断章ノ参 白蘭
三毒が姉妹の末である
「ああ、退屈ねえ」そうつぶやいて、ねぐらの廃屋の中で思案する。
人間の『愚昧』という暗黒から造られた白蘭にとって、人間たちを狂わせ、怖がらせ、混乱させるというのは、まさに正式な仕事であった。
ときに、町の祭りがあれば上空に龍の幻を投影し、人々を怯えさせた。
ときに、城中の姫と家臣を、禁忌の恋で結びつけて遊んだ。
ときに、戦場に鬼神を召喚し、敵味方なく殺させた。
こんな例からでも、白蘭がいかに姉たちを凌ぐ呪力を持っているかが伺えるだろう。強大で、しかし無軌道な力である。
さて、白蘭自身も喜び勇んで人間をたぶらかしたのだが、そんなことばかりを続けると、空虚な心持ちにもなる。
ある日、白蘭は川面に乱反射する陽光の中に、おのれの姿を不満そうに、ぼんやりと写し見ていた。
二人の姉はいずれも成熟した女であるのに、白蘭に限っては童女も同然だった。
道行く少女からはぎ取った薄紅色の小袖に帯をしめ、色素の薄い黒髪をすとんと頬のあたりまで落とした姿は、はたから見れば、顔にこびりついた影が気になるも、商家か武家の娘にも思われただろう。
柔和な風がすべる春の小川には、青々とした草にまぎれて、つくしや花々が嬉しそうに芽吹いていた。
それなのに白蘭の顔は暗く翳っていた。
「父なる烙夭魔王さま。あたしは、いつまで人間をからかっていればいいんでしょうか。もう人間などは放っておいて、帰りとうございます。あるいは、うるさい人間などは根絶やしにして、静かになった無辺の大地を歩きとうございます」
すると、白蘭の耳に声が聞こえた。
「姉妹が内でも、げに強き力を持つ子鹿よ。そなたはかぐわしい春の野の香り。そのように沈んだ顔は似合わぬぞ。さあ、人間を救うために、より彼らを苦しませよ。それがそなたの定めなのだ」
白蘭はしばし陶酔の面持ちで声を聞いていたのだが、すぐに、その声は彼女自身が心の中でつくり上げた、幻にすぎないことがわかった。
川面に唾を吐いた白蘭は、草にしがみついていた
そのとき川下の方から、草を踏み分ける足音がした。
ふと白蘭が顔を上げると、そこには十七歳ほどの青年が向かってきていた。粗末な麻の服と日焼けした肌を見るに、農家のせがれといったところだろう。頭には髷を結い、手に桶を持っていた。青年はやや離れた汀に立って、しばらく無言で白蘭を見つめた。――こんな身なりの良さそうな少女が山の小川に佇んでおれば、誰しもそうしただろう。
「おまえさんは、どこのモンだ」
ぶしつけな青年の言葉に、魔女は芝居に付き合う心地で応じた。
「あい。わたくしは、町に住む木綿問屋の娘でございます。店が休みゆえ、山遊びに参りました」
青年は訝しげな表情でいった。
「なに? ひとりでか? へっ、変わった娘さんだね。人さらいや化物だのが、うまそうな餌だって、飛びついてくるだろうよ。おいら、おまえさんを一目見たとき、魂消たものだよ。きっと、妖かなにかだって」
少女はくすりと笑った。
「逃げ脚は早うございます。こう見えても。わたくしは、矢のように駆けます」
「おれは、清次郎というものだ」
磨かれた白い石のような歯が口からのぞき、輝いた。日焼けした顔に、歯と白目が映えた。
「わたくしは、蘭と申します」
白蘭も負けじとそう言って、控えめな笑顔を返した。
清次郎は顔を心なしか赤らめ、おう、と口走って、桶に水をすくいはじめた。
「よかったら、この辺りをちょっと案内してやろうか。――それから、午後になったら、町にわらじを売りにいくんだが、そのときに蘭さんを送っていくよ。おいらも、町に出るのは二週間ぶりでね」
白蘭は嫌な気がしなかった。素直な人間ほど、だますことは容易だった。ときに、簡単すぎて興が乗らぬときもあるが。――大抵、純朴な人間は一枚も二枚も上手の、面の皮が厚い者に利用されるものだ。そういった人形遊びは、この上ない娯楽であった。
