第三話 〈戦乙女号〉の夜
桶に満杯になった釣果を、ロレッタは船内の炊事場まで運んでいった。
この船の主であるティアが、普通の食事を取る体なのかどうか定かでない。
ロレッタの密かな不安は的中して炊事場はしばらく使われた様子はなかった。
ロレッタは息を吐いて、がらんとした薄暗い炊事場に足を踏み入れた。
それでも、探してみると道具と設備は一通りそろっていて、ほっおする。
炭の置かれた樽の中には、どこかで補給したのか真水も入っていた。
のぞき込んで匂いを嗅いだが、特に古くなったりカビ臭かったりもしない。
煮炊きに使えそうなのを確かめて、ロレッタは一つうなずいた。
「となれば、さっさと取りかかろう」
ひとまず、自分とイシュマーの分の食事を用意せねばならない。
手に持ったナイフを真水で洗ってから、ロレッタは手早く釣った魚をさばいた。
ハラワタを抜いた魚を串に刺して、竈に火を入れてその火で炙った。
残りは腹から開いて、日当たりのいい乾燥した場所に吊って干しておいた。
他に材料が揃えば、もっと色々な調理もできそうだ。
しかし、今はひとまずこれが精一杯だ。
それでも、自分やイシュマーが飢えたり、喉が渇いたりする心配はしなくて済みそうなのは上出来だろう。
ロレッタは自分に串焼きを二本ばかり、イシュマーには焼いた魚の身をほぐしてか沸かした水に入れた、粗末ではあるがスープに仕立てたものを持っていった。
「イシュマー、起きてる?」
イシュマーの寝かされていた船室の扉を叩くと、かすかなうめき声が聞こえた。
扉を開くと、イシュマーは起きていて、青白い顔をしていたが、椅子に腰かけて額に手を当てていた。
ロレッタの姿を見ると、イシュマーははっと目を見開いた。
「ロレッタ、よかった……無事、だったのだね……」
「うん、ひとまずは」
そう言って、ロレッタは卓に魚の身の入ったスープを置いて、自分は串に刺さった魚を手に取った。
「今は食事にしよう。イシュマーは、食べられそう?」
「そうだね……随分と消耗しているが、食べなければ余計に弱ってしまうからね」
そう言って、イシュマーは息を吐き、ロレッタの持ってきた匙を手に取った。
〇
食事を取る間に、ロレッタはイシュマーにこれまでの成り行きを説明した。
イシュマーは少しずつロレッタの作った質素なスープを口に運びながら、こくこくと状況を確かめるようにうなずいていた。
「えっと……だから、つまり、あたしたちは今、そのティアっていう、スライムみたいな体の船乗りに助けられて、彼女……の船に乗っているらしいんだけど……」
ロレッタは手早く平らげた魚の櫛を片付けて、一息吐いた。
「一応……父さんや〈
ロレッタはうかがうようにイシュマーの青ざめた顔を見詰めた。
気が付いたばかりで申し訳ないのだけど、イシュマーが意識を取り戻してくれたのは心強かった。自分一人では心細かったし、イシュマーなら相談に乗ってくれる。
「そうだな。……今、私たちにできることは少ない」
「うん」
「そのティアという船乗りが何者にせよ、その意に従う他に今はできることはないのだと、私も思う」
それを聞いて、ロレッタもようやくこの異常な状況を納得して呑み込め始めた。
「ひとまず私たちを害するつもりはないようだ。それが目的ならとっくの昔に私もロレッタもただでは済んでいないだろう」
イシュマーの冷静な口振りに、ロレッタもようやく落ち着いて考えられる。
やはり、イシュマーが起きてくるまで自分もどこか張り詰めていた
「うん。だったら……一応、信用していい、のかな……?」
「それはまだ分からない。そのティアという者、存在の素性が分からない内は」
「そっか」とロレッタはイシュマーの言葉にぽつりとつぶやいた。
それから、ロレッタはおそるおそるイシュマーをうかがい見た。
