第四話 伝えずにいた後悔
ティアはそれきり口を開くことはなかった。
しかし、打ち明けられた彼女の過去と思いを、ロレッタは確かに自身の胸に伝えられたと感じた。
ただ、何を言ったものか分からなかった。
ゆっくりとその場からきびすを返しロレッタが何も言わずに船内へ戻っていくと、「おやすみ」と、ティアが振り返らないまま短く声を発した。
全てを呑み込めて、納得したわけでは決してないけども──
今すぐに、〈戦乙女号〉を飛び出していきたい、そんな焦燥は消えていた。
再び足音を忍ばせ船内の自分の船室に戻ると、ロレッタはハンモックに横たわる。
今は、静かにまぶたを閉じて眠った方がいい。
それだけを考えて、闇の中、ロレッタは背中を丸めて目を閉じた。
**
ティアは自分の体に伝わってくるわずかな震動を確かめ、息を吐いた。
ロレッタはちゃんと自分の船室に戻って眠りに就いたようだ。
海の上で、自分の呪われた体に光を投げかける月をティアは振りあおぐ。
今、ロレッタに伝えられる範囲で自分の事情を伝えて──どうなることかと思ったが、無謀な行いは制止できたらしかった。
実は──ロレッタにありのまま全てを打ち明けたわけではなかった。
(……あの子には悪いことをした。だけど……)
あれ以上、辛い事実も〈生命の泉水〉の真実も伝えるわけにいかない。
ティアは静かにその場からきびすを返し、自分の部屋へと戻った。
眠ることのない自分の部屋に設けられた机の椅子にどっかりと腰を下ろす。
肘掛けに手を置くと、椅子の上にずぶずぶと深く身を沈める。
体がこぼれ落ちてしまいそうだ。
それでも、視線をめぐらせて手近にあった棚の上へと目を向けた。
そこに──古びた木箱が、オルゴールがある。
同じ物が今、ロレッタの船室に運び込んである。
二つのオルゴールは──自分が王女に、ロレーザ殿下によって騎士に叙せられた時に、彼女の物と二つ同時に記念の品として作られた物だった。
あの全てを失った嵐の夜に奇跡のように〈戦乙女号〉と共に流れ着いた自分の物。
王女の血筋と共に伝えられてきた、ロレッタの物。
ロレッタは──自分が仕えた王女の血を引く、その末裔だ。
(あの大変な嵐の夜、今にも沈没しそうな〈戦乙女号〉の船の上で……)
ティアはロレッタには伝えずにいた記憶を、ぼんやりと思い起こす。
〈生命の泉水〉を王女と自分は手分けして沈めることにした。
そこに居合わせた、もう一人──
〈生命の泉水〉を求める長い船旅の中で、王女と結ばれた一人の船員。
彼の手には生まれたばかりの王女の娘が抱かれていた。
──貴方は今からでも逃げて……この子と共に生き延びて。
船に残ろうとする彼を、王女はそう説き伏せて、ボートに乗せて送り出した。
荒れ狂う海の中、祈りを込めて王女と二人、遠くなっていくボートの影を見送ったティア。
ただひたすら、彼らだけでも無事でいて欲しいとその時、願った。
そして──船に積まれた〈生命の泉水〉を全て沈める間際、敵の攻撃によって〈戦乙女号〉は破壊され、王女は海に投げ出され、自分は〈生命の泉水〉を被った。
その為に、こんな忌まわしい姿になり果てた。
気が付いた時、ティアは破壊された〈戦乙女号〉と共に漂流していた。
周りで溺れ死んだ、敵味方問わず多くの者の死体と共に。
そして、気が付けば無人の島の砂浜に流れ着いていた。
とにかく、飲み水を求めて陸に上がり、運よく澄んだ真水の湧く泉を見つけた。
だが、いくら飲んでも何故か喉の渇きは癒されず──
──しばらくして、体の底から
他にどうしようもなく、ティアは海に戻り、波打ち際に飛び込んだ。
それでようやく激しい渇きが癒されて──自分が人の理から外れた存在になり果てたことを知ったのだった。
絶望に打ちひしがれ、さりとて死を選ぶにもその方法が見つからなかった。
ティアは波打ち際に立ち、辛うじて原形を留めていた〈戦乙女号〉を見上げた。
──そうすると、オルゴールの音が聞こえたのだ。
王女と自分に与えられた、魔法のオルゴール。
片方が奏でられれば、もう片方も音を奏でだす、自分と王女の絆の証。
ティアはその音を頼りに船内に入り込み、そしてまるで奇跡のようにその場に残っていたオルゴールの片割れを見つけた。
蓋が開いて悲しげな旋律の奏でられるそれを見て、ティアはそのもう一つの行方を思い起こした。
──父親の船乗りに、王女の娘と共に預けられた。
今、その音色が何もせず自然と奏でられたということは──
『生きて……いるんだ……』
その時、ティアは呆然とつぶやき、とぷんと音を立ててオルゴールを胸に抱いた。
──そこから〈戦乙女号〉を再び海に漕ぎ出せるよう修理するのにはひどく長い時間を要した。
流れ着いていた他の船や、その島に生えていた木などを材料に、独力で。
