断章ノ弐 紅華
おりんが洞穴を見つけたのは、偶然のことだった。
赤い大きな揚羽蝶が山道に舞っており、おりんは珍しそうに目を輝かせて、獣道へ入っていってしまったのだ。
清太が慌てて追っていくと、斜面にぽっかりと空いた洞穴の前で、おりんが立ちつくしていた。
洞穴から冷気が漂ってきているせいか、清太はふいに肌寒さを覚える。密生した杉や楢のせいで薄暗く、背の高い草むらがはびこっていた。
更に奇妙ことに、洞穴の正面には根本だけが残った大木の幹が地面に立っていた。
まるで根本から上が、猛烈な炎に焼き払われたかの様だ。
清太が目をこらして幹の周囲を見ると、消し炭となった木の枝や幹の残骸が散らばっていた。
「おい、早く元の道に戻るぞ」
清太は声を潜めていった。ふいに、鬼婆の噂のことを思いだす。
この御堂山に鬼婆がでるという噂が立ったのは、一年ほど前だ。
近くの子供が遊びにきた際に、背の高い女の姿を遠目に見かけたというのだ。
その後、猟師が鬼婆に出くわした、という話もある。
いつもおりんに強がっている手前、清太はなかなか、『鬼婆の話は本当かもしれないから、逃げよう』とまではいいだせなかった。
おりんは無言のまま、洞穴の中を見つめていた。
すると、洞穴の中から、かすかな物音が聞こえた。
清太はおりんを引き寄せて、背中にかばうようにして立ちはだかると、目を細めて耳を澄ました。
相も変わらず怪しげな冷気が洞穴から流れてきて、首筋や腕や足を舐めていく。
「お兄、なにか、くるよ」
「しっ、黙ってろ」
しばらく敏感に耳をそばだてていた清太は、洞穴の中から何者かの足音がしていることに気がついた。
人間の声が聞こえてきた。
初めはなんといっているのか分からなかったが、三度目に聞こえたとき、女の声でこういっているのが分かった。
「だれだい、あんたたちは」
その声は、意外なほど近くから聞こえてくる事実に、清太は慄然とする。
薄暗い洞穴の入り口近くに、長身の何者かの影がそびえていた。
影には女のような胸と腰の膨らみが見とめられたが、女の割に大柄のようだ。
真っ暗な洞穴の闇に溶け込んだ女の輪郭の頭部には、鈍く光る目がふたつ、炯々とこちらをにらんできていた。
「お兄、ねえ、お兄、鬼婆がでたの?」
背中から押し殺したおりんの声が聞こえてくる。
「静かにするんだ」
清太はそういい放って、洞穴へと顔を向ける。
すると、影は徐々に洞穴から進みでてきて、薄暗いながらも日が差す森の中に姿を現した。
清太は息を呑んで、女の姿を見据えた。
歳の頃は二十代中盤だろうか。
くせの強い髪は無造作に額で分けられ、肩の下まで延びている。――ともすれば蓬髪とも呼べる長髪は、いくぶんか色素が薄く、煤けているような具合でもある。
意思の強そうな両目には太い眉がかかり、頑健そうな顎は彫の深い顔を支えていた。
並の男を見おろすであろう身の丈に備わった胸や腰は、妖艶というより壮大といえよう。そんな、武者をもたじろがせそうな威容ではあったが、『怪女』と呼ぶにはいささか語弊があるようだ。
たとえば、端正に刈り込まれた観賞用の植木があるとすれば、女はこれと違い、天然に栄えた野茨と呼べた。放埓に発展した体躯が、絶妙な均整をもって野生の美をなしているのだ。
野茨が棘をまとうのに比べれば、その様相はいくぶんか人間的で、情緒的だった。
ゆるく着こなした朱色の小袖には、黒い菊の模様が幾つも散りばめられている。遠目に見たら、炎に黒煙がまつわっているように見えるかもしれない。
女は忌々しそうに太陽をちらりと見て、地面に唾を吐いた。
「どうやら、鬼婆、なんていわれてるみたいだね、
