第三話 絡み合う因縁の糸

 **


 ロレッタは念の為に灯台から一度、家に戻る。

 しかし、やはりそこに父が戻ってきた形跡はなかった。


 ロレッタはがらんとした家の中を見詰めて、無言できゅっと唇を引き結んだ。


 「ロレッタ」


 イシュマーが気遣うように自分の肩に触れるのに、ロレッタは振り返った。


 「……あたし、今朝、父さんと顔を合わせたくなくて、仮病を使った」

 「そうだったんだね」

 「父さん、きっとあたしと話し合うつもりだったんだと思う。朝ご飯にあたしの好物を用意して……色々と気まずかったの……謝ろうと……」


 次第に赤い色を帯び始める夕陽に照らされる、誰もいない空っぽの自分の家。

 ロレッタは出し抜けに胸の奥から込み上げてきた熱い塊にうつむいた。


 「父さんと話したの……あれっきりで。もし、あたし、このまま……」

 「ロレッタ」


 しゃくり上げるような声が口からもれて、ロレッタは堪えようとした。

 イシュマーが励ますようにそっと、ロレッタの肩に置いた手で優しくさすった。


 「そんな風にはならない。港まで様子を見に行って、そこにカルドスもいるはずだ。カルドスだって、ロレッタを置いてわざわざ危険な目に遭ったりしない」


 言い聞かせるように言うイシュマーの声に、ロレッタは何度も鼻をすすった。

 目尻に浮いた涙の粒を、ロレッタは手の甲で拭った。


 「……ごめん。こんな所で泣き言を言ったって、始まらないよね」


 ロレッタは一つ息を吐いて、そっと家の扉を閉ざした。

 そして、未だに張り詰めた空気の漂う港の方角を振り向いた。


 港に上がっていた黒い煙は、今はひとまず鎮火して収まっているようだった。

 しかし、港には相変わらずあの黒い帆船が留まり、剣呑な空気が漂っている。


 「あれが海賊の船だっていうなら……男の人たちは港を守ってる、はずだよね」

 「カルドスは船大工の棟梁だ。港町の主だった面々が事態の対応に当たっているはずだよ」


 ロレッタは状況を確認してひとまず気持ちを落ち着かせた。

 家を囲む石垣から外へ出て、港町に続く坂道へと向かった。


 そこへ──


 「ロレッタ!よかった、家にいたんだ!」

 「っ!?ローダン!」


 港町の方から駆けて来る幼馴染の少年の姿に、ロレッタは声を上げた。


 **


 〈翠緑の港ポートエメラダ〉の町が夕闇に包まれる。


 港の混乱にまぎれて町の路地裏に身を潜めたカルドスは、大きく肩で息を吐いた。

 そして、向かいの暗がりで古びた帽子を被り直す、その船乗りを見詰めた。


 間違いない。


 十年前の嵐の日、〈大鮫号〉から嵐に乗じて脱出しようとした自分の前に現れた、あの不思議な──幽霊船の船長じみた船乗りだった。


 ここに来るまで〈傷痕の男〉の一味にも、〈翠緑の港〉の住民からも身を隠してこの謎めいた船乗りと逃れてきた。


 自分たち以外に周囲に人影はない。

 カルドスは覚悟を決めて、ゆっくり口を開いた。


 「あんた……どうやって、あの場に乗り込んできた?」

 「…………」

 「船の上には水飛沫しかかかってこなかった。誰かが乗り込んでくれば〈大鮫号〉の船員が気が付いたはずだし……それに……」


 次から次へと疑問が湧く。カルドスは混乱しつつ不思議な船乗りを問い詰めた。


 「そもそも……そもそもあんたは何者なんだ?〈水精霊ニンフ―〉なのか?……あれだけ大きな船をたった一人で動かせる、強力な……そんな奴がいたのなら、必ずどこかで名前が……」


 ──「それは……」


 すると、不意に目深に被った帽子の奥から船乗りの声がぼそりと声が聞こえた。


 「それは今聞かねばならないことなの?」

 「いや……」

 「それ以上に重要なことが山ほどあるはず」


 ぼそぼそとした低い声だったが、水のさざめきのような不思議な響きを、カルドスは確かに覚えている。あの嵐の夜に出会った頃と、全く同じだ。

 