「イシュマーは、どう思う?ティアって、何者なんだと思う?」
「それは私には判断できない。……ロレッタの話を聞いているだけでは」
イシュマーの返事はきっぱりとしていた。
しかし、逆にはっきりと答えてくれた方が今のロレッタにはありがたい。
ただ、少し疲れてしまった。
気が付くと、差し込んでくる陽射しの色も夕焼けの赤みを帯びていた。
「ごめん、イシュマーも気が付いたばかりなのに話し込んで」
「いや……私も今の状況が掴めて助かったよ。スープもありがとう」
「材料が全然なくて、ほんと最低限の代物だけどね」
ロレッタが苦笑して、イシュマーにぼやく。
どこか港に寄ってくれたら、魚以外の選択肢もありそうなものだけど。
「この先どうなるかは分からないけど、私もロレッタも、今は体を休めよう」
「うん……そだね……」
ロレッタはかすかに眠気を覚えつつ、イシュマーに向けてうなずいた。
あんまり、イシュマーの船室に居座っても迷惑だろう。
「それじゃあ、あたし隣の船室にいるから、何かあったら呼んでね」
「ああ、分かったよ」
ロレッタはイシュマーの返事を聞いて、船室を出ると扉を閉ざした。
イシュマーが元気そうで助かった。お陰で、色々と考えが整理できた気がする。
(今、あたしにできる事は少ないけど、望みはなくなったわけじゃない)
ティアが信用できるかどうかはともかく、彼女は〈
父を救うチャンスも、〈翠緑の港〉を取り返すチャンスも必ずある。
そう信じて、ロレッタは自分の船室に戻り、ハンモックの上に身を横たえた。
すると、船を揺らす波の音を聞いている間にまぶたが重くなり、気が付けば深い眠りの淵にロレッタは沈み込んでいった。
**
〈翠緑の港〉の〈
背中の傷は痛みを訴えていたが、ぐっと堪えて揺れる船の床を踏み締めた。
船の炊事場を探してみると、ロレッタが魚を捌くのに使ったナイフがあった。
おそらくあるだろうと思っていたが、果たしてこれが役に立つかどうか心許ない。
それでも、こればかりは自分の役目だ。
どちらに転ぶにしても、ロレッタに知られず今夜の内に始末をつけたい。
ナイフの柄を握り締めたまま、甲板に上がる。
月は雲に隠れていた。暗い夜だ。
その夜の闇の中で息を潜めて、イシュマーは甲板から出入りする船長の部屋の扉へと忍び寄った──
──「何か御用?」
すると、不意に頭上から水のさざめきによって形作られた声が降ってきた。
イシュマーが顔を上げると、船首の手すりの上に、古びた軍服を身に纏った船乗りが腰かけ、こちらを見下ろしていた。
その肉体の内に、濃密な水の魔素を感じた。
これが、ロレッタの言っていた──異形の船乗り。
「……お前が、ティアか。ロレッタの言っていた……」
「そうだけど」
軽く肩をすくめたティアが、じっとイシュマーの顔を見詰める。
帽子の奥の透明な水面に、自分の姿が映っているのをイシュマーは見た。
「そっちはイシュマーだったか。……傷の手当てをした礼なら、なにもこんな真夜中に行ってくれなくても構わないけど……」
ティアが、ぺた、ぺた、と
「そういうワケじゃあ、なさそうね」
「…………」
全て見透かされている。
イシュマーが息を吐いて両手を垂らす。
手に持っていたナイフの刃が、夜の闇の中できらりと闇の中で光った。
「どのみち、そんな物で私を殺すことはできないよ」
淡々と事実だけを指摘する調子でティアが言うのに、イシュマーは唇を噛んだ。
自分にはどうあがいても、目の前の相手をどうにかすることはできないようだ。
「……お前を信用することはできない」
黙り込むティアに向けて、硬い口調でイシュマーはつぶやいた。
そして、自分の足下で揺れる、ひどく古びた軍船を見詰めた。
「この船の名は、なんという?」
