三毒記 断章
浅里絋太
断章ノ壱 蒼玉
一刻ほどして目覚めたときも、まだ夜は深かった。
もしかしたら、もう二度と朝がやってこないのではないか、などと弥五郎は思いはじめた。
そのとき、頭上から迫ってくる妖の気配があった。
耳を澄ますと、羽音が聞こえてきた。
鷹か鷲のそれのように重々しい羽音は、夜空の向こうから迫ってくる。
すかさず弥五郎は岩棚から退き、近くの木の影に隠れた。
星と月の光だけを頼りに、その生き物を見つめていた弥五郎は、心底驚愕した。
巨大な鷲のような胴体に、いやに不釣り合いな具合の頭がついているのだ。
それは、通常の人間の倍はあろうと思われる、老人の頭だった。
老人の頭を持った鷲は、ものものしい音を響かせて岩棚に降り立つと、低くしわがれた声を発した。
「わしは天翁というものじゃ。この声を、聞いておるか、小僧。……我が主であらせられる、蒼玉さまの命で、いざ、迎えにきたのじゃ。出てまいれ。弥五郎、という名前のはずじゃが……」
弥五郎は木陰でうずくまったまま、鎮まる気配のない胸を手で押さえた。
やがて、天翁は翼をばさりと羽ばたかせて、弥五郎が隠れている木の方を向いていった。
「迎えにきたのじゃと、いうておろう。害しはせぬわ。――よいか、うぬは、このような山村で、隠れていてよい存在ではないのじゃ。それに、平穏に暮らそうにも、妖が放っておかぬわ。うぬは、この地に溢れる妖をたんと見てきたのだろう。すなわち、妖どももうぬを見ておる。さながらに、蚊の群れに裸身をさらすがごときもの。いずれ、うぬは妖に骨まで喰われるであろう」
弥五郎は、天翁の言葉に震え上がった。
「三毒が姉妹の長女、蒼玉さまが、うぬをお呼びじゃ」
弥五郎は『蒼玉』という名前に、聞き憶えがあった。
その名を最後に聞いたのは、今年の秋のことだった。
村の老婆が子供や若者を集めて、話を聞かせてくれることがあるのだが、このときも弥五郎をはじめ、二人の若者と、十人ほどの子供が集まっていた。
昔話も佳境になると、老婆は決まってこの話をした。
『
* * *
弥五郎が目覚めると、蒼玉は細かなほこりの舞う家の中で、忌々しそうに太陽を睨んでいた。
「目覚めましたか」
蒼玉は振り返って、そういった。
弥五郎は上体を起こして、はい、とだけいった。
寝具をたたんで、身支度を整えて、弥五郎は家をでた。
義兵衛に礼をいって旅立つつもりで、彼らの家に向かうと、外にはおみちと、息子の竹蔵がいた。
二人とも農作業の支度をして、田に向かおうとしている様子だった。
どことなく殺伐とした雰囲気に、弥五郎はためらった。
本来は進んで人に話しかける性格ではなさそうな蒼玉だが、こんな状況では仕方がないと思ったのか、おみちに声をかけた。
「おはようございます。――食事から寝床までお世話を頂き、おありがとうございました。弟も体調が戻ったようですので、わたしたちは、そろそろ発とうと思います。義兵衛さんにごあいさつをしたいのですが」
するとおみちは狼狽した様子で、
「お心くばり、ありがとうございます。主人は手が離せませんので、あとでわたしの方から伝えておきます」
といった。
弥五郎は他意もなく、ただ、閉ざされた家の戸が気になって、近づいていった。
すると、おみちは慌てて弥五郎の肩を掴んだ。
「いま、立てこんでおりますゆえ、ここでご勘弁ください」
「せめて、楓さんにごあいさつを。……家の中にいるんでしょうか」
「いえ、おりません。主人と楓は、一足早く田の世話にまいりました」
そのとき、家の中から男の声がした。
「魔よ、去れい!」
同時に、鈍い音もした。
木の棒かなにかで、肉の塊を打つような音だった。
すると、女の細い悲鳴も響いてきた。
弥五郎は戸に近づいて、手をかけた。
するとおみちの腕が、引き留めてきた。
「いけません。どうか、村から、お立ち去りください」
そのとき、なにもしゃべらなかった竹蔵が、ぶっきらぼうにいった。
