第二話 呪われし船乗りティア
腰が抜けて立てない様子のロレッタを見下ろした、その水の塊。
しかしその存在には確かに外界と隔てられる輪郭があった。
それは、しなやかな体付きの女性の肉体の線を保っている。
背中にかかる長い髪らしき流れも形作られていて、ちょうど毛先がなびくようにふるふると揺れている。
動きを止めると、美しい女性の体の線が明瞭に浮かび上がってきた。
ロレッタは思わず、どきまぎとしてその姿を見詰めていた。
ぶくっ、とその口元に当たる部分に泡が立って、ため息のような声がもれた。
──いや、本当にため息を吐いたのだと気付いて、ロレッタ目をしばたいた。
すると、その女性の形をした水の塊は、樽から長い脚を片方ずつ下ろして、ロレッタに歩み寄る。
ほっそりとした手が差し伸べられて、ロレッタは何度も目をしばたいた。
「あ、ありが、とう……」
本当につかめるものなのかどうか。
そこからまずは疑問だったが、ロレッタはひとまず礼を言ってその手をつかんだ。
ひやりとした水の塊がロレッタの手に触れた。
握り締めると確かな感触と共に指が一本一本、自分の指に絡んだ。
「ほら」
そのまま意外と強い力で引き立たせられる。
ロレッタが立ち上がるのを見て、水の塊はぺたりぺたりと湿った足音を立てて部屋を横切っていく。窓から差し込む光に、その表面がきらりと輝いた。
ロレッタは改めて、あの水の塊につかまれた自分の手を見下ろす。
水びたしになって濡れている、という感じではない。
わずかな湿り気が残っているだけだった。
ロレッタが目を向けると、あの人の形をした水の塊は両足に頑丈そうな革のブーツを、足先から流し込むような感じで履いている。
まさしく流し込むといった感じで、かすかな水音がロレッタの耳に届く。
それから今度はその手に革手袋をはめる。
これも指先から流し込む、といったような仕方で装着していた。
ブーツと革手袋をその水の塊が身に着けると、歩くのも、物に触れるのも、それでもっと確からしい印象になった。
革手袋を手に馴染ませるように、ぎゅっと握り込んだ後で、その水の塊は、今度は壁に掛かっている衣服を手に取った。
そこからは人間と大差ない手順で衣服を身に着けていき、古びたコートを羽織り、最後に頭の上に帽子をかぶせた。
そうすると、紛れもなく昨日の夜、〈翠緑の港〉で見た船乗りの姿になった。
「いつまで見ているの?」
「あっ、えっ……」
放心したようにその様を見詰めていたロレッタだが、声を掛けられ背筋を伸ばす。
ロレッタが想像もしなかった存在が目の前にいる。
しかし、ちゃんとこちらと意思疎通のできる相手で、言葉も通じる。
昨夜の窮地では自分を救ってくれて、負傷したイシュマーも救ってくれた。
ひとまず彼女……彼女は味方で──
──今、自分はその力を借りないといけない立場にある。
ロレッタは胸に手を当て、一つ息を吐いた後で、その水の塊と向き合った。
「あたし……あたしの名前はロレッタ。ロレッタ・カドゥム」
「……で?」
ロレッタと向き合ったあの船乗りが腕を組み、自分を見下ろすのに、ロレッタはぐっと顎を引いて、整った顔の輪郭が浮かび上がる水面を見詰めた。
「あなたと、話し合いたいことがある」
〇
ロレッタが告げると、その船乗りは部屋の隅で埃をかぶっていた椅子を見る。
それを革手袋をした手で埃を払い、ロレッタへと差し出した。
ロレッタがうなずいて腰かけると、その不思議な船乗りは海図の貼られた机の端にそのまま腰かけて、腕を組んでロレッタと向き合った。
「あなたも……人から呼ばれる名前は、あるんでしょう?」
ロレッタが尋ねると、その船乗りはうなずいた。
「ティア……」
そう名乗った後で、ぽつりと付け足す。
「人からそう呼ばれた事は、ここ十年ほど絶えてなかったが」
「そう、ティア、それで……」
お互いどう呼び合ったらいいか分かったが、のんびりしている時間はない。
ロレッタは早速、本題を切り出す為に口を開いた。
しかし、その水の塊のような肉体を持った船乗り──ティアは即座にかぶりを振って、ロレッタを遮った。
「〈
「……えっ?」
「というより、そんな物はそもそも今、この世に存在しない」
出鼻をくじくような頑ななティアの声に、ロレッタは言葉を失った。
「でも、あの海賊……〈傷痕の男〉は、あなたが知っているはずだって……」
「〈生命の泉水〉……かつてそう呼ばれる霊薬があったのは、確かだ」
ティアはなおも淡々とした態度でロレッタに説明する。
「しかし、それはもう今のこの時代、海の上の何処を探しても見つからないだろう。あるとすれば」
「あるとすれば……?」
ロレッタが鸚鵡返しに尋ねると、ティアは革手袋の人差し指を一本立てて、それを下に──
揺れる船の更にその下を指し示すように、下へと向けた。
「人の手の決して届かない、深い海の底だ」
〇
口をあんぐりと開けて言葉をなくすロレッタに、ティアは再び腕を組んだ。
