第五話 消えぬ過去の来訪
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外光の届かない、黒い波の打ち寄せる侵食洞窟の中だった。
古い軍船が一隻、太い鎖で何重にも周囲の尖った岩に繋がれ停泊していた。
船体を戒めるように太く錆びついた鎖を巻き付けられた船は岩壁に反響を繰り返す波に揺れていた。
その船の真っ暗な闇の中で、かたりと音を立てて木箱が開いた。
開いた箱の中から、物悲しくも穏やかな旋律が流れ出す。
その音色を聞いて、暗闇の中で『それ』はぬるりと身を起こした。
「……音が聞こえる」
文字通りに全身を震わせるオルゴールの音を聞いて『それ』は闇の中で立ち上がり、波に揺れる船内を静かにそちらへ歩み寄った。
「ここ十年、鳴る事のなかったオルゴールの音」
闇の中水面がさざめくような声を立てる。
『それ』は静かにオルゴールの箱を閉じると、ブーツに体を流し込んで立ち上がった。次に革手袋にも同様に手を流し込むと、ぎゅっと手指の動きを確かめるように何度か握り締めた。
そして、壁際に掛けていた衣服やコートを手に取ると、全身を覆うようにそれらを身に纏っていく。
一つ、泡が弾けるような音を立てて息を吐くと、『それ』はかつかつと足音を立てて、甲板へと上がっていった。
「あの嵐の夜以来……十年前に、なるのか。ロレーナに呼ばれたのは……」
そう言って『それ』は古びた軍帽を被り、船首に歩み寄った。
『それ』は悠然と船首に立った。
すると、その軍船を戒めるように周囲の岩に結び付け固定していた鎖がぱきんと鋭い音を立て、断ち切られた。
岩と軍船を繋いでいた鎖は断ち切られ、浸食洞窟の打ち寄せる波間に沈む。
軍船は、長い眠りから覚めるようにゆっくりと波に乗って動き出す。
船首にたたずむ『それ』は、船の行く手に見えてくる日の光──
侵食洞窟の入り口から差し込む外光へと真っすぐに顔を向けた。
**
舟に打ち付ける波の音に重なる、胸に抱きかかえていたオルゴールの旋律。
それが一通り流れるのをロレッタはまぶたを閉じ、じっと聞き入っていた。
(確かに聞き覚えがある。この曲……はっきりとは思い出せないけど……)
波に揺れる小舟が自分の体を揺らす感触。
その感触が、小さな自分の体を穏やかにゆする誰かの腕に重なるのを感じた。
(母さん、なのかな……?)
だとすれば、やはりロレッタの母親は自分を愛してくれていたのだ。
──なんで、赤ん坊の頃に死んでしまったのか、
どんな人、だったのか。
(……本当に、少しずつでも父さんに聞いておくべきだった)
切なく穏やかな旋律を聞きながら、ロレッタは苦い後悔を噛み締める。
オルゴールの旋律が途切れて、ロレッタは箱を閉じた。
「……違う。今からでも、父さんとちゃんと話さなきゃいけないんだ」
ロレッタは波に揺れる小舟の上で体を起こし、胸にオルゴールの箱を抱えた。
「色んな事を話し合って、それで母さんのこと訊かなきゃ……」
これから先の未来、ロレッタが何を為して、何処に向かうのだとしても。
まずそこから始めなければいけない事に、ロレッタはようやく気付いたのだった。
しばらく、揺れる小舟の上で膝をかかえてロレッタは気を落ち着けた。
そうして、覚悟を固めた後で、ロレッタは櫂を手に取った。
「戻ろう」
灯台に戻って、イシュマーに改めて礼を言って、それで──
──父ときちんと腹を割って話すのだ。
ロレッタがそう決意を込めて小舟を漕ぎだした瞬間だった。
不意に、ロレッタの頭上に暗い影が差した。
突然のことにロレッタは「え?」と声を上げて、影の差す方向をあおぎ見た。
黒い帆布を張った大きな、見慣れない帆船が近づいてきていた。
黒い帆船はロレッタの乗る小舟に気付いていないのか、それとも気付いていて避けるつもりがないのか、すぐそばを白い波を立てて通り過ぎていく。
黒い帆船の起こす白波が、ロレッタの乗る小舟を激しく揺らした
「……っ!」
大きな波を受け、転覆しそうな小舟の上でロレッタはオルゴールを胸に抱えた。
そのまま成す術なく黒い帆船の立てた大波に傾いた小舟の上から、ロレッタは海の上へと投げ出された。
波間に放り出される間際のことだった。
ロレッタの目に、黒い帆船の船首に掲げられた、人間さえ丸呑みにしそうな鮫の大顎の骨が日の光を受けて、鋭い光を放つのが見えたのは。
**
見慣れない、黒い帆を張った帆船が、漁に出ている小舟や漁船を蹴散らすように〈
その光景に港町は騒然となっていた。
「なんだあのでかい船」
「砲台を積んで、武装しているみたいだ。……まさか、海賊船か?」
大人も子供も海岸線や港に出て、その黒い船を食い入るように眺めている。