皮肉なことではあるけれど、この体になって有利に働くことも多かった。
『ひとまず飢えや怪我で死ぬ心配はしなくていい。海水を取り込みさえすれば、力もどんどん増していくようだ』
ただし、海から離れていられる時間はひどく限られたものだった。
少しでも離れていると、あの飢えるような凄まじい渇きに襲われる。
『……もう陸の上でまともに暮らすことは、できないんだ……』
ティアは砂浜の焚火を見詰めてつぶやいた。
陸の上と縁の薄い生を送ってきたが、それでも海から離れられないとなれば、まともな人の生は送れないのと同義であることは、ティアにも理解できた。
海の上は人が日々の暮らしを営む為の場所ではない。
人の生活はあくまで陸の上で紡がれるものだ。
自分は、その輪から弾かれた存在になってしまったのだった。
それでも──挫けるわけにいかなかった。
『あの方の、愛した相手が……御子がどうなったか……それを見届ける義務が、私にはあるんだ……!』
オルゴールは今も時折、鳴り響いている。
その音色を聞くと、自分の仕えた主の血筋が今も絶えず続いているのかもしれないと思える。少なくとも、それを確かめずにはいられない。
気の遠くなるような年月をかけて〈戦乙女号〉を修復し、そして、その時が来た。
『〈
ティアは修復を終えた〈戦乙女号〉を、流れ着いた砂浜から海へと向けて押し出した。最初は本当にやれるか不安だったが──潮の流れを操り、次第に手応えを感じるにつれ、確信を得た。
長い年月を経て、自分と共に再び大海へと漕ぎ出だした〈戦乙女号〉に、ティアはその手摺を撫でて語りかけた。
『長い間待たせてしまって……ごめん』
これからは共に行こう、とティアは〈戦乙女号〉に告げた。
──それから、魔法のオルゴールの音色をたどって海を渡った。
そして、ようやく──ようやく、見つけた。
大陸南岸の人里離れた岬の一軒家。
人の目を避けて暮らすようにひっそりとたたずむその家には、仲睦まじい家族が暮らしていた。
若い両親と生まれたばかりの子供。
揺りかごに揺られる赤子をあやす母親の手には、あのオルゴールがあった。
母親の顔には、確かに自分の仕えた主の面影が見て取れる。
『ああ……』
そうか、と静かに、ティアは悟った。
もう、自分が仕えたあの国はない。
彼らは王の命じた任務とも、長く続いた争いとも係わりはなく、静かに穏やかに、平和な世に暮らしていた。
結局、陸の上の世界では、もう誰も自分を必要とはしていない。
その事実を悟って、少し離れた場所に泊めていた〈戦乙女号〉へと、ティアは戻ろうとした。
その時──
──『ひょっとして……ティア、なのか……?』
しわがれた声に呼び止められ、背後を振り返ると、年老いた男が立っていた。
面影が結びつかず、改めてそれほどの時間が流れているとは気付かなくて──
──『姫様……の……』
その年老いた男が誰だか気付いた時、自分はこの場にいるべきだはないと、はっきり悟ってティアは背中を向けた。
ただ──伝えておくべきことがあると、とっさに感じて立ち止まった。
『もし……もし、何か困った事があった時……』
ティアはその時思うままに、赤子に聞かせているオルゴールの音色を背に、ゆっくりと年老いたかつての主の伴侶に伝えた。
『もし私の力が必要になれば、あのオルゴールを海の上で鳴らし、呼んでくれ』
それだけを告げて、ティアはその場を離れた。
〇
少しでもかつての主の血筋を引いた家族が穏やかに暮らせるように。
そして、二度と〈生命の泉水〉を求める者が出て来ることのないように。
ただそれだけを考えて、ティアは大陸南岸の海で活動を始めた。
〈水精霊〉の力を使って〈戦乙女号〉を操り、大陸南岸の海を荒らして回る海賊どもを片端から襲っていって──
そうして次第に、敵も、味方も増えていった。
時折、あの岬の一軒家の家族が変わりなく穏やかに暮らしている様を確かめて、海を渡り続けた。
〈生命の泉水〉を求める者が現れぬよう、仲間を通じて怪談話を広めたりもした。
ティアはひじ掛けに頬杖を突いたまま、深く思い出に浸っていた自分に気付いて顔を上げる。
「それでも、〈
あの男は岬に暮らす一族を襲い、ロレーナとロレッタの親子を連れ去った。
そうして、ロレーナの命は奪われ、自分があの時仕留めそこなった〈傷痕の男〉は、今またロレッタの養い親を人質に取り、ロレッタを苦しめている。
「今度こそ……決着をつけねばならないんだ」
ティアは椅子から立ち上がり、甲板に出て空をあおぎ見た。
月の出ていた澄んだ夜空には、次第に西から雲が広がり始めていた。
風がぱたぱたと着込んだコートの襟をはためかせる音をティアは聞いた。
今日は、天気が荒れるかもしれない。
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