「姉さは淫乱だから、親父に懲らしめられているのさ。けっ。打つ方も、打たれる方も、どっちにしたって、獣さぁ。たまんねぇよ。――おれは、しってるんだ。姉さは、打たれるほど喜んで、獣みてぇな声を上げるんだぜ」
おみちは竹蔵をにらんだ。
竹蔵は我存ぜぬといった顔で、鍬をかついで歩いていった。
弥五郎は、どうすべきかわからなくなり、蒼玉を見た。
「もう行きましょう、先が長い旅です。邪魔立ては無用です」
というなり、蒼玉は背中を向けてしまった。
しばらく黙っていた弥五郎の脳裏に、ふと楓の顔が浮かんできた。
弥五郎は振り返って、戸にしがみついて、力まかせに押しこんだ。
すると戸が家の内側に倒れ、弥五郎は勢いあまって前方に倒れこんでしまった。
そこで顔をあげたとき、弥五郎はその儀式を目の当たりにした。
薄暗い家の奥には、裸の楓が吊るされていた。
梁に通された縄は楓の体に向かって収束し、楓の全身を戒め、その体を空中に持ち上げていた。
後ろ手に縛られた楓は、無数の痣を肌に焼きつけ、呆然とした表情をしていた。額と爪先からは、光る濁った汗がしたたっていた。
弥五郎は、眼前の情景を夢の中のできごとだと思いたかった。
しかし、縄の毛羽立った表面や、梁が軋む音は、明晰な現実を弥五郎に押しつけた。
「いやっ、見ないで。弥五郎さん、出ていって! ああ、いけないっ」
楓の前には、すりこぎを手にした義兵衛が立っていた。
それらの光景の中でもっとも弥五郎を戦慄させたのは、義兵衛の下穿きの、不自然な膨らみだった。
義兵衛は黙したまま、額に皺を寄せ、憎しみの視線を向けてきた。
すると弥五郎は、背後から抱きかかえてくる腕に捕えられた。その腕はおみちのものだった。
「出ていってください。さあ!」
引きずられるように連れだされていく弥五郎が最後に目にしたのは、義兵衛が腕を伸ばして、楓を引き下ろそうとする光景だった。また、その姿だけが弥五郎にとっての慰めだった。
おみちは弥五郎を引きずりだすと、倒れた戸を起こして、再び家の中を隠した。
弥五郎は地べたに座りこみ、放心状態のまま、おみちを見上げた。
おみちは憔悴した表情で荒い呼吸をしていた。
蒼玉を見ると、しばし離れた場所で、憮然とした表情をしていた。その上、唇の端が吊り上っているようでもあった。その表情はまるで、一連のできごとをあざ笑い、面白がっているようでさえあった。
『愉快なこと、この上ない一家ですね』
そう聞こえてきてもおかしくない、冷酷な表情をしていたのだ。
弥五郎は胸の奥から込み上がってくる吐き気をこらえ、おみちによって閉ざされた戸を見あげていた。
しばらくすると、戸が勢いよく開き、中から乱れた髪に紺色の着物を羽織った、楓が飛びでてきた。
目には光がなく、青白い顔をしていた。
「楓さんっ」
思わず弥五郎はつぶやいたのだが、振り向かずに楓は去っていった。
* * *
ほんの束の間、弥五郎は夢を見ていた。
薄暗い世界の中で、何羽もの大きな鳥が、頭上で声を上げている、という夢だった。
ひびいてくる啼き声は、小鳥のものよりも、太く低いものだった。
そのうち、鳥たちは一斉に、ある一点を目指して降下していった。
弥五郎が目を開けたとき、はじめに星が目に入った。
北辰が連なり光たっていた。
細かな星々が、呼吸をするかのように、ゆっくりと明滅していた。
弥五郎が上体を起こすと、脇に蒼玉が立っていた。
「あなたを死なせるわけにはいかないのです。姉妹たちに、なんといいわけの立ちましょう」
それから蒼玉は周囲を見まわして、いつになく興奮した様子でいった。
「それにしても、このような瘴気の溜まりは、人の身に毒です。それにわたしは……。飢えていることを思いしらされます。この瘴気は、村の方たちの、欲望の残滓が溜まっているようですね。……ああ、わたしは飢えている。欲望、そのものの重さに」
どう答えたらよいのかわからず、弥五郎は蒼玉の視線から逃れ、辺りに視線を走らせた。まだ行燈は片隅で光を放っており、やや離れた場所にいる楓の姿を茫と照らしていた。
