第三章 呪われし水精
第一話 船上にて
ロレッタは小さな桟橋の上から釣り糸を垂れていた。
波にぷかぷかと浮かんでいるウキを見ながら竹竿を握り締めている。
すると、隣で同じように釣り糸を垂れていた父が語りかけてきた。
「まだ釣れそうにないか?」
父の
それにひきかえ、ロレッタの釣果はまだ一匹たりとも釣り上がっていない。
せっかく漁師によく釣れる仕掛けを教えてもらったのに──
ロレッタが頬を膨らませると、父は穏やかに笑った。
納得がいかず、ロレッタは父を振り返る。
同じ場所で同じ仕掛けで釣っているのに、どうしてこんなに差があるのか──
どうしても
「前にドロゴじいさんから聞いたんだがな、魚を釣ってやろう、大漁にしてやろう、って考えていると、それを魚に見透かされてしまうんだそうだ」
なにそれ──
父がのんびりと答えるが、ロレッタはなおも納得がいかなかった。
釣りをするなら魚が釣れないとつまらないし、大漁だと気分がいい。
当たり前のことだと思う。
不満げなロレッタを横目に見て、父はなんだか楽しそうだった。
「確かにな。……俺も若い頃は釣りをするんなら、魚を釣ってやるのが当然だと思っていたよ。大漁になれば気分がいいのも、確かに当たり前のことだ」
父は、そうではないような口振りだった。
ロレッタは不思議に思って首をかしげた。
ロレッタが見詰めていると、父は「そうだな」と淡く微笑んだ。
「今はそうだな……そうでもない。魚が釣れなければ誰かに分けてもらえばいいし、大漁になっても結局、俺とお前が食べられる分だけあればいい」
「俺にとっては、今こうしている時間の方が大事だ」と、父がつぶやく。
父の言葉はロレッタにはなんだかよく分からない。
ロレッタがなおも不機嫌そうに「父さんだけずるい」と言うと、とうとう父は声を上げて笑い出した。
「ロレッタ、お前はまだそれでいい。魚を釣る為に釣りをして、釣れたら釣れるだけ気分がいい。……それでいいんだ」
父が満足げにうなずいているのに、ロレッタは逆に不満だった。
父の言うことは全くもって分からないし、ロレッタの竿に魚が釣れる気配は相変わらず皆無だった。
だというのに、父は微笑ましげにロレッタを見下ろすのだった。
「うまくいかなくても、がむしゃらに何かを追い求める時間はあっていいんだ。ロレッタ、それは、今はまだお前に許されている特権なんだ」
そう──今は、まだ。
〇
ロレッタは揺れる船の上で目を覚ました。
自分の体は柱から吊り下げられたハンモックの上に横たえられている。
目の前には古い黒ずんだ天井かかすかに軋みを上げて揺れていた。
打ち付けられた板の隙間から、外の陽射しが差し込んできている。
先ほどまで見ていたありし日の穏やかな夢の
ロレッタはまぶたを擦った。
ハンモックの上から、ロレッタはそろそろと片方ずつ足を床に下ろした。
古い船だ。一歩踏み出すごとに、足元の板がぎいっ、と軋んだ音を立てた。
ロレッタが今いる船室は、長い間使われていないようだった。
備え付けの棚や机があるだけの小さな船室だ。
殺風景で埃の臭いがする。だが、酷く汚れたり荒れているわけではなかった。
ロレッタはかすかに開いていた扉を、ぎぎいっと軋んだ音を立てて開いた。
「イシュマー……誰か、いる?」
昨晩、気を失う前の記憶を思い起こして、ロレッタはささやくように呼びかけた。
少なくとも、イシュマーは行動を共にしていたはずだ。
あの、わけの分からない水の塊みたいな船乗りが何かしているのでない限り。
(あいつ……何者なんだろう?)