清太は黙したまま、なんと答えるべきか戸惑っていた。右腕にしがみついてくるおりんの重さを感じながら、ただ、その女に魅入られていた。
「いままで都に住んでいたけど、人間がうざったくなって、妾は山にこもったのさ。だのに、ちょろちょろ人間どもがやってきて、鬼婆だなんだのって騒ぎたてる。嫌になるね、まったく。――で、あんたはなにさ」
「……おいらは、清太っていいます。商家の、倅です。あ、姐様は、いったい、何者なんですか。なんのために、こんな所に住んでいるんですか」
女は鷹揚に右手を広げて、「紅華」といった。
清太には一瞬、それが女が名乗った自身の名前だということに気がつかなかった。
そのとき、清太は草むらから音がすることに気がついた。見ると、一匹の錦蛇が紅華に向かって進んでいた。
紅華は蛇を右手に持ち上げて、舌をちろちろと覗かせる蛇の頭へ耳を寄せた。
しばらくしてから紅華は蛇へ口を寄せ、
「そうか。そりゃ厄介だけど、なかなか、面白そうだねぇ。なにかあったら、また伝えておくれ」
といって、蛇を草むらへ放った。
清太は尋ねた。
「姐さまは、畜生とも話をするんですか」
紅華は意地が悪そうに唇を歪ませて、低く笑い声を漏らした。
「畜生道、餓鬼道、地獄道。これら三途の者どもとて、あんたたちと同じく現世をさまよう存在さ。天上道も修羅道も、ましてや人間道も、同じく欲界に囚われた衆生の領域さ。――ああいった長虫、なんて存在よりも、もっと言葉の通じない人間がいるもんさ。それに比べれば、長虫どもは忠実で、役に立つといってもいいだろう。だから妾は、長虫を友とするのさ」
呆気にとられて立ちつくしていた清太に飽きたのか、やがて紅華は、「ひと眠りするから、去りな」といい捨て、洞穴へと戻っていった。
結局、清太たちは岩棚まで行かずに、家へと引き返していった。
* * * *
清太は寝具から半身を起こして、耳を澄ませた。すると、今度は先ほどよりもはっきりと、声が聞こえた。
それは、たしかに叫び声だった。
隣家からというよりもしばらく離れた場所から、虫の声や風の音に紛れてではあるが、しかし間違いようのないほどはっきりと、男の痛々しい叫び声が聞こえてきたのだ。
清太は冷や汗をかきながら目を広げた。家の中は真っ暗で、なにも見えない。その粘質な闇の中で耳を澄ましていると、今度は女の叫び声が聞こえた。
硬いものがなにかにぶつかったような鈍い音もした。
清太は闇の中を這って、父の竜造を揺り動かした。「お父、起きてくれ」と、なおも揺すった。
「う、む……。どうした、こんな時間に」
竜造は目を覚まして体を起こしたようだが、清太には暗くて辺りがよく見えない。
「聞いてくれ、お父。……声がしたんだ。おいら、眠れずに、ずっと起きていたんだ……。そうしたら、声がして……」
そのとき、男の叫び声がし、続いて女の泣きわめく声がした。どうやら隣家からのようだった。すぐに竜造は低く張りつめた声でいった。
「皆を起こせ。逃げるぞっ。押し込みの夜盗かもしれぬ!」
清太は隣のおりんを起こし、竜造は妻のおもんを起こした。
「……ちょっと、なにさ、あんた」
「火事だ! すぐに逃げるぞ、立て!」
清太は一足先に、ぐずるおりんの手を引いて外へでると、しばらく駆けてから振り向いた。
すると、太刀を構えた四人の男たちが追ってきた。その内二人の手には、松明があった。
清太が見つけた四人の他に、幾つもの松明のあかりが舞うのが見える。
具足を身につけている者や、槍を持っている者もいたため、合戦から落ち延びてきた敵国の武者たちのようだった。
やや遠くにいた二人の武者が、清太とおりんが逃げようとしているのを見つけたらしく、近づいてきた。