楓は背を丸めて、瀕死の動物のように覚束ない足どりで、近づいてきていた。
そのとき、蒼玉から甲高い音がした。――口笛のようだった。
すると頭上から二羽の梟が飛んできて、楓の頭に襲いかかった。
蒼玉がもう一度口笛を吹くと、今度はさらにもう一羽の梟が、楓の頭を襲った。
三羽の梟は楓から付かず離れずの距離で、頭や肩を爪でひっかいては、また飛びのくといったことを繰り返した。
たまらずに弥五郎はいった。
「蒼玉さま、もう十分です。止めさせてください!」
「しかし、あの娘はまだ、向かってこようとしているように思われます」
そのとき弥五郎は、唸り声を聞いて楓を見た。
楓は赤黒い血潮を頭や顔や手に垂らしながら、恨みがましい声を上げながら、なおも弥五郎に向かって歩んでこようとしていた。目を吊り上げ、めくれた唇からは噛みしめた前歯をのぞかせ、野犬のような唸り声を上げて迫ってくるのだ。
相変わらず三羽の梟は夜気の中を舞い、翼を激しくはためかせて楓を襲い続けた。
やがて楓は膝を折り、頭を押えてうずくまった。
「楓さん! 大丈夫ですか?」
自分でも気がつかないうちに、弥五郎は楓に向かって駆けだしていた。
「いけません。まだ離れていなくては」
蒼玉の声がしたが、それに構わず、弥五郎は近づいていった。
そのときだった。
楓はがばりと体を起こし、頭上へ迫っていた二羽の梟を血走った目で見あげた。
すると楓は両腕を突きだし、両手で梟を一羽ずつ捕えてしまった。
三羽めの梟が頭上に襲いかかるのだが、梟を握ったままの楓は宙返りをしてそれをかわした。
弥五郎は踏みとどまって、目の前の妖女を見据えた。
楓は三羽めの梟の頭を顎にくわえ、両腕の梟を絞めながら、真っ赤な目から血をしたたらせて立っていた。
両腕を振り上げた楓は、まずはじめに二羽の梟を胸の前でぶつけ、そのまま押しつぶし、足元に捨てた。次に頭の潰れた梟を吐きだすと、弥五郎へと視線を向けてきた。
楓は嬉々とした表情に、優しげな笑顔を浮かべていった。
「耕四朗さん、そこにいたのね。もうわたしは、離れませぬ。わたしは、あなたを手に入れるの。ああ、あなたが、狂おしいほど、ほしい」
弥五郎はおそろしくなって後退した。
そのとき、辺りに異質な気配が迫ってきていた。
「楓さんの心に呼応して、瘴気が動きだしたようですね」
いやに冷静な、蒼玉の声がした。
行燈に何者かの脚が当たって、ふつ、と光がうせた。
どうやら、狼か山犬のような形をした黒い塊が、無数に生まれてきているようだった。
唸り声が周囲の闇から低くひびいてきていた。
腐臭が立ちこめ、石や岩を踏む足音が、かつかつと取り囲んできていた。
すでに辺りは闇に包まれていたが、弥五郎は月明かりに目をこらして楓を見た。
楓はやや離れた位置で、状況を静観しているようだった。
(おいらを耕四朗さんという人と取り違えているんだとしたら、きっと、狼に食い荒らされたあと、その遺骸とでも交わろうとしているんだろうか)
そんな風に考えると一層、辺りの闇がおそろしく重いものに思われてならなかった。
そのうち、一匹目の狼が飛び掛かってきた。
弥五郎は腰を落としてなんとか飛び掛かってきた狼の頭を押しのけて、尻もちをついた。
口の中を真っ赤に染めた狼は、再び白い牙を剥いて飛び掛かってきた。
しかも、右方からもほぼ同時に、別の狼が襲いかかってきたのだった。
弥五郎は両腕を突きだすのだが、むなしい抵抗にほかならなかった。
右腕と左脚に喰いつかれた弥五郎は、仰向けになって、冷たい岩場に転がった。
そのとき、右腕に喰いついていた狼が、後方に吹き飛ばされて情けない声をあげた。
どうやら、蒼玉が蹴り飛ばしたようだった。
すぐさま弥五郎は左手の近くにあった岩を持ちあげ、脚に喰らいついていた一匹の頭を何度も殴りつけた。すると狼は牙を外して飛び去った。
脚からはとめどなく血が流れていく。辺りにはなおも狼たちの唸り声が取り巻いていた。
そのとき、弥五郎がはじめて聞くほど、蒼玉は荒々しい声を発した。
