第二話 水を蝕む毒
〈
以前、打ち合った時に使っていた物ではない。
ティアはその奇妙な形状をした刀身に目を向けて、警戒を強くした。
そうして、自らも舶刀の切っ先を〈傷痕の男〉へと向けた。
「なんで貴様がここにいる?」
「そりゃあこっちの台詞だぜ。『水溜まり』よお」
〈傷痕の男〉は雨に濡れる甲板の上を円を描くように足を運ぶ。
「俺は〈生命の泉水〉を持って来い、つったんだ。てめぇはなんでこんな所でこそこそ仲間集めてたんだよ?えぇ?」
ティアは油断なく身構えながら、自分の周囲を囲む〈傷痕の男〉の部下の海賊たちと〈傷痕の男〉を交互に見比べた。
「……貴様、どうやってこれだけの仲間を集めた?〈
ティアが鋭く問うても、〈傷痕の男〉は「ひひひ」と意味ありげに笑うだけだ。
雨に濡れる海賊船の甲板の上で、雨の飛沫を散らしながらティアと〈傷痕の男〉は互いに踏み込み、舶刀を振るった。
**
白くけぶる雨の向こうに遠ざかる海賊船の影を、ロレッタは見詰めていた。
目まぐるしく状況が移り変わり、未だにロレッタの頭もその推移に追いつくのに精一杯の状態だったが──
それでも、何か違和感をおぼえた。
周囲を見渡すと〈戦乙女号〉の船員は雨に濡れ、疲労にうずくまっていた。
「ねえ……」
彼らを見下ろし、ロレッタは降りしきる雨の中で声を発した。
「さっきまであれだけ執拗に狙ってきたのに、どうしてもう今はあの海賊船、あたしたちを追う素振りすらないの?」
霧のように周囲を白く染めながら降り続く雨の向こうに遠ざかる海賊船。
その船影を見ながら、ロレッタは疑問を口にする。
「それは……ティアが足止めをしてくれているからでは……」
イシュマーが眉をひそめて言うが、ロレッタは頑としてかぶりを振った。
「だとしても、こんな簡単に諦めるの、なんだか変だ」
ロレッタはおそるおそる、自分の考えを口にした。
「ひょっとしたらティア、敵に誘き出されたんじゃ、ないの?」
「それは……」
舵を握っていたアルトーと、肩で息を吐いていたコーネルが、ロレッタの言葉にとっさに顔を見合わせ、表情を険しくした。
「ロレッタお嬢……心配は分かりますが、今ここでおれ達が引き返したら、元も子もありません」
「ティアも言ってたろ。あいつなら自分一人で海の上を逃げ切ることができる」
コーネルが無骨な骨ばった手を自分の肩に置くのに、ロレッタはうつむいた。
「あたしの、港を襲った時……」
ロレッタは、〈翠緑の港〉に〈傷痕の男〉が襲撃してきた、その時の状況を注意深く、一つ一つ思い起こした。
「〈傷痕の男〉は、あたしたちのしようとしている事に、次々と先手を打ってきた。あいつがこっちに何かさせようとする時は、必ず目的があるはず……」
ロレッタがそう言うのに、アルトーとコーネルは再び顔を見合わせた。
「こっ、このままティアを残して逃げたら……まずい、気がする」
「……どうする、アルトー?」
雨に濡れる中、眉間にしわを寄せたコーネルがアルトーを
アルトーは羽の先を額に当てて唸っていた。必死に何か考えをめぐらせている様子だったが、不意にレンシとハルルの魚人種の兄妹を振り返った。
「レンシ、ハルル、二人であの海賊船を気付かれずに見張ることはできないか?」
不安げに眉根を寄せるハルルの代わりに、これまで
「……ハルルト二人デ手分ケヲスレバデキルト思ウ。ダガ……」
「デモ、船ノ上ノ様子ガ分カラナイコトニハ……」
ハルルが不安げにつぶやくように言うと、アルトーが悩ましげにうなった。
魚人種二人の兄妹では、水中を自由に動けても、海賊のいる船上まで忍び入ることは難しそうだった。
「そうか……なら、どうするか……」
──「あたしが行く」
アルトーが真剣な表情で思案をめぐらせるのに、ロレッタが雨の中、声を上げた。
甲板を激しく叩く雨の中、〈戦乙女号〉の船員が大きく目を見開いてロレッタを見た。ロレッタはその視線を受けても、一歩も引かなかった。
まず、アルトーがぶるっと首を振った。
熟練の航海士はロレッタを
「駄目です、お嬢。さすがにそれは許可できません。船長が不在の今、おれがこの船の意志決定をします。……気持ちは分かりますが従ってください」
「うん。だからアルトーは船を離れられないし、さっきの戦闘で壊れた箇所を修理しないといけないから、ロッコも船にいないと駄目だ。……もう一度、戦闘になった時、今度はコーネルの砲撃が必要になるかもだし、イシュマーも無理させられない」