おりんはか細い悲痛な声を上げた。
「お兄、こっちにもくるよ」
「分かってる。ああ。どうしよう」
そういう清太の歯の根も合っていない。
戸口にはちょうど、赤ん坊を抱えた竜造とおもんが現れたところだ。武者が掲げる松明のあかりは、竜造の彫が深い顔を照らした。竜造は赤ん坊を右腕に抱え、口を大きく広げた。
「お前たちは逃げろっ! 早く!」
竜造に向かって駆けていきそうになったおりんを、「だめだ、行くな」と、清太は引き留める。
そのとき、戸口に辿り着いたひとりの武者が、竜造に向かって太刀を振り下ろした。
竜造は身をよじって、赤ん坊を守るようにして斬られた。赤ん坊は倒れた竜造の腕の中でぎゃんぎゃんと泣きだす。
「あんたぁ!」
おもんが駆け寄って、赤ん坊を引っ張りだそうとするが、その屈めた頭に向かって、武者が太刀をふるった。
清太はおりんの目元を右腕で覆った。おもんは短い悲鳴を発して竜造の上に倒れこんだ。
そうこうしている内にも、清太たちに向かって二人の武者が迫ってきていた。
「走るぞ、さあっ」
清太はおりんの手を引いて、走りだす。
何歩か進んだときに、おりんが転んでしまった。
清太が右手を掴んでいたため、おりんは顔から地面に突っ伏してしまった。
すぐそこに、左手に松明を、右手に槍を持った男が迫ってきていた。
登頂のやや後ろに髪を縛りあげ、鉢がねを頭にはめている。つり上がった大きな目は、童顔とも呼べる若々しい顔に光っている。鮮やかな朱色に塗られた具足の下からは、締まった筋肉質の四肢がのぞく。
その男が突きだした松明に、槍の穂先が輝いた。
「立つんだ、おりん!」
「痛いよぅ、お顔が痛いよぅ、膝も……」
「いまは堪えて、立つんだよっ」
「やだおう、こわいおう」
泣きだしてしまうおりんの手を、清太は強く引いた。
なんとか無理やり立たせたときに、おりんの体が清太に向かって押しだされてきた。
おどろいた清太が顔を上げると、武者がおりんの背中に向かって槍を突きだしているのが見えた。そして、槍の穂先はおりんの左胸を貫通し、清太の脇腹をかすめていた。
「おりんーっ!」
そう叫んだ清太は、おりんを名残惜しく見つめながらも駆けだした。
足は御堂山の方へ向かっているようだ。
もはや、なにも考えることができなくなっていた。
目が慣れてきたからだろうか、月明かりによって畦道が浮かび上がっているように見えた。
道の先にはまばゆい夏の星々が灯っていた。
(おいらは、夢を見ているんだ。そうだ。……そうだ! そうに決まってら、おいらは……)
それでも先ほど槍に引っかかれた脇腹の鈍い痛みは、あくまで現実の中にいることを清太に思いしらせ続けた。
清太にとっては、自身の運命が不思議でならなかった。
寝る前までは、いつも通りの一日だったというのに。
――汗だくになって働き、おりんと遊び周り、贅沢とはいえないまでも家族で囲炉裏を囲んで夕餉を食べた。
いま思えば、しばらく前までは、太陽のもとに拓かれた幸福を味わっていたはずだ。
なのに、同じ現実の延長線上に、いまの状況があることが、不思議に思えてならなかったのだ。
清太は走り続けた。
自分がどこに向かっているのかも、理解してはいなかった。とにかく、本能に突き動かされるように、御堂山へと駆けていった。
* * * *
清太は山道の入り口にある、鳥居の前までやってきてから、崩れ落ちるように地面に転がった。喉と肺が焼けるように熱く、疲労のため体に力が入らなかった。
仰向けに五体を投げだして荒い呼吸をしていると、おのずと夜空が目に入った。
相変わらず夜空には、北辰の七つ星をはじめ、無数の星が輝いていた。
