第三話 消えぬ過去、変えられる未来

 「そこを、どいてよ……」


 〈戦乙女号〉の甲板の上、行く手に立ち塞がるティア。

 彼女に向けてロレッタが発した声は、自分でも想像した以上に弱々しかった。


 ティアは微動だにしなかった。

 ただ自分の足元に顔をうつむけ、ぶくりと口元に泡を立てた。


 「……こんな体になってしまって、不本意ではあるが色々とできる事は増えた。遠くかすかな震動も感じ取ることができて、目に見ない物事も手に取るように分かる」


 「〈戦乙女号〉の中では、特に」とつぶやくように言って、ティアは船縁に手摺に寄りかかり背中を預けた。


 「お前が、人目のない所でこっそり泣いていた事も、知ってる」

 「……っ!」


 ティアがつぶやく声に、ロレッタは固く背筋を強張らせた。


 「……父親のことが、心配か」


 ティアが手摺の向こうの海へ、ぽつりと雫をこぼすように声を落とした。


 「心配だよ……心配に決まっているじゃない!」


 声を張り上げた途端、ぼろっ、とロレッタのまなじりから大粒の涙がこぼれ落ちた。


 「どんな理屈をつけたって、あたしなんかにできることはないって分かってたって……!父さんは凶悪な海賊に人質に取られて、二度と無事で会えるかどうかだって分かんない……!それでどうやって安心しろっていうのよ!」

 「…………」


 ロレッタが張り裂けそうな声で訴えると、ティアは手摺に両手を突いてうつむく。


 「あたし……あたし、あの日、父さんとつまんないことで行き違いになった。つまんない嘘をついて……父さんはあたしとちゃんと話し合うつもりだったのに、それさえ誤魔化して出てきちゃった……」


 「……謝りたいよ」と、わななく声でロレッタが告げる。

 ティアは黙り込んだまま、手摺の上で拳を握り締めていた。


 「謝りたい。……会って話をしたい。……父さんに、会いたい……」


 ロレッタは甲板の上で嗚咽の声を上げた。

 堪え切れず、その場にうずくまってロレッタは泣きじゃくった。


 すると、甲板の床を軋ませて、ティアがゆっくりと近づいてきた。


 ロレッタが泣き濡れた顔を上げると、顔の水面に月の光を映したティアが、そっと自分を見下ろしていた。


 「てぃ……ティア……」

 「残念だけど……本当に残念だけど、今すぐ、ロレッタの願いを叶えてあげることはできない」


 「でも……」と、ティアはそっと口元をさざめかせた。


 「……慰めになるかどうかわからないけど、私の話を聞いて欲しい」


 そう言って、ティアは月の光に照らされる〈戦乙女号〉の甲板の上で静かに語り始めた。


 それはおそらくロレッタにとってひどく遠い昔の話だった。


 〇


 ティア──かつて、ティア・フェルグと呼ばれていたその女は〈水精霊ニンフ―〉ではなかった。


 正確には〈水精霊〉と人間との混血種であった。


 「だから、幼い頃の私には何処にも居場所がなかった」


 血を継ぐどちらの種族からもうとんじられ、さげすまれる。

 素性がばれればどこにも居場所がなくなる、それが混血種の逃れられぬ運命だ。


 「……異種族の融和が進む今でさえそうなのだから、異種間戦争の続くあの時代においては絶望的だった。正直、何故生まれ落ちてすぐ殺されなかったのか、今でも不思議に思うよ」


 ティアはそう語って、手摺を背にしてぶくりと一つ息を吐いた。


 「子供の内は素性を隠して、船乗りとしてあちこちの船に潜り込んで過ごした。人間の船も、〈水精霊〉の船も、正体を誤魔化せるような船ならなんでも……」


 陸地などというものは、停泊している間の港町くらいしか知らなかった、とティアは言う。


 「そこで、適当な船乗りの仕事を探してぶらつく毎日だったよ。……それである日、人間の国の軍船に下働きとして乗り込んだ」


 そう言って、ティアはぽん、と軽く〈戦乙女号〉の手摺を叩いた。


 「それがこいつだった。乗り合わせたのは単なる偶然だったが……そこで私は、ある人間の女性に出会ったんだ」


 ティアは甲板を振り返り、そこにありし日の幻影を見透かすようにぼうっと見ていた。


 「それはとある国の王女だった。その国は……あの時代には珍しく、人間と精霊種が共存している国だった。私は……彼女に見出されて、彼女の傍に、仕えるようになったんだ」


 そう言って、ティアはじっとうつむいた。


 「何年かして、彼女に初めて私は……自分の素性を話した。自分の忌まわしい血の話を。それでも彼女は私を……ありのままの私を受け入れて……私は〈水精霊〉の水の魔素を操る能力を備えた魔法騎士として、彼女に仕えた」


 「おそらくそれが私にとって最も、幸せな時間だったろう」とティアは告げた。


 「彼女の父も、その国の国王も聡明な人だった。決して大きくはない人間と精霊種の共存するその小国を立派に守ってきた」

 「その国は……結局、どうなったの?」

 「…………」


 それまで聞き入っていたロレッタが尋ねると、ティアは黙り込んだ。

 だが、重い沈黙の壁を崩して、意を決したようにティアは再び語り始めた。


 「結局……どんな崇高な理念を持った国も、時が経てば、その裏に巣食う問題に直面せざるを得なくなる。……聡明だった王が老いるにつれて、その能力に頼っていた小さな国は日が傾くように滅びの道を歩み始めた」