だから白蘭は清次郎を騙して、最後に大梯子を外してやろうと考えた。
年は多少離れているが、恋患いに溺れさせてもいい。大金を与えて、有頂天にさせてから金を奪い、奈落に突き落としてやろうか。なんでもいい。どれでも大層愉快に笑えるはずだ。
「おや、どうしたんだい蘭さん。おもしろいことでもあったかい?」
「あい。山めぐりは大層、おもしろそうです」
「へへ、そりゃよかったよ」
白蘭は青年が導くまま、山を巡った。夏の草木や沢や山稜の情景を見て、清次郎はあれこれと説明した。とりわけ、断崖に突き出た大岩での眺望が印象的だった。渓谷や森を越えて、町や海が夏の清々しい空気のもと、果てしなく広がっていた。
ふと、白蘭はとりとめもないことを考えた。
(なぜあたしは、人間に生まれなかったんだろう。人間ならば、この景色がより鮮やかに見えたことだろう。――ああ、退屈ねえ。こんなときは、思いっきり愉快なことをしなくっちゃ)
そう思って、白蘭は額に汗を浮かべて案内する清次郎の横顔へ、心の中で呼びかける。
(ね、あたしのおもちゃの、清次郎……)
「そろそろ、帰ったら方がいいだろうね」
物見遊山もひとしきりすると、清次郎はそう言った。
「あい。ご忠告のとおり、そろそろ、おいとまをいたします」
「なんだかさ、蘭さんって」
「なんでしょうか?」
「お人形みたいな喋り方だな」
「それは、おかしゅうございます。お人形は、お喋りいたしませぬ」
「うん。そりゃそうだ!」
そうして清次郎は破顔し、肩を震わせて笑った。白蘭も口元を袖で隠して笑った。その笑いが演技から来たものか本心なのか、白蘭自身にもわからなかった。
* * * *
楼迦国の南部に位置する
白蘭は商家の門の近くで、清次郎が出てくるのを待っていた。先にわらじを納めに立ち寄ったのだ。
裏通りながら人々が行き交っており、侍や町人、丁稚や行商など色とりどりの往来だ。
「待たせたね、蘭さん」と声がして、清次郎が現れた。白蘭は顔を上げた。
「いえ、さほども、待ちはしておりませぬ」
「そうか。さて、ぼちぼち家まで送ろう」
そう言って清次郎は歩き出した。
そのうち清次郎はある露天で足を止めるに、「おや、髪飾りか」と声を上げた。
見ると、木の台の上に段が設けられ、そこにさまざまな髪飾りが並んでいた。いずれも竹の櫛に色石などがついているくらいの、簡素なものだった。台の横には店主の老人がいた。
清次郎は言った。
「どれ、蘭さん。好きなのを選ぶといいよ。へへ、よかったら、おいらに買わせておくれよ。わらじの銭が入って、懐があったかくなったからさ」
「いえ、そのような」
などと白蘭は遠慮の芝居をしたものだが、やがて、赤石の飾りのついた櫛を選んだ。
清次郎は財布を出して銭を払うと、笑顔で言って、その櫛を渡してきた。
「ほら、きっとよく似合うよ、蘭さんに」
(あーあ、そんなに浮かれちゃってさ。後から驚かすのが、よけい楽しみじゃないの)
そんな風に思いながら、白蘭は櫛を髪に差し歩いた。
* * * *
横丁の茶店の近くを通りがかったとき、白蘭はふと、道に面した席に汚らしい浪人を見つけた。
浪人の髷は乱れ、髭は伸び、険の深い目元は黒ずんでいた。台には銚子と漬物が置かれ、右手には盃があった。
「嫌だねえ、蘭さん。目を合わせちゃいけないよ」
と清次郎が言った。
「そうですね。そうしましょう」
と白蘭は茶店を横切ろうとした。
「これ、そこな
白蘭は思わず足を止めた。どうやら浪人が呼び止めてきたようだ。振り返ると、浪人は銚子を右手ににやついていた。
「やはり、なかなかの器量ではないか。ひとつ、この俺に酌でもしてゆかんか。ほれ」
すると清次郎はかばうように、
