第四話 〈吹き溜まりの港〉

 **


 ロレッタが目を覚ますと船の揺れが大きくなり、全体が軋みを上げていた。


 ざざぁーっ、と船腹に打ち付ける波の音が聞こえる。


 まぶたを擦ってロレッタが顔を上げると、そばに椅子を引いてイシュマーが腰かけていた。


 「イシュマー、おはよう。……ひょっとして、さ」

 「ああ、おはよう、ロレッタ。……うん」


 ロレッタはハンモックから揺れる船の床に足を下ろす。

 すると、はっきりと分かった。

 この船は波を越えて海原へと漕ぎ出している。


 イシュマーがロレッタを静かに見詰めてうなずいた。


 「この船は……〈戦乙女号〉は動き始めた。あの、ティアという者の手でね」


 〇


 ロレッタが甲板に出ると、これまで畳まれた帆が広げられていた。

 白く輝くような帆は、ぱんぱんに風を受けて膨らんでいる。


 順風を受け、海原に白い航跡を描き快足を飛ばす古い軍船。


 〈戦乙女号〉というこの船の名の由来となった船首に飾られた白い戦乙女の彫像も、群青色の海の上で誇らしげに光っていた。


 船首に向かうと舵を手に握る人物の背中が、ロレッタの目にも見えた。


 「ティア!」


 その背に呼びかけると、あの異形の船乗りが、ちらとこちらを振り返る。


 しかし、また何も言わず舵を革手袋に包んだ手で握るティアに、ロレッタもしばらく無言で、船の行く手に広がる茫漠ぼうばくとした青い海原を眺めた。


 外海の深い青さは、ロレッタに途方もない海の広がりを感じさせた。

 四方どこを見渡しても陸地の見えない海の上を見渡すと、一度だけ父と舟で沖合に釣りに出かけた時の記憶が蘇った。


 あれはまだ〈翠緑の港ポートエメラダ〉がぎりぎり見える範囲にあったけれど、今は本当に何処にも陸地が見当たらない。


 心細さと同時に、どこか胸の底から浮き立つような高揚感を覚えて、ロレッタはティアを振り返った。


 「何処に向かっているの?」


 そう尋ねると、輝く陽射しをその顔を形作る水面に映したティアは、舵を握りながらかすかにロレッタを見やった。


 目鼻立ちは分かるが、眼球はないみたいだから実際にはどうやって見ているか分からないのだが、それでも視線は感じるものなのだ。


 「うまく西風をつかまえられた」


 ぱんぱんに張った帆に一瞥いちべつを向けて、ティアは進行方向へと顔を戻す。


 「夕方には目的の場所に着く。そこで色々と準備を整える」

 「あんたが言ってた助けは?どうなるの?」


 そう重ねて問い質すと、若干煩わしげにティアが肩をすくめた。

 しかし、答えてくれる気はあったようで、ややあって顔の水面を波打たせてティアが答えた。


 「そいつも、おそらくはそこで捕まえられるはずだ」

 「本当?」


 十日の猶予は考える以上に少なく、無駄にしている時間は決してないはずだ。

 不安を押し隠せずにロレッタがなおも問うと、その心情は理解してくれているようでティアもうなずいた。


 「この辺りの海で、ワケありの連中が集まるといったら、あそこ位のものだ」

 「……ワケあり?」


 思わぬ言葉が飛び出してきてロレッタが眉根を寄せる。

 すると、今度こそ鬱陶しそうに、ティアが片手を振ってロレッタを追い払う仕草をした。


 「私だってこんな体だ。まともな奴に助けを求めようとしたら、それだけで十日の猶予が過ぎてしまう」

 「それは、そうかも……だけど……」


 「いいから船の中に戻ってろ」とそれ以上の会話を打ち切って、ティアはロレッタを追い返した。渋々とロレッタもそれに従った。


 しかし──


 まともでない連中に助けを求めるというのも、それはそれで一筋縄でいかないのではないか?