「六、七、八匹……。これは、いけませんね。十匹はいるかもしれません」
蒼玉は飛び掛かってきていた一匹の狼を振り払い、懐の奥に右手を入れた。――そこで取りだしたのは、弥五郎にも見憶えのある、通常よりも大きな黒い鈴だった。
よく聞いてください、と蒼玉は早口でいった。
「かがみこんで、わたしの足元にしがみついてください。決して、なにがあっても、離れないでください。いいですね」
* * *
そのときに起こったことを、弥五郎は正確に記憶していなかった。
ただ、断片的にではあるが、いくつかの情景を思いだすことはできた。
頭上で繰り返し鳴りひびく、鈴の音。
死者のように冷たい、蒼玉の脚。
獣どもの鳴き声。
周囲に突如現れた、巨大な黒い壁。
おそらく、周囲に黒い竜巻のようなものが生じたのだ。
渦は蒼玉を中心に突きあがる。
すべてが呑みこまれる。
岩や草、獣もすべて。
あるいは星も、月も、銀河も。
終わらない鈴の音。
繰り返し、高く、あるいは低く。
自分自身の叫び声。
楓の叫び声。
蒼玉の喜悦の声。
おそろしい声。
満たされた少女のように。
蒼玉は渦の中心で
弥五郎は蒼玉の脚にしがみついて、放心状態で座りこんでいた。
しばらく弥五郎は、なぜ、なんのために、蒼玉の脚などにしがみついていたのか、思いだせなかった。
「もう、大丈夫ですよ。放してください」
頭上からは小石や草のかけらが絶えず落ちてきて、弥五郎の頭や肩に当たった。
足腰に力が入らず、しばらく弥五郎は口もきけなかった。
蒼玉は鈴に木綿の塊のようなものを詰めて、懐の奥にしまった。
「どうやらあなたを、ずいぶんと驚かせてしまったようですね。――されど、驚くにはおよびません。ゆめゆめ、忘れないでいてください。わたしが、三毒が長女、蒼玉である、ということを」
夜はまだ深く朝日の気配はなかった。
弥五郎は心配になって、蒼玉に尋ねた。
「ところで、もしかして、楓さんは……」
蒼玉は細い指先をぴんと伸ばして、大きな岩に向けた。
「おそらく、あの陰に隠れているのでしょう。渦を放ったとき、隠れるのを見ました」
そのとき弥五郎は、非難がましい視線を蒼玉に向けた。
(楓さんが岩に隠れなければ、あの、おそろしい渦の中に、吸い込んでしまうつもりだったんだろうか……)
弥五郎は岩に駆け寄って、影にうずくまっている楓の姿を見つけた。
朝日が昇るころ、楓は意識を取り戻した。
弥五郎は楓の肩を支えながら、村に向かって歩いていった。
その道すがら、先頭をいく蒼玉は、控えめではありながら、こんなことを語った。
「楓さんの体に積もっていた瘴気は、いまの時点においては、大方が吐きだされたようです」
「そうですか、わたしの体には、やはり」
楓はそういってうつむいた。
「楓さんは、おそろしく強い霊感を持っているのです。今までと同じような生活を続けていたら、瘴気を吸いこんで、すぐに心の中の《淫魔》がよみがえることでしょう」
その言葉に、弥五郎の背筋が凍った。
楓に対して、淫魔の出どころが自分自身の心であることを、突きつけているように思われたからだ。
そのとき楓は、しばし足を止めて震えた。
蒼玉はなおもいった。
「おのれの影を、きらいますか。それもひとつの生き方でしょうね。しかし、楓さんのように霊力の強い者は、苦しみますよ。主として力は、影の方に流れていきますゆえ。――昔、
思わず弥五郎は蒼玉をにらんだ。
「いまは、もうやめませんか。――結局おいらはなにもできず、蒼玉さまが救ってくださったようなものだから、生意気なことをいえる立場にありませんが」
蒼玉は冷めた目つきでいった。
「なにもできなかった。――そうですね、おそらくは。……しかし、勇気はあったといえるでしょう。それを運命に支払い続ける限り、人間はおのれ自身に近づくことができるでしょう」
そういって、蒼玉は先を歩いていった。
断章ノ壱 蒼玉 おわり
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