第五話 猛り狂う水の獣

 **


 ティアは痺れる体で身動きの取りようがなく、ただ見ているしかできなかった。


 〈傷痕の男スカー〉が素早く甲板に落ちていたナイフを拾い上げ、ロレッタに投げた。

 その刃がロレッタの背中を刺し、彼女が血を流して海の上へ落ちていく。


 その様を。


 「ロレッタ……!」


 ティアは自由にならない体を懸命に動かした。

 ロレッタの後を追って手摺を乗り越え、海の中へと飛び込む。


 「ぐっ……くっ……‼」


 光の差さない真っ暗な海の中に沈み込んでいくロレッタの姿、

 彼女を追ってティアも海中で必死にもがいた。


 (ああ、くそ……っ!ロレッタ!ロレッタ……!)


 真っ暗な海の底へと沈んでいく少女の体を無心に追いかけた。

 暗い海の中で、ティアの体は次第に海そのものと混ざり合い、膨れ上がって自由を取り戻し、戒めを解いていた。


 ティアは海そのものへと溶け出そうとする自分の手を伸ばした。


 (私のせい……私のせいだ!)


 ティアはぐったりとして沈み込んでいくロレッタの体をつかんだ。


 (守りたかった!……助けたかったんだ!私は……!)


 ティアの体が海の中で溶けだしていく。

 毒水を吐き出し、境界が曖昧になって、どこまでも自分の体が膨れ上がっていく。


 (私……わ、たし……は……!)


 目の前で抱え込む少女の顔に、いくつもの面影が重なる。


 この娘の母親だった女性。

 いつか揺りかごに眠る赤子に微笑みかけていた母親の顔。

 自分が見守ってきた一族の血を引く、女性たち。


 ──自分が心から忠誠を誓い、仕えた女性の顔。


 (わ、たし……が、こんな、すが、たに……なっても、守りたかっ、たもの……)