いっそのこと、流星が落ちてきて、武者どもや自分やあらゆるものを、全て焼き払ってくれないものか、清太はそんなことを考えた。
そのうち、山路を降りてくる足音が聞こえた。
山犬か、狸か、鬼か天魔か。
清太にはもう、立ち上がる気力も尽きていた。
首を起こして足音の正体を見ることさえ、億劫に感じる。
清太は耳を澄まして、近づいてくる足音を聞いていた。ふいに、着物の繊維の匂いと、香の匂いが漂ってきた。
「なにか、あったみたいだねえ」
聴き憶えのある声だった。
清太の顔をのぞきこんできたのは、紅華だった。
清太はがばりと体を起こすと、泣きそうな声でいった。
「みな、殺されました。おいらの村に、鳩羽の武者たちがやってきて……。ほとんどが、やられたと思います。妹の、おりんも……」
「おりんって、昼間にあんたと一緒だった、童だね。そりゃお可哀想に。――あのときやってきた長虫は、たしかにそんなことをいっていたよ。荒っぽい狼が村に迫っているって、ね」
そういって、紅華は右手を差しだしてきた。
清太がその手を取ると、異常なほど、冷たく乾燥していた。ぐいと引っ張られ、清太は立ち上がった。
「紅華さま」
「ああ、どうした」
「あなたは、人間ですか?」
それには答えず、紅華は星空を見上げた。
「人間は灯りを掲げながら、同時に、逆の手で刀を振るうものさ。むべなるかな、人間ってのは、つくづく、そういうものなんだよ」
「……他人事みたいに。いや、紅華さまにとっては他人事でしょうけれど。――おりんは、七つでした。生まれたばかりの赤ん坊も、お父も、お母も。……死にました」
「誰しもが、いずれ死ぬる」
「しかし、道端で不意打ちにでくわして死ぬ、なんてことは、おそろしいことです」
清太はふいに、おりんが刺殺された瞬間のことを思いだした。体から力が抜け、吐き気が込み上げてくる。
そのとき、紅華は真面目な表情をした。
「ねえ、あんた」
「なんでしょうか……」
「くすぶっているよ」
「え?」
「あんたの心に、まだ、ぼそぼそと、埋み火が」
「どういうこと、ですか」
「あんたは家族を殺されて、なんともないのかい」
清太は涙を流して訴えた。
「そんなわけ、あるわけありません! ……とんでもなくつらいよ! 死んでしまいたいほどだ。……おりんは、胸を刺されて、ずいぶん苦しそうに……」
「そうかい。じゃああんたは、瀕死の妹を捨ててきたのか」
清太は槍にかすめられた脇腹をおさえて、おりん、とつぶやいた。
「見捨てた? おいらが?」
「そうさ。しかしそりゃ仕方がないよ。あんたみたいな青ひょうたんが、どうして侍どもにかなうっていうんだい? 悪いのは、奴らじゃないか」
「奴らが、悪い。そうさ、奴らが……」
「そうだよ、やつらがみんな、悪いのさ。もっと、あんたは嘆いていい。悲しんでいい」
そういって、紅華は腕を延ばしてきた。清太は頭を引き寄せられ、豊満な胸に埋められた。やはり、紅華の体は氷のように冷たい。線香と花の匂いが混じったような香気が嗅覚に満ちた。
「悲しい、そうか、おいらは、すごく悲しい」
「そうだよ。……でも、それだけじゃない。もっと、熱く、狂おしいものが、沈んでいるよ。その胸に。それは蛇の舌みたいに赤く、はためいている。あんたは、あいつらのことを……」
すると、紅華は耳元に口を寄せてきた。清太が思わず、体に力を入れて身構えていると、吐息とともにささやき声が耳に流れこんできた。
「憎い」
清太は唾を呑んでから、その言葉を反芻した。
「憎い……」
「そうさ、憎いだろう? みなを殺したやつらが、憎いだろう?」
清太は無惨に死んでいった家族の姿や、得物を振るう武者たちの姿を思いだした。
深く息を吐いてから清太は、憎い、とつぶやいた。