「確かに、私は以前、〈生命の泉水〉と呼ばれる不老不死の霊薬を目にしたことがある。しかし、それは今からかなり遠い昔の話で、今は深い海の底に沈んでいる」
「引き揚げる術はない」と、断言した後でティアはその顔の水面にロレッタの唖然とする顔を映して、のぞき込む。
「仮に、引き揚げる術があったとしても、私はそんな事に手を貸さないし、あの〈傷痕の男〉のような悪人に、絶対に渡すつもりはない」
「そんなの……」
ロレッタは絶句しかけたが、意志を奮い立たせて膝の上で拳を握った。
「……大勢の人の命がかかっているのよ?あの港町、あたしの育った場所。あたしのたった一人の家族……父さんの命も懸かってる」
ロレッタも引くわけにいかない。
への字に口を引き結んで、自分の顔を映し込んでいるティアの顔面を睨んだ。
「あたしを助けたあなたには、あたしの意志を尊重する責任があると思うけど」
ロレッタが揺れる船の床の上で踏ん張って向かい合う。
すると、腕を組んで黙っていた異形の船乗り──ティアの口元で、また、ぶくりと泡が一つ立った。
「ロレッタ、お前は随分とずけずけと物を言う」
「それが、どうかした?」
ロレッタが腰に手を当てて胸を張ると、ティアが顔を上げた。
「私が怖くはないのか?」
ティアの質問は簡潔で直接的だった。
ロレッタは一瞬怯んだが、ここで嘘をついても意味がない。
「……怖いよ。正直、どういう存在か分からないあなたの事も、そんなあなたに、自分の命も……生まれ育った土地の人たちの命が懸かってるこの状況も、怖くてたまらない」
ロレッタは一息にそう言って、改めてティアの、自分の顔が映り込む顔を見た。
「でも……怖がったり怯えたりしている暇なんて、ないんだから」
それを聞いて、ティアはふと、ロレッタから顔を逸らした。
「……あの男は、ロレーナの言う事を守ったのか……」
「なんの話?」
「こっちの話だ」
ティアが淡々と言い返して、また、ぶくりと一つ泡を立てて──ため息を吐いた。
「……私としても〈傷痕の男〉をこのまま放置するつもりはない」
「なら……」
「だが奴の要求を呑むわけにいかないし、私一人の力で奴を出し抜くこともできそうにない」
「あの男は私の想像以上の準備を整えてきた」と、ティアは用心深く告げた。
腕を組んで、机の上をの海図を見下ろしたティアは、その海図の上に視線をめぐらせている様子だった。
「だから、私たちの側にも準備が要る。……助けがいる」
「助け?」
「そうだ。今この近くで頼れるアテがあるのかどうか考えている」
ティアの言う事は正直、ロレッタには少しも分からなかった。
しかし、どうやらあのまま〈翠緑の港〉を見捨てることだけはなさそうだ。
ひとまず、そう信じるしかない。
「ねぇ、その助けっていうのは……」
「今はまだ説明できない。しばらくこの部屋には立ち入らないで」
ロレッタはなおも会話を続けようとしたが、ティアはにべもなくかぶりを振った。
「そんなわけ……!」
ロレッタは食い下がって椅子から立ち上がった。
そのままティアに詰め寄ろうとすると、彼女が水の流れのように──というより、水の流れそのものの滑らかな動きで掴みかかろうとしたロレッタの手を取った。
そのまま、するするとティアの体に包み込まれて──
──気が付けば、船長の部屋から甲板へと突き出されていた。
呆気に取られている間に、ばたん、と音高く船長の部屋の扉が閉ざされた。
「ちょっと!話はまだ終わってないよ!」
ロレッタはばんばんと音高く扉を叩いたが、部屋の中から反応はない。
そうこうしている内に、ふと耐え難い空腹感と共に目の前が回った。
どうにか踏みとどまり、ロレッタはよろめきつつ声を張り上げた。
「せめて、食事くらいは出して欲しいんだけど!?」
そういえば、昨日の朝からまともに食事を取っていない。
割と切実な問題に行き当たってロレッタがわめくと、不意に目の前の扉が開いた。
「これで自分で調達しろ」
そう投げ出すようなティアの声が聞こえて何かが飛んでくる。
桶と釣竿だった。それが、ぽいっとロレッタの目の前に投げ出された。
そのままばたんと扉が、ロレッタの目の前で閉ざされる。
ロレッタはぷるぷると拳を震わせて──
──「なによーーーーーーーっ‼」
扉の前で、だんだんっ!、と音高く甲板を踏み鳴らし続けたが、再び目の前の扉が開くことはなかった。
〇
それ以上、扉の前で駄々をこねるわけにもいかなかった。
ティアとかいう、あの異形の船乗りに対する怒りを抱えたままロレッタは甲板から釣り糸を垂らした。
あの薄情な水の塊をどうしてくれようか──
そんなティアへの怒りで頭がいっぱいになって、釣りどころではない。
だというのに、皮肉なことに気が付けば桶がいっぱいになる位に魚がよく釣れた。
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