第二章 〈翠緑の港〉の攻防

第一話 傷痕の男

 桟橋に着けられた〈大鮫号〉の威圧感をある船体をカルドスは見上げた。


 若い頃、数年間の時を過ごした船だった。

 だが、今こうして間近に見ても懐かしさや愛着といった感慨はない。


 ただ──苦く黒い後悔だけが胸のうちでひたひたと波打っていた。


 カルドスは港の入り口と詰所の方をちらりと振り返った。


 そこには〈翠緑の港ポートエメラダ〉の男たちが控えている。

 何かあればすぐにでも乗り込んでくる構えだが──


 (そんなことになったら、住民たちは絶対に無事ではいられない)


 海賊の末裔などといっても、もう今の住民たちは平和な時代を一生を通じて過ごしてきた世代だ。武器を手に持ったことすらない者が大半だろう。


 カルドスは〈大鮫号〉の着けられた桟橋の上に、ぎしっと板を踏み締めながら進み出た。


 (〈鮫の歯の男シャークトゥース〉が、絶対にタダで済まさない……)


 彼がその気になれば〈翠緑の港〉一つを火の海にする位、なんとも思わない。

 この場は自分が命に代えても、収めなければ──


 カルドスは拳を握り締めて〈大鮫号〉の甲板に掛けられたタラップを一段ずつ、ゆっくりと登っていった。


 〇


 カルドスはあの嵐の夜以来、初めて〈大鮫号〉の甲板に立った。


 甲板の中央には装飾の施された椅子が出されていた。

 鮮やかな南国の鳥の尾羽の羽飾りの付いた帽子を被った、痩身そうしんの男が椅子に、悠然と足を組んで腰を下ろしていた。


 「……こいつぁ懐かしい顔だ」


 椅子に腰かけた痩身の男が組んだ足を外して、カルドスに向かって身を乗り出す。


 その周囲を固める船員たちは、カルドスを剣呑な目付きで見ている。

 全員が見覚えのない相手だったが、こちらの素性は分かっているのだろう。


 「あの嵐の夜以来だから、いやはや十年ぶりか。まさか良さそうな港でこうしててめぇと再会できるとは思わなかったぜ、カルドスよぉ」


 「今ぁ、何やってんだ?」と、表面上は親しげに、白々しく男は問うた。

 カルドスは眉間にしわを寄せて口を開いた。


 「……ここで、船大工の棟梁をやってる」

 「おお、なんとまぁ……。そういや意外と手先は器用だったなぁ。壊れた道具やなんかもぱっぱとに修理しちまってよぉ」


 「出世したもんだぜ……」と含み笑いの声を立てる男をカルドスは見詰めた。


 「〈鮫の歯の男〉。何をしに来たか知らんが、こっちはあんたと争うつもりはない。水でも食料でも持っていけ。……金が必要だってんなら、俺が用立てられるだけ用意する。だから……」


