第六話 生命の泉水
ドレス姿の女性に手を引かれ、ロレッタは白く輝く砂浜を歩いて行く。
相変わらずさっぱり理解はできないし、不自然極まりない状況ではある。
だが、他に何かアテがあるでもなくロレッタにできる事も限られていた。
ロレッタは大人しく女性に手を引かれてその後に従った。
さく、さく、と二人で砂浜を踏み締める音が涼やかな波の音に重なる。
(それに、なんだか……)
なんだか──この女性と触れ合っていると、ひどく気持ちが落ち着いた。
「ねぇ、貴方、名前はなんというの?」
不利に女性がにっこりと笑みを浮かべ、こちらを振り返って尋ねた。
「あっ、えっ、えーと、ロレッタ……。ロレッタ・カドゥム、です、けど……」
「ロレッタかあ。私はロレーザ。よろしくね」
「はあ」
さっきは時間がないと言っていたけど、女性は随分とのんびりしている。
実は、何処に向かって歩いているかもロレッタにはよく分かっていなかった。
自分たちの行く手には、延々と波の打ち寄せる白い砂浜が続いている。
「ひょっとして、あたし、夢でも見ているの?」
思わずロレーザと名乗った女性に尋ねると「あはは」と彼女はあっけらかんとした笑い声を上げた。
「まあ似たようなものかもねぇ」
「どうすれば目が覚めるの?」
なんだか──今すぐ目を覚まさないと酷いことになるような、そんな気がするのだけれど。
「今、その為に私の騎士を探しているわけで」
「その人を見つけたら、元の場所に戻れるの?」
そう言うと、ロレーザはきゅっとロレッタの握り締めた手にわずかに力を込めた。
「それは、あいつ次第、かな」
要領を得ない返答に、ロレッタは重ねて尋ねようとした。
だが、ロレーザはにこっと振り返って、前方を指差す。
「ほら、噂をすれば、そこにいた」
ロレッタが驚いてロレーザの指差す先を見ると、波打ち際に呆然と座り込む、一人の女騎士の姿がそこにあった。
〇
波打ち際に座り込み、半身を打ち寄せる波に浸かっていたその女騎士。
舶刀を腰に差し、青みがかった銀色髪がうつむいた顎の先に揺れていた。
その女性の姿はロレッタには見覚えのないもののはずだった。
しかし──ロレッタにはそれが誰だか分かった。
「ティア……?」
女騎士──ティアは自分の半身に打ち寄せる波を忘我の顔付きで見ていた。
ロレッタはその
間違いない。元の──人の姿をしているティアだ。
それでも彼女はまるで波間に打ち捨てられた人形のように、無表情で海を見詰めていた。
「ティア、あんた、どうしちゃったのよ……?」
ロレッタはそっと彼女の肩を揺すってみたが、ぐらぐらとその首が傾いだだけだ。
切れ長の目の精悍な顔立ちをした騎士は、陶器の人形のように眉一つ動かさない。
「何があったの?」
すがるようにその手を握り締めて尋ねても、ティアは声一つ発さないで──
──「ちょっと、ごめんね」
「えっ?」
不意に横からロレーザがティアの肩をつかんだ──と、思う暇もなく、ロレーザは思いっきり平手で、ティアの頬を張り飛ばした。
ばしゃん!と盛大に音を立ててティアが背中から打ち寄せる波に沈んだ。
「……ぶはあっ!?」
さすがにそれには無反応でいられなかった様子で、ティアがずぶ濡れになって体を起こし、何度も目を瞬いていた。
次第に、その切れ長の瞳に色が──くすんだ蒼い光が宿った。
「だっ、大丈夫、ティア?」
ロレッタが慌てて助け起こすと、ティアは大きく見開いた目で食い入るようにロレッタの顔を見詰めた後、こちらの名を呼んだ。
「ロレッタ?」
それが、初めて聞くティアの肉声だった。女性にしては少しだけ低い。
〈
「えっ、なん……?此処は、どこだ……?」
先ほどまでのロレッタと同じく、状況がつかめない様子で困惑して辺りを見渡す、
元の姿のティアは、ふと波に濡れる自分の手を見下ろして、驚いていた。
「どうして?私の体が、戻って……?」
澄んだ色をした波の間から、雫を垂らしてティアが自分の手を持ち上げた。
確かな肉体を持ち、血の通った自分の体を見下ろし、ティアはこれ以上ないほどに目を大きく見開いた。
そこへ、ぱしゃぱしゃと波を踏む音を立てて、ロレーザが近づいてきた。
「ティア」
その、涼やかな声を聞いて、ティアは呆然とした表情で顔を上げた。
「ロレーザ……殿下……?」
波打ち際に手を突いたティアは、呆然としてロレーザの顔を見上げていた。
かすれたような声がその唇から漏れた。
「姫様……」
〇
ロレッタは、互いに見詰め合うティアとロレーザの二人を見比べた。
「え?じゃあ、この人……」
ティアが人の肉体を失う前に、遥かな昔に仕えていたという国の王女。
ロレーザの正体がそれと悟って、ロレッタは息を呑んで二人の再会を見守った。
「ようやく、来てくれたわね。この場所に」
「こ、ここは……」
穏やかに打ち寄せる波と無限に続く白い砂浜を見渡し、ティアはうつむいた。
「ひょっとして、死後の世界……なのですか?」
「そうだったら、話はもっと単純だったのだけどねぇ」