 「お前は……」


 暗がりの中に身を潜めた船乗りが、自分を振り返るのにカルドスははっとした。


 「十年前、ロレーナと一緒に逃げた……あの海賊船の、銛打ちだな?」

 「……ああ、そうだ」


 次第に濃くなる闇の中から水面のさざめくようなあの不思議な声が聞こえる。

 カルドスは覚悟を決めて、ゆっくりとうなずいた。


 「ロレーナはどうした?」


 夕闇の中、かすかにうつむく相手の姿が見えて、カルドスは目をしばたく。


 「ロレーナ……あの人は、あの後すぐに、俺に自分の赤ん坊を……ロレッタを託して、死んだよ」

 「……そう」


 闇に身を沈める船乗りの口元から、ぶくっ、とあぶくが立つような音が聞こえた。

 ため息を、吐いたのかもしれない。


 「赤ん坊は、彼女の子供はどうなった?」

 「……この港に一緒に戻って、俺の娘として育てている」

 「今は?」

 「今もこの町にいる。町の方で避難の準備を進めているはずだ」


 それを聞いて、相手の船乗りは何か思案するように首をかしげた。

 注意深く暗がりの中に身を潜めるその相手の姿を、カルドスはしかと見定めることができなかった。


 「何か、問題があるか?」

 「いや……多分、私の気のせいだろう」


 「それより」と、深まる闇の中であの不思議な船乗りは改めて港の方角を見た。


 「〈傷痕の男スカー〉はお前を……お前と一緒に逃げた、ロレーナ、そして娘のロレッタを狙ってこの港へ来た」


 それを聞いて、カルドスは腹の底から息を吐いて、ずるずると背中から路地裏にうずくまりそうになった。


 分かり切っていたことだが、気力を総動員してぐっと踏みとどまる。


 「あれからも、奴はお前やロレーナの消息を探っていたようだ。私も奴を食い止めようとしたけど、神出鬼没でこれまで足取りを捉えることはできなかった」


 「此処に姿を現した奴は」と、謎めいた船乗りは路地裏の闇の奥から、港に泊まる〈大鮫号〉に顔を向けた。


 「万全の準備を整えてきたはずだ。……油断はできない」


 それを聞いて、カルドスはぐっと顎を引いてうなずいた。

 〈傷痕の男〉、かつての〈鮫の歯の男シャークトゥース〉は残忍で冷酷で、それ以上に周到で用心深い男であった。


 今、ここで対決すると決めた以上、こちらも闇雲に戦うわけにいかない。

 そして、なにより──


 「町の者を……巻き込むことはできない」

 「分かっている」


 船乗りが腰に差した舶刀カットラスの鞘をカルドスは見詰めた。

 カルドスが釘を刺すように告げると、船乗りの方も腕を組んで肩をすくめる。


 「〈傷痕の男〉を、狙うべきだ」


 カルドスがぼそっと告げる声に船乗りがこちらを振り向くのを感じた。


 「船員は船長のあの男を恐れて従っているだけだ。船員を恐怖と暴力で従えて、それがあの男のやり方だ」

 「……なるほど」


 実際に、〈傷痕の男〉の支配する船にいたカルドスの言葉に納得した様子で、その船乗りはうなずいた。


 「……あんたがぎりぎりの所で奴の足取りを掴んでくれて、助かった」


 〈大鮫号〉が〈翠緑の港〉を攻めたこのタイミングでこの船乗りが現れてくれた。

 カルドスは〈大陸正教会〉の信徒ではないが、〈方舟の主〉の思し召しとあらば、感謝の祈りを捧げたいくらいだった。


 路地裏を出て行こうとしたカルドスの手を、路地裏の暗がりから伸びた手が引き留めた。


 「ちょっと待って」


 鋭い声音に息を呑みながら、カルドスは振り返る。

 暗がりから姿を現した船乗りは古い帽子を目深に被って、その素顔を見せない。


 「お前が私を呼んだのではないの?」


 「あのオルゴールを使って」と船乗りが問い詰める声に、カルドスは呆気に取られたまま、首を左右に振った。


 「違う……俺はそんな事はしていない」

 「〈傷痕の男〉が現れたから、私を呼んだのではないのか?ロレーナから聞いて」


 深刻な意思疎通の齟齬が生まれているのに、カルドスも、その船乗りも気付いた。

 カルドスは何度もかぶりを振って、必死に考え込む。


 「ロレーナからは、あのオルゴールは必要な時以外に使うなと言われて……。普段は物置に入れて、ロレッタにも手の届かないようにしていた」


 カルドスは食い入るように自分を見詰めている船乗りの視線の先で、額に手を当てて、思わずうめく。


 「ただ、時折、壊れたりしていないかだけ確かめて、昨日も……」


 カルドスは記憶をたどって、そして──


 そして、自分の不注意に、今になって気が付いた。


 「まさか……ロレッタが……?」


 カルドスはそれに気付いてとっさに、港町の方角へ坂を駆け上がろうとした。

 しかし、それをひやりとした体温のない手であの船乗りが引き留めた。


 「待て。残念だけど、私はこれ以上、海から離れられない」

 「なに……?」


 カルドスは困惑して相手を見返したが、その船乗りは切実な態度だった。


 「今は〈傷痕の男〉と決着をつけるのが先決だ」


 「その後でいい」と、謎めいた船乗りはカルドスに暗がりの中から一歩詰め寄る。


 「私をその娘に……ロレーナの娘に、会わせてくれ」


 カルドスは困惑しつつも、その真剣な調子に断り切れずうなずいた。

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