猫と世界が交わるとき。

あの日を境に、私といちさんの関係は始まった。

恋人や友人といった言葉では表せない関係。

コミュニティでは変わらず2人して相談に乗ったり、みんなと雑談を楽しんだりした。

でもそこを抜ければ2人だけの世界だ。

私は本当の居場所を見つけられたのかもしれない。

日常生活の些細な出来事も共有し、小さな悩みも彼に相談した。

彼は一緒に喜んでくれて悲しんでくれてアドバイスをくれた。

それはいつも的を得ていてとても参考になったし、何よりも心強かった。

私が私の話をしたように、彼もまた彼自身のことを教えてくれた。

会社を経営していること、インターネット上に胸を張って大人と言える存在が少ないと考えていること、哲学や小難しいトピックがすきなこと。

挙げ出したらキリがないくらいたくさん教えてくれた。

朧気だった輪郭がくっきりとしていく様を見ているようで楽しかった。

私はこういう何気ない日常から得られる安心感を求めていたのだと気づいた。

そしてそんな安心感を提供してくれる彼に感謝の気持ちでいっぱいだった。

何度も下手くそなりに感謝を伝えた。

仲が深まれば深まるほど照れくさくなって感情表現が苦手になる私。

それを知っているからか彼は私の言葉の機微に気づいて汲み取ってくれた。

なんてすごい人なんだろう。素直にそう思った。


と同時に不安がよぎる。

いちさんは私にたくさんのことを教えてくれて、私はたくさんのものをもらっている。

じゃあ私は?私は何か彼に還元できているのだろうか。

考え出したら止まらなくなって、とてつもない不安に駆られた。

思わず彼に聞いてしまった。

「ねえ、いちさん。すずはたくさんのものをもらっているけど、すずはいちさんに何かお返しできてるのかなあ?」

少しきょとんとした様子を見せたあと彼は言った。

「お返しかあ。考えたこともなかったな」

そして続けた。

「何もいらないよ。っていうか十分もらってる。すずと話せるだけで俺はうれしいんだよ」

「でも」

でもそれじゃ私が納得いかない。

彼もそれを察したのだろう。

唸り声をあげてしばらく考え込んだあと「あっ」と声を上げた。

「すずのさ、本名、教えてくれない?」

いつも自信に満ち溢れた物言いをする彼には珍しく、少し怯えたような様子で尋ねてきた。

そんな彼に呆気を取られて返答のない私に焦ったのか、少し早口で彼は続けた。

「前にすずのこと話してくれたときにご両親からもらったものの中で、本名だけは気に入っていて大切だからあまり人には教えたくないって言ってただろう?だから、その大切なもの、俺にも教えてくれないかなあって」

調子乗りすぎたかなとぼやく彼がなんだか可愛らしくて、思わずふふっと微笑んでしまった。

「あこ」

「あこ?」

「本名。あんずの杏に胡蝶蘭の胡で杏胡」

「杏胡…杏胡かあ……」

彼は愛おしいものを抱きしめるみたいに何度も私の名前を口にした。

私は恥ずかしくって思わず携帯電話から顔を逸らした。

何も彼に実際見られているわけでもないのに。

そんな私をよそに名前を連呼するのをやめた彼は、また先ほどと同じ様子で控えめに聞いてきた。

「ちなみに由来って聞いていいの?」

「いいよ。1番は響きがしっくりきたんだって。そこから漢字探し始めて、杏を採用したのは、あんずの花は美しくて実はおいしいから容姿も中身も素晴らしい人に育ってほしいって願いから。胡は悪い意味も多いらしいんだけど私11月生まれじゃん?陰暦11月の異称だからっていうので決めたらしいよ」

「素敵な名前だね。すずにぴったり」

「ありがとう」


そこから時折、本名で呼ばれるようになった。

私にとってハンドルネームは、"私"という人間と"すず"という人間の間にある壁のようなものだ。

その壁を経て見えている私を都合よく使ってくれればいい。

それが彼に本名で呼ばれる度に、しかも愛おしそうに呼ぶものだから、なんだかとても恥ずかしかった。

と同時に感じたことのない気持ちもあった。

それがなんなのか見当もつかなかったが、当時の私は見なかったことにすることにした。

今思えば、本能が詮索するのはやめておけと言ったのだと思う。


いつも通り、彼と日常の共有をしているときのことだった。

そこには穏やかな空気が流れていた。

「あれ~?いないの~?」

女の人の声。胸騒ぎがする。

「あ、ごめん。すずちょっと待ってて」

それだけ言い残して彼はいなくなってしまった。

さっきの少し甲高い声が頭の中でこだまする。

待っている時間が数分にも数十分にも感じた。


「ごめん、ただいま」

「うん、おかえり」

何も気にしていないようなそぶりで私は返した。

「あれ、さっきの、元嫁。職場から俺の家の方が近いからって忙しいときとか遅くなったときとかにふらっと来るんだよ」

「そうなんだ」

へえ、元奥さん、ね。

ふーん。

そんなことを考えていると電話口から「ちょっと、おい」という彼の焦った声が聞こえた。

「もしも~し。あなたが噂のすずちゃん?」

突然のことに困惑していると、その女性はごめんなさいねと続けた。

「驚かすつもりはなかったの。ただあの人が最近やたら機嫌がいいものだから、どういうことかなって気になってすずちゃんの話を聞かせてもらってたのよ。そしたら私もあなたに興味湧いちゃって。よかったら今度3人でごはんでもどう?」

「え、あの、えっと…」

「まあ考えておいて」

じゃ、と元奥さんは言いたいことだけ言って嵐のように去っていった。

「ごめん、すず」

「あ、なんか、その、パワフルな人だね?」

「昔からああなんだよ。ノリと勢いで物事進めるタイプ。ごめんな、びっくりしたよな。気にしなくていいから」

確かにびっくりはした。だけど好奇心の方が勝って深く考えずに彼に言った。

「いいよ。ごはん行こうかな」

「え」

私も案外、ノリと勢いで物事を進めるタイプなのかもしれない。


そこから3人のグループチャットが作られて、あれよあれよと事は進んだ。

何回も彼からは本当にいいのか?本当に大丈夫なのか?と確認されたけれど、日が近くなるにつれて緊張よりも楽しみの方が勝ってきていた私は、何着ていこうかなあなんて呑気なことを考えていた。

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