 海の中に自分の意識が溶け出していく。

 それでもティアはなおも懸命に、その少女の体を抱き締めた。


 **


 「レンシ!ハルル!船長と嬢ちゃんを!」


 船縁から海中に姿を消したロレッタとティアを見て、コーネルがとっさに魚人種の兄妹に呼びかけた。


 周りで海賊たちと格闘していた魚人種の兄妹も、ロレッタたちの姿を見ていた。

 二人ともすぐさま海に飛び込もうとしたが、海賊たちに取り囲まれてしまう。


 「くっ!」


 コーネルは魚人種の兄妹に助太刀に向かおうとしたが、その行く手を遮って突き出された舶刀カットラスの切っ先にたたらを踏んだ。


 「乗り込んできて、タダで返すわけがねぇだろうが?」


 〈傷痕の男〉がにたりと笑ってコーネルの行く手を塞ぐ。


 かすめただけで体を痺れさせる海蛇の毒の仕込まれた刃だ。

 コーネルは迂闊に踏み込めず、距離を取って逃れるしかなかった。


 「くそ……!嬢ちゃんは……船長は……!」


 コーネルは歯噛みする。

 ティアは海の中に逃れさえすれば、なんとかなるだろう。


 だが、重傷を負って海中に没したロレッタの方は深刻だ。


 このままでは──


 そう、コーネルが切羽詰まった状況に眉根を寄せた。


 その時だった。


 どすん!と、海賊船の船底がから何か酷く重量感のある、巨大な物で殴りつけられたような衝撃が伝わった。


 その場にいた全員の体が大きく左右に揺さぶられる。


 なおも続けざまに海賊船を何か巨大な衝撃が襲った。

 何人かの船員がなす術なく、暗い海の上へと投げ出された。


 不意に、ごおおおおおおっ!と海面が渦を巻くような唸り声が聞こえた。

 同時に船の横っ腹に高波のような飛沫が打ち付ける。


 「なっ、なんだぁ!?」


 〈傷痕の男〉が、巨大な『何か』が船腹をはい上がってくる振動に身を引く。

 その周囲の部下たちも、突然の出来事に怯んだ表情を浮かべていた。


 巨大な『何か』が甲板をめがけてはい上がってくる。

 その気配に、その場にいた全員が呆気に取られて見詰める先で──


 ──ごおおおおおおおおおっ‼


 巨大な水の塊のような化け物が、波が轟くような咆哮を上げ、甲板に姿を現したのだった。


 〇


 「こいつ……っ!」


 めりめりと甲板を破壊しながら船上へ乗り込んでくる、水の塊が形を成した巨獣。

 その姿を見上げて、〈傷痕の男〉が驚嘆の声を上げる。


 だが、水塊の怪物は委細いさい構わず、海賊船の船上にある物、全てをなぎ払わんとして腕を振るった。


 圧倒的な質量を伴った水の塊が横薙ぎに振るわれる。

 船上にある物が何もかもが、べきべきと凄まじい破砕音を立てて砕け散る。


 コーネルたちもとっさに身を伏せて難を逃れた。

 自分たちのすぐ頭上を轟音と共に水の塊が通り過ぎていく。


 次の瞬間、何もかもが粉砕されるような凄まじい衝撃と、轟音が甲板を揺らした。


 「ど、どうなった……?」


 衝撃と音が収まり、コーネルが手で頭をかばいつつ顔を上げる。


 水塊の怪物のなぎ払いの一撃で、船上は壊滅的な被害を受けていた。


 甲板の上が水浸しになっていた。

 その上に、海賊たちが何人も折り重なるように倒れているのが見えた。


 マストが根元からぽっきりと折れていた。

 大砲の一斉射撃を受けたように何もかもが破壊し尽くされた惨状に、コーネルも言葉を失った。


 たった一撃で圧倒的な破壊をもたらした水の塊の怪物を、コーネルは見上げる。


 「船長……ティア、なのか……?あれは……」


 怪物はその透明な体の内に何かを取り込んでいた。

 コーネルが目を細めて確かめると、それは人間の少女──ロレッタだった。


 ──「……はっ、こいつぁいい」


 怪物の重みで今にも傾き沈みそうな船の上で、しわがれた声が響き渡った。

 コーネルが振り返ると、〈傷痕の男〉が額から血を流し若干よろけつつも、木片の散乱する船の上に立っていた。


 「ようやっと似合いの姿になったなぁ、『水堪り』がよぉ……」


 「ひひ……」と荒い息を吐きながら笑う〈傷痕の男〉を振り向き、水塊の怪物が頭部と思しき部分をがぱりと大きく口を開いた。


 ごおおおおおおおおおっ‼


 そこから逆巻く波のような飛沫と、全てを吹き飛ばしそうな咆哮が上がった。

 そのまま水塊の怪物は大きく片手を振り上げた。


 「おっと!」


 大槌のように力任せに叩きつけられた怪物の拳を〈傷痕の男〉は間一髪でよけた。

 怪物の殴りつけた船体に大穴が空き、そこから水柱が噴き上がるのを見て〈傷痕の男)はよろけながら、じりじりと退いていく。


 「……とはいえ、さすがにこいつぁ潮時だな。この場は逃げるに限るぜ」


 自我を失い暴れ回る怪物を見上げて、〈傷痕の男〉は素早く船尾へと駆けていく。


 「くそっ……!待て!」


 コーネルはその背を追いかけたが、怪物と化したティアが暴れ回る震動に足を取られ、つんのめって倒れ込む。

 どうにか、辛うじて片手を突いてコーネルは体を支えた。


 海賊船は破壊しつくされ、とても立っていられないほどの勢いで傾いていく。


 〈傷痕の男〉がボートに乗り込み、自分一人で真っ暗な海の上へと漕ぎ出す姿が見えた。コーネルは歯噛みをする。


 〈傷痕の男〉を取り逃がしてしまった。


 だが──今は、それより──


 「ティアを……なんとかできねぇのか!?」


 なおも猛り狂う水塊の怪物の姿をコーネルは振りあおぐ。

 このままでは海賊船は海の藻屑と化し、自分たちも巻き込まれてしまう。


 レンシとハルルの魚人種の兄妹がコーネルを助け起こし、じりじりと退いていくが彼らにも狂乱するティアを止める術はないようだ。


 全員がなす術もなく見上げる先で、なおもティアはロレッタを内に抱えたまま暴れ狂う。


 海賊船は破壊し尽くされ、海へと沈んでいこうとしていた。


 **


 ロレッタは、ふと目を覚ました。

 そして、自分が何処か見知らぬ砂浜に立っているのに気が付く。


 「……あれ?ここ、どこ?」


 眩しいほどに白い砂浜には、波が穏やかに打ち寄せている。

 ロレッタはきょろきょろと辺りを見渡したが人の気配はない。


 真っ青な空の下、遠く水平線が見える大海原にはこの島以外に陸地は見えず、まるでこの場所以外の陸地はこの天と海の狭間にないように思えた。


 いまいち、どういう状況かつかめない。


 ロレッタは他にどうしようもなく、その白い砂浜を歩き始めた。


 無人の孤島か何かだろうか。

 砂浜から島の奥へ目を向けると、豊かな緑に溢れた密林が見えた。


 「ねえ!誰かいない!?」


 もしかして、自分以外にも誰かこの砂浜に流れ着いていたりはしないだろうかと考えて、ロレッタは声を張り上げた。


 だが、自分の声は打ち寄せる波の音にかき消えていく。


 此処には自分以外の誰もいないのだろうか。

 ひょっとして──この砂浜だけでなく、この世界の何処にも、自分以外の誰も存在していないのでは。


 世界に取り残されたような圧倒的な孤独感が、ロレッタの背中に忍び寄って──


 ──「あらら、こんな小さな子がこの場所に迷い込んできちゃったの?」

 「わああっ!?」


 突然、誰もいなかったはずの背後から女性の声がした。

 ロレッタは反射的に湿った砂の上で飛び上がった。


 声のした方を振り返ると、自分以外に誰もいなかったはずの砂浜に、美しいドレス姿の女性が立っていた。


 「だっ……誰!?」


 先ほどまで無人だったはずのその場に突然現れた女性に、ロレッタは思わず砂の上を後ずさって見上げた。

 すると、この場に似つかわしくないドレス姿の女性は困惑顔をした。


 「うーん、それを説明すると長くなっちゃうのよねぇ」

 「どういうこと?」

 「今はゆっくり事情を話している時間はないようだし……」


 女性はあらぬ方向を見上げて腕を組む。

 しかし、すぐにロレッタを振り向き苦笑を浮かべた。


 「まあ、今はひとまず、私たちで探しに行きましょう」

 「探しに行くって……誰を?」


 ロレッタが尋ねると、その優美な見た目に反して大らかな態度の女性は、大陸南岸の海のような碧の瞳を細めて、ほっそりとした手を差し出した。


 「私の騎士。真面目過ぎて困った奴なんだけどね、悪い奴じゃないから」

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