「だから、あたしが行く」とロレッタが決然と告げると、アルトーはなおも固くかぶりを振った。
「危険過ぎます。仮にこれが敵の策略だとしても、船長がそれを上回る可能性だってあるんです。……船長は海の上ではそうそう後れを取る人じゃありませんよ」
「それは〈傷痕の男〉も知ってることだよ」
ロレッタが即座に言い返すのに、雨に濡れるアルトーがぐっと言葉に詰まる。
少しの間、ロレッタと睨み合った後で、アルトーは羽で雨に濡れた顔を押さえた。
「日没まで、様子を見ましょう。……それで船長が帰ってこなかったら……レンシとハルルの二人を偵察に送ります」
そう言って、アルトーは苦渋に満ちた顔をロレッタに改めて向けた。
「お嬢はそれまで待ってください。……もしもの事があれば、その時もう一度話し合いましょう」
**
雨に濡れる甲板の上を、ティアは滑るように足を踏み変えた。
角度と速さ、太刀筋を水の体で千変万化に変化を加えて〈傷痕の男〉と何度も舶刀を打ち合うが、相手も対応してきた。
やはり、百戦錬磨の海賊だ。
しかし──
(どれだけ数を揃えて、部下たちを掌握していたとしても……ここでこいつを仕留めればそれで終わる)
こちらの舶刀を巧みに受けて弾き返す〈傷痕の男〉はにやにやと、醜い傷跡の残る頬を歪めている。
こちらの内面の焦りを読み取られているような気がして、ティアはぐっと舶刀の柄を握り締めた。
(何か不気味だ。何を考えている?)
容易に踏み込める状況ではないが、ふとティアの脳裏に〈戦乙女号〉の月夜の甲板に泣き濡れる少女の姿がよぎった。
──ロレッタを一刻も早く、無事に父と再会させてやりたい。
「っ!」
ティアが踏み込んだ足が、雨に濡れてかすかに滑る。
一瞬の隙に、〈傷痕の男〉の眼光とその手に握る舶刀の刃がぎらりと光った。
ティアはとっさに身を引いたが、気が付くとコートの袖がすぱりと切れていた。
はっとして視線を下ろすと〈傷痕の男〉の刃が手首を
一瞬、ティアは顔をしかめたがただ掠められただけなら自分の体は問題ない。
ティアは構わず続けざまに舶刀を振るって〈傷痕の男〉に打ちかかった。
「どうした?『水溜まり』?今日はやけに勝負を急ぐじゃねぇか?」
「……黙れ」
ティアはなおも攻撃の手を緩めず〈傷痕の男〉を押し込もうとした。
だが──
(なんだ……?)
ふと、これまで味わったことのない息苦しさに似た感覚に、ティアは困惑した。
自然と手足の動きが鈍くなり、次々と〈傷痕の男〉の刃が自分の体をとらえる。
「……っ!ぐっ……!?」
にたにたと笑みを浮かべる〈傷痕の男〉をなぎ払おうと舶刀を振るった手が、指先から痺れて動かなくなり、ティアは後方へと退いた。
しかし、その足先からも痺れが広がり、体を支えていられずにぐにゃりと膝からティアはくずおれた。
「なんだ……?何が、起こっ、て……」
体が自由にならない。
こんな事は、初めて経験する。
「突いても斬っても、てめぇにゃ大して意味がねぇがよお」
甲板の上に片手を突くティアを〈傷痕の男〉が、悠然と近づいて見下ろした。
「き……さま……何、を……」
「その水だらけの体はやっぱりこういうのには弱いんだなぁ?」
〈傷痕の男〉は自分の舶刀をティアの眼前に掲げた。
奇妙な形状をした刀身だった。
柄には海蛇の彫刻が彫られ、そこに何かの仕掛けが施されているのが見えた。
柄から黒い雫が滴り落ちる。
舶刀の刃に刻まれた溝に、その黒ずんだ液体が滲んでいるのが見えた。
「海蛇の毒を刃に仕込める特別製の一品だ。気に入ってもらえたかよ?」
「……っ!」
ティアは愕然として、自分の掠められた手足を見た。
〈傷痕の男〉の刃先に掠められ──
そこから、自分の体に猛毒を流し込まれた。
気が付いた時には既に両手足に力が入らなくなっていた。
ティアは舶刀を取り落とし、とっさに雨に濡れる甲板に両手を突いた。
徐々に身動きの取れなくなる痺れ、そして息苦しさがティアを襲う。
ティアの頭の上から残虐な響きを帯びた声が、雨粒と共に落ちてきた。
「この光景を俺はあの嵐の夜から夢に見るほど待ったぜ。『水溜まり』よぉ、てめぇがこうして、俺の前で地べたに這いつくばってる光景をよ」
「……くっ、そ……!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます