第三話 残虐なる者
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日が落ちて夜闇が辺りに満ちても、ティアは〈戦乙女号〉に姿を見せなかった。
雨風は小康状態を保っていたが、〈戦乙女号〉の船上は不穏な、冷え冷えとした沈黙に包まれていた。
「アルトー。夜になっても船長が戻ってこないのは、タダ事じゃないよ」
意を決したようにロッコが口を開いた。
じっと見上げる〈
「分かってる。だが……」
なおも
アルトーはなおも深いしわを眉間に寄せてロレッタを見下ろした。
「お嬢……」
「お願いよ、アルトー。ティアは……あたしの為に無茶をしたのだと思う」
そう言ってから、ロレッタはふるふるとかぶりを振った。
「ううん、今回のことだけじゃない。ティアはずっと、あたしと父さんを会わせる為に色々と無茶をしてきた。……あたし、それがずっと分かんなかったけど……」
「お嬢、ひょっとして、あの人のこと……」
アルトーが何か言いかけて、はっとして嘴を閉じた。
アルトーは、おそらく知っているのだ。
──ティアの過去のことを。
ロレッタは黙りこくったまま小さくうなずいた。
それで、ティアから過去を打ち明けられたことはアルトーに伝わったはずだ。
「だから、ティアが無茶をして危険な目に遭ってるのなら力になりたい。あたしだけ、こんな所で待っていられない」
「しかし、それは……逆にあなたに何かあったら船長は……」
そう言ってなおも判断がつかずアルトーは嘴を閉じた。
しかし、もう一人、こつこつと足音を立てて近づいてきた。
「……なら、俺が同行するのはどうだ?」
コーネルが
「コーネルさん……」
「レンシとハルルの二人に偵察してもらって、途中まで俺がボートでこの子と同行する。感付かれるギリギリの距離まで近づいた後は、レンシとハルルがこの子が船に忍び込むのを手助けする」
コーネルがじっと鋭い目で見据えるとアルトーは若干、
コーネルは濃い
「危険な状況なら、俺も船に乗り込む。船長ほどじゃないが、俺だって腕は立つからな。逃げる時間を稼ぐ程度なら、まあなんとかしてやるさ」
コーネルはふっと息を吐いた後で、アルトーに向き直った。
「お前の気持ちも分かるがな、アルトー、この子の気持ちも汲んでやれ」
「…………」
アルトーは羽を重ねるように腕を組み、目を閉じた。
しかし、しばらくして諦めたように大きく息を吐いたのだった。
〇
──「ロレッタ、私は正直、今でも君が行くのは反対だ」
ボートに乗り込むロレッタを見て、イシュマーが苦渋の表情を浮かべた。
ロレッタはその端整な顔をボートの上からあおいで、かすかにうつむく。
「ごめん。イシュマー。自分が無茶してるって分かるけど、でも……」
ロレッタはつい先日、甲板の上で語らったティアの姿を思い起こす。
ひたむきに、彼女なりに、自分を気遣ってくれていた。
それが分かって──ティアのことをこれまで誤解していた自分に気付いて、ロレッタだって、彼女を放っておけないと思ったのだ。
「あの人が危険な目に遭ってるの、黙って見ていられない」
「ロレッタ……」
「だから、ごめん」
そう言い残して、ロレッタはボートに乗り込む。
ボートは魚人種の兄妹が先導してくれる暗い海面の上へ漕ぎ出していった。
まだ白い波頭が立つ海を、ボートは気付かれないように明かりも灯さずに進む。
その船縁でじっと波の合間を見詰めていたコーネルが、ふと口を開いた。
「ロレッタとか、言ったか」
「……はい」
波の音の合間に聞こえる、低いコーネルの声にロレッタは背筋を伸ばした。
「俺は見ての通り、気を遣ったり気休めを口にしたりとかってのは、どうも性に合わない。だから、今の内にはっきり言っておくぜ」
コーネルは底光りする鈍色の瞳でロレッタを見詰めた。
「海賊船に乗り込んだ後、ヘタに立ち回ったら、死ぬぞ」
本当に容赦なく告げるコーネルの声にロレッタは息を呑んだ。
しかし、ロレッタはすぐに下腹に力を込めて、うなずいた。
「分かってます」
「何かあれば俺も駆けつけるとは言ったが、すぐに駆けつけられるわけじゃない。もしバレたら逃げ回るのでもハッタリをかますのでも、なんでもいい。とにかく時間を稼げ。……その働き次第で、お前と船長の未来が変わるんだ」
ロレッタはじっとコーネルの話に耳を傾けた後で、こくりと噛み締めるようにうなずいてみせた。
コーネルはそれを見届けた後で、ボートの進行方向へと向き直る。
だが、闇の中、ふとぽつりとつぶやくように言った。
「無茶はしなきゃならん。しかし、危ないと思ったらまず自分の身を守れ」
「……はい」
そう遣り取りをロレッタはコーネルと交わした。
すると、次第に夜闇の底に黒々とした船影とそこから漏れる明かりが見えてきた。
波間の上に揺らめく海賊船の船影に、ロレッタは思わず立ち上がる。
すると、波の間からレンシとハルルの魚人種の兄妹が飛沫を上げて顔を出し、ロレッタを振り向いた。
「ここからが本番だぞ、ロレッタ」
そう、コーネルが低く告げる声に、ロレッタもその顔を見返した。
〇
ぎりぎりまでボートで海賊船に近づいた後、ロレッタは波間から顔を突き出したレンシが「ロレッタ、ノッテ」と指差す、彼の背中につかまった。