「おいらは、あいつらが、憎い。そうさ……」
臓腑に眠っていた熱い塊が、目を覚ましたように体を駆け巡り、清太の意識を朦朧とさせた。あふれる怒りが、涙となりこぼれる。
「紅華さま、おいらは、あいつらが憎いよ。どうして、お父やおりんが、お母までも、殺されなきゃいけないんだよう……。畜生、ああ、赦せねえよ!」
すると、紅華は少し距離をとってから、口はずを舐めてさぞ嬉しそうな、満足そうな表情をした。
「い、いったい、どうしたんですか……」
「あんたの怨讐の念が、妾を満たすのさ。その憎しみの声が、心地いいのさ! ごらん、今宵はまことに星が美しいじゃないか」
紅華は喉の底から奇妙な笑い声を上げはじめる。
アハハッ、ヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ……
それに連れて、近くの草むらから音がした。地面に細長い影が這いずりまわる。どうやら、無数の蛇たちが紅華の許に集まってきているようだ。
紅華は帯の後ろに手を延ばして、棒のようなものを取りだした。それはいびつな形をした、杖のようだった。
「さて、侍どもは、もっと妾を満たしてくれるだろうか。――あんたの美味なる火は、妾が預かった」
這いずる蛇のさなかで、紅華は再び、生木の枝が擦れるような笑い声を上げた。
* * * *
「長虫たちの話によれば、掠奪をひとしきり終えた奴らは、古寺に篭り、朝を待っているんだと」
紅華は前を向いたまま、そういった。
清太はふと立ち止まり、御堂山と村との間にある、寺のことを思いだした。
「ほら、早くこないと、置いていっちまうよ」
村へ続く畦道を歩いていると、やがて、左手の遠くの方にほのかな光が見えた。
清太たちは畦道を左に折れて、寺へと近づいていく。
荒れた生垣の内側には、狭い境内が広がっているのが見えた。清太たちは生垣の影に身を潜め、中の様子をうかがった。蛇たちは清太たちの周囲を取り巻いて、ときおり、しゅうしゅう、とうなった。
本堂の破れた障子の奥に、灯りをともす者がいるようだ。本堂の前には、二人の男の影が立っていた。おそらく見張り番なのだろう。
「あの、紅華さま……」
「ふふ、怖気づいたのかい」
「奴らは、武器を持っています。それに、多勢いると思います。たぶん、一〇人以上は……」
「だろうね」
つぶやいて、紅華は右手の杖を構える。薄闇の中だったため、清太には、はっきりとその形状は分からなかった。とにかく、奇妙なごつごつとした短い杖、としか見えない。
「これは、長虫の骨を組み合わせて造ったものだ。珍しいだろ」
「そうですね。おいらは、そんなものを見たことありません。それに、お坊さまの使う法具みたいなもの自体、近くで見たことがありませんから」
鈴虫の声が辺りに響いており、その向こうから、男たちの嬌声が聞こえてきた。
ふん、と紅華は鼻を鳴らし、
「奴ら、喰い物やら掠奪品やらを肴に、朝まで騒ぐつもりかね。さて、行くとしよう」
といって、腰を上げた。清太はできるだけ声を抑えていった。
「ま、まさか、乗り込むんですか?」
そのとき、蛇たちが動きはじめた。
三〇匹ほどからなる蛇の群れは、散開して本堂へ這っていった。
そのあとを追うように、紅華は見張り番に向かって、街道を行くようにずんずんと進む。
清太は背を丸めて、おそるおそる距離をとってついていった。
「お、おい、なんだてめえは!」
男は太刀を構えて怒鳴ったのだが、足元に迫ってくる蛇の群れにおどろいて、体勢を崩した。
本堂の障子が開いて、中から武者たちが飛びだしてきた。
「おや、邪魔をして悪かったね。あんたたち、今宵はずいぶんと遊できたんだってね。妾の相手もしておくれよ……」