 ──「勘違いすんなよ、銛打ち野郎」


 交渉を切り出そうとすると、ひじ掛けに頬杖を突いた男が鋭く言い放つ。

 カルドスは、ひやりと鋭い鮫の歯が自分の喉元に当てられたように感じた。


 痩身の男は、腰に差した舶刀カットラスの鞘を、その存在を誇示するように、とん、とん、と指先で叩いた。


 「交渉の余地なんざねぇ。……分かってんだろ?俺がてめぇなんぞを捜し回ってた理由も、俺が何を求めてるかってのもよ」


 羽飾りの付いた帽子の下から黒い目がのぞくのに、カルドスは息を呑む。


 「てめぇが俺から奪ったお宝をよ、返してもらうぜ、カルドス」

 「〈鮫の歯の男〉……」

 「ああ、そうそう、あとよ……」


 「その名はとっくに捨てたよ」と、痩身の男はコートを揺らして立ち上がった。


 かつてカルドスを暴力と恐怖で支配したその男が一歩ずつ近づいてくる。

 間近に立つと、額に汗を滴らせるカルドスの顔をのぞき込む。


 「今、俺ぁこう名乗ってんだ」


 有無を言わせぬ声にカルドスが顔を上げると、目の前に醜い傷跡を左頬に残したその男の顔があった。


 「〈傷痕の男スカー〉ってよ」


 片頬に残った、ずたずたに切り裂かれた醜い傷痕を歪めて、男は笑った。


 **


 あの黒い帆船の起こしていった波に巻き込まれ、小舟から落ちたロレッタは、どうにか海面から顔を突き出した。


 「ぷはぁ!」


 詰めていた息を吐いて、新しく空気を肺に取り込む。

 そうして、素早く周囲を見渡してすぐ傍にひっくり返った小舟があるのに、必死になってすがり付いた。


 完全にひっくり返っていた小舟だが、辛うじて浮いてはいる。

 波間に揺れているその小舟につかまって海面を漂っていると、ようやっと息が落ち着いてきて、ロレッタは胸にかかえたオルゴールの箱を見下ろした。


 「よかった……壊れては、いないみたい」


 部品がなくなったり、何処かが壊れたりしているのだけないのを見て取った。

 ロレッタは息を吐く。後で水を拭って乾かす必要はあるだろうが、ひとまず──


 そう思って、改めて自分がつかまった小舟の周りをロレッタは見渡した。


 「……って、あれ……?」


 ロレッタはあの黒い帆船の起こした波がうねって、抜け出せないまま沖に徐々に流されているのに気付く。

 これってまずくないだろうか?とロレッタの背筋を冷たい痺れがはい上がった。


 「きっ、岸に……戻らないとっ」


 小舟を伝って、どうにか岸に戻ろうと船縁を押しながら泳ぐ。

 しかし、沖へと引き込まれる流れはロレッタの想像以上に強い。


 思うように進めない間に、沖の深い群青色をした海面が背中に近づいてくる。

 沖の、複雑で強い潮流に捉われたら、ロレッタの力だけではとても岸へ戻れない。


 「ふっ、んんんん~~~~~~っ!」


 ロレッタは懸命に沖へと自分と小舟を押し出す流れに抗おうと足をばたつかせた。

 しかし、船の巻き起こした水流に足を取られて、逆に引き込まれていく。

 それはとても、幼いロレッタの力では逆らいようがない。


 そうこうしている間に、とうとうロレッタは沖まで流されてしまった。


 群青色の深い海の底から海面へと噴き上がってくる、痺れるほど冷たい潮の流れ。

 その流れが、死神の手のようにロレッタの体をつかんで、更に沖へと押し流そうとした。


 その時──


 「っ、ん……っ!?」


 唐突に、暖かい水の流れがロレッタの体を包み込むのを感じた。


 その流れは優しく緩やかにロレッタの体を小舟ごと、岸へと押し流していく。

 みるみる間に、岬の灯台の下の岩場までロレッタは押し流され、気が付けば海底の岩に足が着いていた。


 何が起こったか分からないが、ひとまずロレッタは転覆した小舟を立て直し、岩場へと引き摺り上げた。


 はぁはぁ、と肩を大きく上下させ息をつきながら、ロレッタは顔を上げた。


 「一体、何が起こったの……?」


 げほげほとせき込みながら胸に手を当て顔を上げる、

 すると、沖に新たな船影が見えた。


 見上げるほどに大きな船だ。だが──


 「……帆を張ってないのに……海を進んでる……?」


 ロレッタは唖然として、その古びた船を見上げた。

 マストはあるが帆は畳まれ風を受けているようには見えない。

 だというのに、白い波を立てて快足を飛ばし、〈翠緑の港〉のある入り江へと近づいてくる。


 磨き込まれた木材が鈍く太陽の光に輝く、ロレッタがあまり見た事のない造りの船だ。多分、とても古い時代の船だ。


 船首に見える、戦乙女の彫像が日を受けて純白の光を放っていた。


 「なにあの船……誰が、乗ってるの……?」


 帆を張っていないどころか、船員の姿さえ見えない。

 丸っきり常識に合わない無人の船。まるで幽霊船だ。


 そんな船がこの昼の日中に、ロレッタの目の前を悠然と横切っていく。


 なおも注意深く見上げていると船首にただ一人、人影が見えた。


 古びたコートを身に纏った、一人の船乗り。


 船首にたたずみ、真っすぐ船の行く手を見据えるその船乗りは軍帽の奥からちらりとロレッタを振り向いた。


 灯台のある岬を行き過ぎてゆくその刹那、ロレッタは自分とその船乗りの視線が交わるのを感じた。


 謎めいた船乗りはかすかに身じろぎするような仕草をした。


 ──その時、港の方角から、突然、爆発音が聞こえた。


 ロレッタが驚愕と共に振り向くと、港の方から煙が上がっているのが見えた。


 港には先ほど、ロレッタを巻き込んでいった黒い帆船が桟橋に着けていた。

 あそこで──あの船が、港で何か騒ぎを起こしたのだ。


 「父さん……!」


 〈翠緑の港〉の船大工の棟梁であり、彼らを束ねる父も、港で何か起こったのなら、事態に対処する為にあの場にいるはずだ。


 父の身に、何かあったら──


 ロレッタが呆然としていると、沖を横切る船が、再びすっと速度を増した。

 そのままあの古い船は港の方角へと向かっていく。


 白い波を立てながら横切っていく古びた船を、ロレッタは呆然と見送る。


 「ロレッタ!?何が起こったんだい!?」


 その時、岩場の上の灯台からイシュマーが駆けてくる足音が聞こえた。

 イシュマーは波に濡れたロレッタの体を助け起こす。

 呆然としたままロレッタのずぶ濡れになった肩に、乾いた布を掛けてくれた。


 しかし、ロレッタはしばらく言葉を発することができなかった。

 目の前で立て続けに起きた出来事を呑み込めないまま、ロレッタは港から立ち昇る黒い煙を見上げた。

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