彼の鱗の生えた肩にロレッタが手を回すと、ハルルがすいっと水面を滑るように近づいてきた。
「チョット、息苦シイカモダケド、見ツカルワケニイカナイカラ、ガマンシテ」
そう言ってハルルがぴたりと寄り添い、魚人種二人は波を蹴って泳ぎ始めた。
人間にはとても真似のできない、俊敏で静かな泳ぎで魚人種の兄妹は波間をかき分けていく。ロレッタは水に押し流されそうになるのを、ハルルに支えられて辛うじて耐えることができた。
二人のお陰で、またたく間に海賊船を見上げる位置に来られた。
ロレッタは波間に上下している海賊船の船腹の、わずかな凹凸に手を掛ける。
するとレンシが背中からロレッタを押し上げてくれた。
ロレッタは心配そうな顔をした魚人種二人の姿を振り返った。
「危ナカッタラ、スグ、飛ビ降リテ」「私タチガ下デ受ケ止メルヨ」
レンシとハルルの二人が心配そうに告げる言葉に、ロレッタはうなずき返す。
だが、もう後は振り返らない。素早く海賊船の船腹を両手足を使ってよじ登った。
甲板に近づくと、大勢の海賊がいる気配を感じた。
息を殺してロレッタは気付かれないように、船縁から甲板をのぞき込む。
そこに広がっていた光景にロレッタは出かかった悲鳴をとっさに呑み込んだ。
**
全身を
だが、切れかかったランプの火が再び灯るように意識を取り戻す。
すると自分の全身に黒ずんだ毒の濁りが広がっているのがティアにも分かった。
ティアは今にも自分の全身が形を失い崩れ落ちそうになるのを懸命に踏みとどまりながら、状況を確かめた。
見下ろすと、自分の半身が樽の中に浸かっていた。
海蛇の毒が流し込まれた水が、樽の中でひたひたと波打っている。
両手両足が板に打ち付けられていた。普段ならなんとも思わないような拘束の仕方だが、毒におかされまともに力の入らない今、ティアの動きは戒められていた。
毒水の詰まった樽に浸けられた自分の体をティアはなす術なく見下ろした。
不意にかつかつと甲板を踏んで自分へと歩み寄る足音を聞いた。
ぐんにゃりと首を曲げて顔を上げると、頬に醜い傷のある男が冷酷な眼でこちらを見下ろしていた。
「ああやって人質を取って脅して、お前が素直に従うわきゃねぇとは思ったがよ」
「…………」
「ちょいと様子を見に来てみりゃ、事を構える気満々で仲間を集めてやがる。そりゃ俺だってこうするしかねぇだろうが」
無言で再び樽の中でうつむくティアを〈傷痕の男〉がのぞき込んだ。
「〈生命の泉水〉は何処にある?答えろよ」
「諦めろ」
そればかりは即座に鋭く返ってきた答えに、残虐な海賊は目を見開く。
ティアは、今にも体の端から溶け落ちそうになりながら、辛うじて声を発した。
「……さっさと殺せ。お前の求める物は、どうやったって手に入らない……」
「そうは言われても、『水溜まり』よぉ?」
〈
「てめぇは一体何をしたら死ぬんだぁ?切り刻んでも、大砲で吹っ飛ばしても、こうして毒に浸けてても、てめぇは死にゃしねぇだろうがよ」
「延々と苦しむだけだぁな」と、肩をすくめて〈傷痕の男〉は息を吐いた。
「このまま樽に詰めて陸の上に置き去りにするか?からっからに乾いて太陽の照り付けるそこら辺の小島にでも置き去りにして、それで後に何が残ってるか見に来るってのはどうだ?」
「…………」
「殺すにしても色々、試してみねぇと分からねぇな、そんなのは」
がりがりと頭を掻いて、〈傷痕の男〉はじろりとティアを見下ろした。
「こっちはいくらでも、何でも試してやれるぜ?」
「…………っ」
「ああ、そういやさっき、俺がどうしてこんだけ大量の部下を集めて、うまいこと操ってるかって聞いてきたよな?」
ティアを間近に見下ろしていたのを、肩越しに〈傷痕の男〉は甲板に集った部下たちを振り返った。ティアが目を向けると、全員がこちらを残忍な歓喜を含んだ目で眺めていた。
「こいつらはな、全員がてめぇに恨みのある、大陸南岸の荒くれどもだよ」
「……っ!」
「てめぇにやり返して、てめぇがこうして無様に敗北する様を見せてやるって俺が呼び集めた仲間だよ。……てめぇへの恨みを晴らす為に集まった連中だ」
「ひひひ」と、〈傷痕の男〉は笑い声を上げて、甲板に集った部下たちを見渡す。
「分かるか?全部、てめぇの
ぐるりと周囲に手をめぐらせ、高らかに哄笑を上げた後、白い歯をむき出しにして〈傷痕の男〉はティアを見下ろす。
「……てめぇのした事で……あの親子は引き裂かれ、もう一度会えるかどうかも分からん窮地に陥ってんだぞ?」
「だ……だま、れ……」
ティアが苦しげに泡を立てながら顔の水面をさざめかせる。
その
「てめぇのつまらん正義感が回り回って、あの親子を巻き込んじまったんだ。違うなら違うって言ってみろよ?えぇ『水溜まり』がよ」
「……うっ、く……」
ティアの体に毒を含んだ水が回っていく。
どす黒い濁りが喉元まで上がってきた。
ティアはがっくりと力なくうなだれ、全身が毒の濁りに犯されるのを感じて──
──「違うに決まってんでしょ‼この悪党ども‼」
次の瞬間、甲板の上に響き渡った凛とした声に、はっと顔を上げた。
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