「ご無体な……。お侍様、そのような……」
「うるせえっ。俺は今日、博打でひどく負けて、苛立ってるんだっ。餓鬼は引っ込んでやがれ! ――さて、女子、俺が大人しゅう頼んでおるうちに、さ」
白蘭は内心でほくそ笑みながら、いかにも怯えるように、震える声で言った。
「お、お侍様。どうか、ご勘弁を……」
「貴様、話がわからんやつだな」
浪人は銚子を台にどんと置いて立ち上がった。ついで白蘭に詰め寄ると、白蘭の右手を掴んできた。
すかさず清次郎が割って入ってきた。
「お侍様。ご勘弁をっ!」
周囲ではざわめきが起こる。
浪人は左腰の鞘に右手を伸ばすと、太刀を抜いた。
「小僧、小癪を抜かしやがって!」
* * * *
浪人は日の傾きかけた峠の道をずんずんと進んでいた。
そんな心づもりで歩くうちに、妙な音を聞いた。――それは、甲高い笛の
(そうだっ。けっ。あのさっきの小娘みてえな、澄ました音じゃねえか)
浪人はやがて木陰に妙なものを見つける。それは、薄紅色の小袖だった。ひとりの娘――それも、見間違いでなければ、先ほど町で絡んだ、あの娘のようだ。
娘は蕾のような唇に小さな横笛をたくわえ、その笛を奏でている。
(なんでえっ。ここまで駆けて来やがったのか? とんでもねえ、早駆けの小娘がいたもんだぜ)
そんなことを思いながらも、別のことも考えていた。
(さて、こりゃいいや。担ぎ上げて人攫いにでも売っ払おうか。それとも…………)
ぎらついた目で娘に近づいてゆくと、娘はぴたりと笛を奏でるのを止めて、両手を下ろした。
「お侍様……」
浪人はぎょっとして、足を止めた。
「なんでえ。けったいな笛なぞ吹きやがって。――さ、家まで連れていってやるから、俺についてきなよ」
「いえ。結構でございます。それより、お侍様は、己のおもちゃを、奪われたことは、ございましょうか」
浪人は半ば耳を疑いながら、聞き返した。
「ああっ? なにを言ってやがる」
「己のおもちゃを、奪われたことは、ございましょうか? ――お侍様は、わたしの大切なおもちゃを、斬り捨ててしまわれました」
そこで浪人は寒気に襲われた。娘の目の色が、黒から黄色に変わりつつあったからだ。
「貴様、人間じゃねえなっ」
浪人は右手を伸ばして太刀を抜いた。質屋で買い叩いた安物だが、両手で数えるほどの人間は斬ってきた。しかし、足腰が震えて、ぴくりとも動かない。
「お侍様。笛の音は、お聞きになられましたか? このわたくしの笛は、
「し、知るかっ。な、なんだそれは……」
すると娘は目をいっそ
「獣どもを、操るのさっ。おまえの兄弟だろう? 山に巣食う、地を這う獣どもがねえっ。ヒヒヒヒヒヒッ…………」
そのとき、近くの草むらから唸り声がした。見ると、山犬が二匹、三匹と近づいてきていた。涎を垂らし、乱杭歯から舌を出し、目を金色に輝かせて。
* * * *
白蘭は遠い絶叫を背後に聞きながら、つぶやく。
「ああ、つとに、心地よく響くこと。絶叫ほど良い音の笛はないじゃないか」
西の空を見ると太陽は赤く潤み、鴉の影が横切った。
懐に手を入れて櫛を取り出す。――それは、清次郎が買ってくれた、赤石のついた櫛だ。
白蘭は山の崖下めがけて、櫛を持った手を振りかぶった。
――ほら、きっとよく似合うよ、蘭さんに。
ふとそんな声が聞こえた気がして、手を止める。櫛を懐にしまって、次なる町へと歩き出す。
猪でも見繕って、あたしを運ばせるとしようか。それとも、大鷹を何羽か喚んで空を運ばせるか。いや、鳥なんて。あの陰気な蒼玉みたいで癪ね。
そんなことを想いながら、両手を上に伸ばして、あくびをする。
「ああ、退屈なこと」
断章ノ参 白蘭 おわり
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