ティアと言葉を交わしたロレーザは形のいい眉をしかめた。
そして、両手を腰に当ててティアの顔をのぞき込む。
「ねぇ、貴方は覚えているかしら?私たちの見つけたあの薬──〈生命の泉水〉」
「それは……ええ、はい。忘れるわけがありません」
ティアは眉間にしわを寄せて、白く泡が立つ波を見下ろした。
「その為に、私の体は溶けて……二度と戻らなくて……」
「貴方だけの体じゃない」
「えっ?」
「貴方のあの体は、貴方だけが溶けてしまったものじゃない。あの日、あの嵐の最中に命を落とした人々──敵味方問わずに海に溺れた人々」
ロレーザはまぶたを閉じ、その手を日の光にかざしてみせた。
彼女のほっそりとした手が光に透けて、水の輝きがきらめいた。
「その全ての人々の命が溶けあって出来た肉体なのよ」
それを聞いて、ロレッタもティアも言葉を失ってロレーザを見た。
〇
「ティア、私たちは此処から、貴方の内から見ていたわ。そして多くの者が貴方の力となることを選んだの。私をはじめとしてね」
ロレーザは微笑み、砂の上に膝を突いてティアの手を労うように握った。
「じゃあ……私の、〈
「あの嵐で死んだのは人間たちだけではなかった。私たちと運命を共にした多くの〈水精霊〉がいたでしょう?」
「しかし、しかし……どうして、そのような……」
ティアが困惑して問うと、ロレーザがきゅっと唇を引き結び、表情を改めた。
「それこそが〈生命の泉水〉と呼ばれるあの霊薬の真の効用だった。多くの人の命と魂を水を介して繋ぎ合わせ、一つの存在と成した。……不老不死と言われたのは、多くの命がその水の体の中で巡り、力と生命力を増す為に表向きそう見えるだけ」
「そんなの……」
ティアはうつむいて、波に濡れた砂を拳で握り込んだ。
「残酷なことなのでは、ないですか?」
「そうね。この霊薬を作った魔導士は何を考えていたのか知らないけど、随分と自然の摂理に反したものを作ったわね」
ロレーザは腰に手を当て、深々と息を吐いた。
「でも、今そのことを論じてもしょうがないの」
そう言って、ロレーザは改めてティアとロレッタの二人を交互に見比べた。
「……まあ、今後のことはティアによくよく考えてもらうとして、ひとまず貴方たち二人を、元の場所に戻さないとね」
「元の……?」
ロレーザの言葉に、ティアははっとして立ち上がった。
「そうだ……!〈
ティアがロレッタを振り返り、真剣な表情を浮かべる。
その真剣な態度にロレーザは満足げにうなずいてティアと共に立ち上がる。
「そうね。あんたはあの卑劣な海賊をぶっとばしてやりなさい。完膚なきまでに」
「それは……そうです。そのつもりです。だが、ロレッタが……」
ティアはうなずいた後、苦渋の表情を浮かべてロレッタを見詰める。
すると──ロレッタの横に立ったロレーザが、おもむろにその手を握り締めた。
「安心しなさい。ティア」
「ロレーザ殿下?」
「貴方の体の中で、私たちの命は巡る。そのことを理解した今、貴方はロレッタに何をしてあげればいいか分かるはずよ」
そう言って、ロレーザは近しい者に接する、にこやかな笑みを見せた。
「私がこの子と一緒に行くわ。それなら、この子も脱け出せるはずだから」
**
水塊の怪物に破壊し尽くされた海賊船は、今にも海に沈み込もうとしていた。
「ティア……!」
コーネルは暴れ回る水塊の怪物を見上げて、歯噛みをした。
「やむを得ん。レンシ!ハルル!俺たちもこのままこの場を離れ……っ!?」
魚人種二人の兄妹を振り返り、この場を放棄して逃げる判断を下そうとした瞬間だった。
コーネルの目の前で、水塊の怪物はぴたりとその動きを止めた。
何が起こったか確かめようと、レンシとハルルと共におそるおそる目を向けた。
その時──
水塊の怪物が、ばしゃりと激しい水音を立てて弾けた。
「うおお!?」
今にも崩れ落ちそうな甲板の上から押し流されそうな激しい水流が起こる。
コーネルは辛うじてレンシとハルルの二人に助けられて水の流れに抵抗した。
「な……何が起こった……?」
全身ずぶ濡れになりつつ、コーネルはレンシたちに助け起こされ、そして見た。
甲板の上に、元の人の形を保つ姿に戻ったティアがいた。
彼女はその膝の上に、慈しむように一人の少女を寝かせて、その顔に手で触れている。
ティアの指先から一滴、水の塊がしたたり落ちる。
その一滴は、まるで一つの意思が宿っているようにロレッタの頬を滑り、その唇に流れ込む。
そうすると、ロレッタがかすかな身じろぎをして──ぱちりと目を見開いた。
「マジかよ……」
「ロレッタ!」「船長!」
コーネルはずぶ濡れのまま呆然として口をぽかんと開いた。
レンシとハルルの兄妹が、今にも沈没しそうな海賊船の上で、二人を助けようと駆け寄っていく。
彼らの視線の先で、ティアは慈しむようにロレッタの頬に触れる。
彼女の顔の澄んだ水面を見て、ロレッタはまぶたを閉じ小さくうなずいていた。
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