。
日中なら明るく賑わっているであろう商店街を抜け、街灯のない橋を渡り、たどり着いたそこは少し古さを感じるアパートだった。
「お邪魔します」
おそらくリビングに繋がるであろう扉のドアノブに手をかけた彼が言った。
「自分の家だと思ってくれていい。あと、ある程度は片づけたけど散らかってるからそこは大目に見てくれ」
小さくうなずくとリビングの隣の部屋に通された。
ベッドと机とパソコンだけが置いてある部屋。
「なんか温かいものでも飲むか?」
春の気配がしてきたとはいえ、まだ夜は冷え込む。
お言葉に甘えてココアを淹れてもらった。
両手でカップを持ちひと口。
ほっとひと息つくとやっと現実味が帯びてきた。
私、あの家を出たんだ。私、彼の家にいるんだ。
きょろきょろと周りを見回していると、やめてくれと制された。
そんなに散らかってるとは思わないけどなあ。
大人しく言うことを聞くことにした。
何も聞かない彼と何も話さない私。
この前、バーで会ったときのように沈黙が流れていたけど、不思議と気まずさは感じなかった。
ココアを飲み干すと、彼は別室から布団を持ってきて、私にはベッドで眠るよう言った。
家主は彼なのだから私が布団を借りると言うと、この布団薄いからと。
ならなおのこと私が布団で寝る。
私の頑固さを知っている彼は困った顔をして、俺の匂いが嫌とかなら考えるけどそうじゃないならベッドを使ってくれと言った。
ここで拒むと彼の匂いが嫌と言っているみたいで嫌で、わかったとベッドに潜り込むと「あっ」と彼が声を発した。
「親御さんには連絡は入れてあるんだよな?」
「入れてない」
「せめて無事なことだけでも伝えてあげなさい」
優しく諭すように彼は言ってくれた。
でも、でも。
「嫌だ」
「どうして?」
「私はあの家にいない方がいいから。…ううん、あの人たちに私は必要ないから。だから少しでも早く私のことなんて忘れて新しく綺麗な家庭を築いてほしい」
彼は起き上がってベッドに腰かけている私の手をそっと握った。
「すずの気持ちはわかった。だけど例えば警察に捜索願でも出されたら困るだろう?すずが嫌なら俺がするから」
たしかに捜索願なんて出されたら面倒だ。
かばんから携帯電話を取り出し彼に渡した。
受け取った彼は何やら写真を撮りだし、携帯電話を操作していた。
「確認だけど、連絡入れておくのはお母さんだけでいいのか?」
「うん」
携帯電話を返されるとまたかばんにしまって、今度こそベッドに潜り込んだ。
「今日はゆっくりお休み」
頭上から優しい声が降ってくる。
久しぶりに感じた安心感を噛み締めながら目を瞑った。
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