 ロレッタは胸の内に言い知れぬ不安を抱いた。


 〇


 一度、船室に戻ってロレッタは体を休めてから、炊事場に向かった。

 昨日、吊るして干してあった魚の開きを竈に火を入れて炙って食べることにする。


 途中でイシュマーも起きてきて、食欲がありそうなので干物の魚を振る舞った。


 本当に最低限の食事ではあったが、多少なりとも体と頭が働き始めた。

 ロレッタはイシュマーと言葉を交わすことにした。


 「ティアは、誰かに助けを求めるつもりみたい」

 「そうか。……そうだろうね、彼女や私たちの力だけでは、〈翠緑の港〉を占拠している海賊たちを追い払うことはできないからね」

 「うん。でも……」


 ロレッタは食卓をはさんでイシュマーと向き合いながら、その顔をうかがい見た。


 「今更だけど、本当に信用できるのかな……」

 「というと?」

 「助けを求めるといっても、多分、普通に近くの港町や船に助けを求めるわけじゃないみたい」


 「ふむ」とイシュマーが顎に手を当てて、思案げな表情を浮かべた。


 「まともな相手に助けを求めていると時間が過ぎてしまうって言ってたけど、その肝心の相手が信用できるかどうかも分かんないし、そもそも……」

 「ロレッタは迷っているのかい?」


 イシュマーがじっとこちらを見詰めて、そう尋ねる。

 ロレッタは思わずうつむいて、何度も悩ましげにうなった。

 その様子を見て、イシュマーはぐっと身を乗り出してきた。


 「この状況だ。慎重になるのは当然のことだ。しかし幸いなことに、ティアというあの船乗りは、あの海賊たちと敵対している」


 「あの海賊を倒せば〈翠緑の港〉の人々も解放される」と、イシュマーがロレッタの手に触れてうなずいた。


 「今は躊躇っている場合じゃないよ、ロレッタ」


 そう言って、イシュマーは勇気づけるように軽くロレッタの手を握った。


 「ロレッタならこのまま何かを待っているより、自分から一歩踏み出した方がうまくいくと私は思うのだけど、どうかな?」

 「…………」


 ロレッタはイシュマーに言われた言葉を自分でもよくよく考えてみた。


 確かに、今自分にできることは限られていて──


 でも、それさえ躊躇っていたら、後は身動きが取れなくなってしまうだけだ。


 「……本当だね。これまでちょっと、あたしらしくなかったかも……」


 そう言って、ロレッタは改めてイシュマーの顔を見上げた。


 「本当にそう。あたしは、今あたしのやれることをやるしかないよね」


 「イシュマー、ありがとう」とロレッタが告げると「どういたしまして」と優美な顔立ちの〈水精霊ニンフ―〉は嬉しそうに微笑んだ。


 そして、どこか複雑そうな影がその顔に差したのだった。


 「今の私にできるのは、ロレッタ、君を後押ししてあげること位しかないからね」


 〇


 イシュマーは食事を取った後は、船室に戻り体を休めることにしたようだ。

 負傷したイシュマーに無理はさせられない。


 ロレッタは西へと傾く陽射しの中、相変わらず快足を飛ばして東へ進む船の甲板へと出た。


 何も言わずに、すっと船首で舵を取るティアの元に歩み寄った。


 ティアがもの問いたげな仕草で振り返ったが、ロレッタは小さく肩をすくめた。


 「自分が何処に行くのかだけでも、ちゃんと自分の目で見ていたいから」


 ロレッタが顎を引いてそう告げると、ティアはじっとロレッタの顔を自分の顔の水面に映した後で、かすかにうなずいた。


 「好きにしろ」


 それだけ言って、再び舵を手に取り進行方向を真っすぐに見据える。


 ティアと二人、船首に立って行く手の茫漠とした海を見詰めていた。


 次第に夕闇が迫りつつある中、やがて海にぽっかりと浮かんだ孤島が見えてきた。

 ティアは取り舵を切って、岩だらけの島の周囲を回り込む。


 その島の海岸線に三日月のような大きな入り江が口を開けていた。


 その内海に、広がる光景にロレッタは思わず呆気に取られて目をしばたいた。


 「ここが〈吹き溜まりの港〉と呼ばれる場所だ」


 ティアが入り江へ船を進めながら、目の前に近づいてくる影を見詰めて言う。。


 「吹き溜まり……」

 「まともな港に迎え入れられないような、海のお尋ね者や、ワケアリの連中が集う場所だから、そう呼ばれている」


 「ここで助けになる奴を探す」と告げるティアが、舵から手を放す。


 帆を畳み、次第に速度を落とす〈戦乙女号〉の行く手に見えるその水上の建造物をロレッタは呆然と見詰めていた。


 ロレッタの目にはその場所は港というより──入り江の内海に建造された、巨大な水上の町、としか見えなかった。


 桟橋のような木造の足場が無秩序に交錯し、中には座礁した廃船がそのまま足場として使われているような箇所まであった。


 木造の足場の上に、これも木造の建物が無秩序に積み上げられている。

 その一つ一つが組み合わさって水上の華やかな『町:を形成しているのだった。


 こんな場所が、まさか〈翠緑の港〉からも程近い海域にあるなんて。


 ロレッタは〈翠緑の港〉がどれだけ狭い世界だったか、今になって実感した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る