港の桟橋には、町長や網元などの主だった面々が集まって、深刻な表情で船影を見守っている。その輪の中に、船大工の棟梁であるカルドスも加わった。
「海賊船が来たって?……一体、どんな様子だ?」
「カルドス」
網元の男と港町の町長の老人が同時に自分を振り向いた。
カルドスはその深刻な表情を見詰めて、事態がただならぬ事を悟る。
「……本当に相手が海賊かどうかは分からん」
網元の男がたくましく日に焼けた肩をすくめてかぶりを振る。
町長の方が杖を手に取り、入り江の海を振り向く。
「しかし、見ての通りだ。連中は何の通告もなしにあのでかい船をそのまま港に着けようとしている」
町長の老人が白い眉を寄せて、杖の先を振るえる手で握り締める、
カルドスは彼らの様子を見ていたが、改めて近づく帆船へと目を向けた。
確かに──黒い帆を張った船が威圧するように、まっすぐ〈翠緑の港〉へと近づいてくる。
岬の岩場を越えて次第に船の全容が見えてくる。
その船の全容が露わになると、カルドスはぞっと背筋が粟立つのを感じた。
「あれは……」
震える自分の口元から、呆然とした声が漏れるのを、カルドスは聞いた。
網元の男と町長が、同時に自分をいぶかしげに振り返る。
「カルドス?」
黒い船体には相手を威圧するような、ぎざぎざと刻まれた紋様が見えた。
船首には、それだけ日の光を受けて白く鋭く輝く、人間を丸のみにしそうな鮫の大顎の骨が掲げられていた。
それを見て取った途端、カルドスは膝から崩れ落ちそうになった。
「おい、カルドス、どうした!?しっかりしろ!」
網元の男が肩を叩くのに、カルドスは辛うじてその場にうずくまらずに済んだ。
顔から真っ青に血の気が引いて、唇が震えているのが自分でも分かる。
それでも、どうにかカルドスは腹に力を込めて、喉から声を押し出す。
「町長……ジャス……何が起こっても絶対にこちらから手を出しては駄目だ」
「……カルドス?」
「奴らに『きっかけ』を与えては駄目だ」
カルドスは深々と息を吐いて、いぶかしそうに自分を見詰める二人の顔を見た。
「こちらから相手に手を出したという口実を奴らに与えたら……何をしてくるか分からん。港に男たちを集めて、女と子供はすぐに逃げられるように準備をさせておいた方がいい」
「何を言っているんだ?連中が何者か知っているのか?」
町長が固く強張った自分の顔をのぞき込むのを感じる。
カルドスは意を決して大きく息を吐き、うなずいた。
「あれは〈大鮫号〉……十年前、大陸南岸を荒らし回った危険な海賊の船だ」
カルドスが告げた言葉を聞いて、網元の男と町長が同時に目を見開いた。
再びあの黒い帆船へと張り詰めた視線を向ける。
「まさか……〈
網元の男が呆然として告げる声に、カルドスは大きくうなずいた。
これまで隠してきた──自分の過去が明らかにされるのをカルドスは悟った。
だが、それでも構わない。〈翠緑の港〉の人々を巻き込むわけにいかない。
「とにかく、若い連中が軽はずみな事をしでかさないように、二人で締めておいてくれ。彼らとの交渉は……俺がやる」
「カルドス……お前……」
「どうか頼む」
カルドスはそう二人に向かって深々と頭を下げた。
それから一度、その場を離れて辺りを見渡した。
すると、幸いなことに近くの人だかりに知り合いの船乗りの子供を見つけた。
「ローダン!」
その名を呼ぶと、ひょろりとした体付きの人間の少年が駆けて来た。
「カルドスさん?何があったんですか?」
普段からロレッタと仲のいい相手だ。
カルドスは少年を怯えさせないように、一度、深く呼吸を整えてからその日に焼けた顔をのぞき込んだ。
「……悪いが、ロレッタの奴を見つけて一緒になるべく遠く……人目に付かない場所にまで逃げて、隠れてくれないか?」
「えっ?それは、でも、カルドスさん……」
「すまんが説明している暇はないんだ。どうか……」
カルドスは自然とその少年の肩をすがりつくようにつかんでいた。
「あいつをこの場から遠ざけてやって欲しい。あの、黒い船の連中に、絶対に見つからないように……」
最後は懇願するような口調で、カルドスはうつむいていた。
少年がこちらを気遣うようにうなずく顔が見えた。
「……はい、あの、分かりました。ロレッタを必ず見つけて、逃げますから……」
「悪いが、頼む」
くるりときびすを返し、港を駆けていく少年の背を、カルドスは見送った。
そして、改めて港へと入ってくる黒い帆船──〈大鮫号〉をあおぎ見た。
船首に掲げられた、大鮫のずらりと鋭い歯の生えた大顎の骨。
それは、カルドス自身の消えぬ過去の業だ。
過去の水面に隠れていたそれが、今この時、カルドスの足元に忍び寄り大きく口を開いて襲い掛かってきたのだと、分かった。
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