すると、二人の男が進みでてきた。
ひとりは顎髭を生やし、太刀を構えた、むくつけき巨躯の男だ。頭は剃りあげられ、筋肉ははち切れんばかりに黒光りしている。
もうひとりは長槍を構え、具足に身を固め、鉢当てをかぶった男だ。頭には髷を載せ、こけた頬の上に光る両目は炯炯と見ひらかれている。
「お、おまえはだれでえ? なんでここをしってやがる! ……まあいいや、死にやがれっ」
具足の男が奇声とともに繰りだした槍は、紅華の胸に深々と突き刺さった。
次に、巨躯の男が太刀を振り下ろす。普通の太刀よりも刃が厚く、刀身も長いようだ。刃は紅華の小首の左側を打ち、そのまま腰の辺りまで落ちていった。
後ろから見守る清太には、槍と太刀が紅華の背中から突きでているように見えた。あまりに深い傷を負ったというわりに、血は噴きでていない。
清太は震える足を引っ張って、木の陰に隠れ、紅華を盗み見るようにした。
さらに五人ほどの武者が本堂から現れ、紅華を取り囲んだようだ。
薄闇の中で、男たちの困惑した声が途切れ途切れに聞こえた。
――この女はだれでぇ
――しらねえよ。しかし、なんだこりゃ
――なんで倒れねえんだよ
――ええい、首を刎ねちまえ
――ほかにこいつの仲間はいねえのか
――小僧が一匹いたぜ
――それより、こいつ、人間じゃねえよ
――うへっ、蛇が脚に絡んできたぜ
――おい、この女の首を刎ねろ!
そのとき、紅華がいるであろう武者たちの中心から、大きな火柱が立った。
炎に呑まれた武者たちは、悲鳴をあげて、体に移った火を消そうと地面を転げまわる。
――熱いー! おおおお……
――助けてくれ!
夜空を焦がさんばかりに燃えさかる火柱の中心には、杖を頭上に掲げる紅華がいた。なます切りにされたぼろぼろの肢体を屹立させた紅華は、狂ったような笑い声をあげている。
ヒヒヒヒッ、アッハハハハハハ……
燃え尽きた着物はすでに灰となって散ったようで、肢体を隠すものはなかった。
清太は鼻をひくひくさせて、先ほどから強く感じる、蛇の体臭のような生臭いにおいに顔をしかめた。着物や肉の焼ける鼻をつく異臭も、ますますはっきりと感じられた。
すると、本堂の中から残りの武者が外をのぞき見てきた。
すかさず紅華が杖を前方に向けると、黒く長い影が本堂に向かって延びていった。
影が本堂に達すると、その影から炎がほとばしり、たちまち本堂は火炎に包まれた。
飛びでてきた武者たちは、得物を捨てて地面を転げまわる。
武者たちの半数以上はすでに、炭のようになってこと切れていた。
それでも、炎をまぬがれた何名かがいた。
彼らはほうほうの体で、清太が隠れている木の横をとおりすぎ、境内から逃げていく。
その中のひとりの姿を見て、清太は息を呑んだ。
朱色に塗られた木の具足に槍を手にした、鋭い目の男には、見憶えがあった。――その男こそ、妹のおりんを槍で貫いた武者であると思われたのだ。
歌舞伎の二枚目でも張れそうな締まった紅顔を引きつらせて、男は清太には見向きもせず、逃げていった。
そのすぐ後ろから彼を追う、松明を持った中年の武者が声をかけた。
「待てよ、なあ、惣次郎」
惣次郎と呼ばれた朱色の具足の男は、振り向かずにいった。
「うるせえ。あんな化け物に構ってられるかっ」
そんな二人は、しゅうしゅう、という長虫の声を足元に聞く。――眼前の暗闇がりには、月明かりに照らされる裸身の女の姿があった。長く乱れた蓬髪に血と灰がかかり、見開かれた両目は貪婪と光を放っていた。
断章ノ弐 紅華 おわり
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