「……〈戦乙女号〉」
ティアは船首に掲げられた、羽付き兜の戦乙女の白い彫像を顧みて告げた。
「……いい名だな」
「そいつはどうも」
互いに熱のない口調でやりとりを交わし、イシュマーはティアを見据えた。
「私はかつて〈水精霊〉の国で、長く……軍船に乗っていたが、こんな船は乗ったことも、見た事も聞いた事もない」
「……」
「私には分かる。お前はそんな姿をしていても〈水精霊〉に違いない。……しかし、お前の船は私たちの乗る〈魔道船〉とは造りから違う。……これは、人間が使っていた軍船だ」
自分の頭上にある、帆の畳まれたマストを見上げて、イシュマーは顔をしかめる。
そうして、改めて手摺の上に腰かけるティアを見上げた。
「姿形だけではない。お前の存在そのものがちぐはぐで不条理だ」
「……随分とはっきり言ってくれる」
イシュマーが厳しく問い詰めると、ティアはただ軽く肩をすくめて見下ろした。
「……ロレッタはお前を疑ってはいるが、同時に多くの人間を見捨ててしまうほどの悪人ではないとも考えている。私は……そんな楽観的に考えられない」
イシュマーは鋭い目付きでティアを見据えた。
「お前は何者だ?一体……どういう存在なんだ?」
ティアは答えない。
これまでに数限りなくその質問を向けられてきた。
そう言わんばかりの態度で、つまらなそうに顔を逸らした。
暗い夜の海を漂う船の上で沈黙が落ちた。
重い沈黙の後、この船の主──ティアの方から言葉が発せられた。
「私も、お前も……」
イシュマーが息を詰めて見詰める先で、ティアはただ冷淡に告げた。
「こんなつまらん腹の探り合いをする為に、この平和な時代を生きているわけじゃないだろう」
「……っ」
〈水精霊〉と人間の争い──確執はもう遠い過去のものだ。
イシュマーだってそう思って今の世を生きているし、過去に囚われる同族に嫌悪に近い感情すら抱いている。
ただ──
「ロレッタの気付かない所を警戒し、彼女を守るのは、私の義務だ」
「…………」
イシュマーがうめきながら告げた言葉を、ティアと名乗る異形の船乗りはじっと聞き入っている様子だった。
そして、軽く腕を組み、イシュマーに淡々と水のさざめきを向ける。
「ロレッタの育ての親、そしてあの港の人々は救う。少なくとも私はこれから、その為にできる方策を練って、実行するつもり」
「それは約束する」とティアが淡々と答えるのを、イシュマーは拳を握り締めて聞いた。
それで満足しておけ、と言わんばかりに口を
何歩か後ずさってから背中を向け、イシュマーは無言で船内へと向かった。
「明日の朝には、船を動かす」
すると、背中からティアの声が追って来た。
「それまでゆっくり体を休めるといい。……よい夢を」
そう皮肉交じりに告げる異形の船乗りの声を、イシュマーは黙って聞いていた。
頑なで冷ややかな壁を突き崩せず、すごすごと引き下がる自分が酷く情けない自覚はあったが──
それでも、あの呪われた〈水精霊〉は自分の手に負えない予感があった。
自分たちのことを考えても、〈翠緑の港〉の人々のことを考えても──
そして、ロレッタのことを考えても──
今は、素直にあの得体の知れない存在に従うしかなかった。
イシュマーは包帯を巻かれた自分の背中をさすりながら船内へ戻った。
そのまま自分の部屋へ戻ろうとしたが、少し考え直して、そっと隣のロレッタの寝室の扉を開き、のぞき込んでみた。
吊られたハンモックの上に、ぐっすりと深い眠りに落ちる少女の姿が見えた。
あの、得体の知れない呪われた〈水精霊〉の謎を解き明かすとしたら、ただ一人、この勝ち気で果断な女の子なのかもしれなかった。
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