 ティアはうつむいたまま語り続けている。辛そうな仕草だった。


 「そこで王は……すがったんだ。あるかなきかさえ定かでない、伝説の霊薬──〈生命の泉水〉に」


 〇


 「〈生命の泉水〉……!」


 そのなが出て、ロレッタが涙を忘れて身を乗り出す。

 ティアはロレッタを振り返り、その顔の水面にロレッタを映しうなずいた。


 「そうだ。……不老不死をもたらす、その霊薬さえあれば、自身の老いも、国の衰退も食い止められると考えてのことだ。だが……王の一人娘は、私の仕えていた王女は……反対した」


 その板挟みになった時の葛藤と無力感をまたその身に刻まれたかのように、ティアはがっくりとうなだれた。


 「二人は何度も話し合ったが……その意見は平行線をたどった。王女は……あくまで人間が治めた国だからこそ、今の形があるのだと言い張ったし、王は自分亡き後の国を憂えていた」


 ティアの声が水のさざめきだけでなく、震えた。


 「結局、王女は国王の命を受けて〈生命の泉水〉を探すこととなった。王女は王女で、そんな霊薬などありはしないし、あったとしてもそれがどれだけ醜く不自然な代物か王に証明すると、そう啖呵たんかを切って、私を連れて〈戦乙女号〉と数席の軍船を率いて、大陸南岸の島々を探した」


 「でも」と、月をあおぎ、その顔に映してティアは切なげに声を震わせた。


 「ただ……本当は、お互い顔を合わせるのにうんざりしただけかもしれない」


 ロレッタは思わず、ごくりと息を呑み込んだ。


 「それで……見つかった、の?」


 ティアはしばらく黙りこくっていたが、やがて、うなずいた。


 「長年人の通わぬ岩だらけの孤島に……誰かの建てた研究所の痕跡があるのを見つけた。そこに……〈生命の泉水〉と名付けられた霊薬が……本当にあった」

 「……そっ、それで、その薬は本当に……」


 不老不死の薬だったの?とロレッタが問うより先に、ティアがかぶりを振った。


 「研究所の痕跡や、残された資料を見る限り、それは……それは決して不老不死の霊薬、などと呼べるものではなかった。それは……人を……人の肉体を変異させるもので……」


 ティアが自分の体を見下ろし、口ごもった。


 「だから……見つけたその薬を持ち帰り、それが危険な物だという何よりの証拠として王に突きつけるつもりで、王女はその薬を残らず船に積んだ。そして……」


 「そこを他国の軍船に見つかったんだ」とティアは力なく告げた。


 「折悪しくそこにひどい嵐が重なって……〈戦乙女号〉は壊れてしまった。それに巻き込まれて、王女は……」


 ティアが口ごもった後、震える声を押し出した。


 「か、彼女は海に落ちる前……私に〈生命の泉水〉を、誰の手にも届かぬ海の底へと沈めるように頼んだ。私は、せめて、その命令をやり遂げる為に積まれていた薬の箱に重りを着けて海の底へ沈めようとした。その時……割れた瓶の中にあった分の薬を、全身に浴びてしまったんだ」

 「そうだったの……」


 ロレッタはティアの壮絶な過去に、それ以上何を言うべきか言葉を失った。


 「気が付けば……私の体はこんな風になってしまっていた。それぞれの船の残骸や、その場に浮かんだ人々の死体と共に、海に浮かんで漂流して……」


 そして、流れ着いた小島で、独力で流れ着いた〈戦乙女号〉を船の残骸をかき集めて、長い年月をかけて修復した。


 ティアは以前の肉体ではなく、〈水精霊〉の能力も以前から信じられないほど強力なものになっていた。


 ティアは人の通わぬ孤島で、たった独り自らの肉体と能力の性質を知った。

 そして、どうにか修復できた〈戦乙女号〉と共に海へ漕ぎ出した。


 「そこから、大陸南岸の各地を巡って少しずつ、情報を集めた」


 そうして、ティアは知ったのだという。


 長く続いた異種族間の戦争の時代が終わったこと。

 自分が仕えていたあの国はもう、その名も痕跡も、残ってはいないこと。


 「結局……私は、国王と王女を引き合わせてやれなかったんだ」


 「元は仲睦まじい親子だったのに」とティアは悲しげにかぶりを振った。


 「私はどちらが正しいとも言えず、板挟みになっていた。……今、その事を後悔している」


 ティアはぐっと革手袋を握り込んで、かすかにそれを震わせた。


 「私はただ……どちらが正しくてどちらが間違っているとかではなくて、二人に互いの心のうちを、思っていることを、素直に伝えるべきだと言えば良かった。そうすれば……あの二人はきっと分かり合えたはずなんだ」


 うつむくティアに、ロレッタは掛ける言葉もなく、甲板の上で立ち尽くした。

 やがて、大きく息を吐くように泡を立てたティアがロレッタを見詰める。


 「ロレッタ、私は、お前とお前の父親とを無事に再会させてやりたい」

 「……ティア」


 ロレッタが涙も忘れてつぶやいた。

 すると、ティアは背中を向け、手摺の向こう、海の上で輝く月に向き直った。


 「信じるかどうかは、ロレッタの好きにしたらいい。ただ、お前たち親子の再会を願う理由が私にもある。……それだけ覚えておいてくれ」


 ティアのその言葉は、また一滴の雫のように海の上へぽつりと落ちていった。

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