昨晩は目の前の出来事に無我夢中で考える余裕がなかったけれど──
〈
──なにより、あんな姿をしているのに、どうやらロレッタの味方のようだ。
(いや、全然、信用できる相手かどうかも分かんないけど)
ひとまず無事に、この船──あの、古い船まで連れてきてくれた。
イシュマーのことも助けてくれていたら、いいのだけど。
そう思いながら、隣の船室の扉を開けて、のぞいてみる。
すると、そこに掛けられたハンモックの上にイシュマーの姿があった。
「イシュマー!」
思わず大きな声を上げて、走り寄る。
イシュマーは普段より青白い顔をして横たわっていたが、眠っているようだった。
背中の傷をのぞき込んで見ると、手当てがされて清潔な包帯が巻かれている。
どうやら無事のようで、ロレッタはほっと胸をなでおろした。
穏やかな寝息を立てている美貌の〈
イシュマーを手当してくれたのは、あの水の塊のような船乗りだ。
他に考えられる相手がいないのだから、当然のことで、だとすれば──
(味方……とは言い切れないかもしれないけど、やっぱりあたしたちを助けてくれるつもりは、ある、のよね)
それなら、今度はロレッタのやる事は決まっている。
この船の主──あの異形の船乗りに会うのだ。
〇
甲板に出てみると、船は穏やかに凪いだ海の上に浮かんでいた。
帆は相変わらず畳まれていたが、今は碇が海底に下ろされその場に留まっている。
近くに陸地は見当たらない。
水平線は霞がかって見てとることはできなかった。
鳥の鳴き声が聞こえてきてロレッタが頭上を振りあおぐ。
帆桁の上に数匹のカモメが止まって、羽を休めていた。
他に動くものの姿はない。
その古い軍船は日の光の下、波間に穏やかに揺れていた。
「あいつがいる、としたら……船首の方の部屋、かな」
甲板から続く扉に視線を移して、ロレッタは独り
ロレッタは波に上下する甲板を一歩ずつ、おそるおそる船長が使っているであろう部屋の扉に近づいていく。
扉を軽く叩いて、一応声を掛ける。
「ねぇ……誰かいる、の……?」
夜の闇の中、自分の見たあの船乗りの姿は幻だったのかもしれない。
そう思いつつ扉を開くと、そこはロレッタの思った通り、船長の使っている部屋らしかった。
机の上に海図が広げられている。
ロレッタも読み方は一応学んでいるのでのぞき込んでみると、この船は〈
(あの海賊は、〈生命の泉水〉とかいう霊薬を持ってくるように……それが父さんや〈翠緑の港〉の人たちの命と引き換えだって言ってた)
ロレッタは大陸南岸の海岸線と、大小の島々が点々と広がる海の描かれた海図を眺めた。
「こんなに広い海のどこにあるかも分からない、いや、本当にあるかどうかも分からない、その薬を探さなきゃいけない。……しかも、十日間っていう短い間に」
本当に、そんなことができるのだろうか。
できなければ──父も、〈翠緑の港〉もタダでは済まないのだ。
自分の肩にかかる多くの人の命、たった一人の家族の命。
その重みにロレッタは唇を噛み締めた。
そうして、ふと机の上に広げられた海図から顔を上げると──
──「ん?」
この船室にそぐわない物が、部屋の奥にあるのに気付いた。
〇
でん、と部屋の奥に置かれた異様な存在感を放つ、大きな樽。
「?なんで、こんな物がこんな場所にあるんだろ……?」
それもただの樽ではない。
ロレッタが丸々中に入ってもまだ余裕がありそうな、大きな樽だった。
つま先立ちになって、背筋を伸ばしのぞき込んでみる。
樽の中には海水がひたひたと波打っている。
大量の海水が入った、大きな樽。
それが、なんでわざわざこの船室に置いてあるのか──
ロレッタが首をかしげた時だった。
「ん……?」
不意にその樽の中身から泡が一筋浮き上がり、揺らしてもいないのにひとりでに水面が波立ったかと思うと──
──「うぎゃあああああああああっ!?」
突然、中に何も入っているように見えなかった樽の水の中から、ざばあっ!と激しい水音と飛沫を立てて、何かが飛び出してきた。
唐突に思いもよらない事が目の前で起こって、ロレッタは盛大に悲鳴を上げる。
「……悲鳴を上げられるのには慣れているけど」
海水に濡れた樽の上から、呆れた調子の、水面のさざめきのような響きを帯びた声が、床に敷かれた絨毯の上に倒れ込むロレッタに向けられた。
ロレッタが樽の上を見上げると、そこに──
「そんな盛大に叫ばれるとは思わなかったな」
そこに、人の形をした水の塊、としか形容できない存在が腰かけ、ロレッタを見下ろしていた。
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